第三話 ジャムは化け猫
猫の平均寿命は、十年前後だと言われています。食事や動物医療の整った現代では、人間の寿命が延びているように、猫の寿命も長くなる傾向にあるようです。それでも、十三年以上生き続けた猫は、やがて化け猫になると、昔から言われています。
ジャムは、今年で十七歳になる鯖色の猫。大き目の耳と長い尻尾がチャームポイントの、ごく普通の猫だ。
彼女は、わたしが生まれたその日に、記念と称してお祖母ちゃんがペットショップで買ってきた。丁度、わたしが生まれるより一時間早くペットショップで生を受けたジャムは、よくあくびをする猫で、その真っ赤な口の色からイチゴジャムを連想したお母さんに、その名前を与えられた。
人生と同じ長さだけ付き添ってきたわたしの印象からすると、ジャムはぐうたらなヤツで、女の子なのに大の字になってソファを占領する。一日の大半はそのソファの上でゴロゴロしている。夏はクーラーを効かせて、冬は暖房と、とても快適な空間でだらだらと過ごすジャムは、少しだけ羨ましい。
他所の飼い猫は、昼間の間リビングから抜け出して、どこかをぶらついてくるらしい。だけど、我が家のジャムに限っては、ほとんど引きこもりだ。なのに、全然太らない。きっと人間だったら、チビでやせっぽちなわたしより、スタイルがよくて美人なのだと思うと、更に羨ましい。
一人っ子のわたしは、ジャムのことを姉妹のように可愛がった。時には話し相手、時には遊び相手として。勿論、わたしは猫語は分からないし、きっとジャムも人間の言葉は分からないだろう。だから、いつもわたしが一方的に喋るだけなのだけど、そんな時いつもジャムは、すこし面倒くさそうにする。
「いい加減にしてよね。あたし眠いんだから」といった具合に。
猫という生き物は、意外に薄情者なのだ。「犬は三日飼えば、恩を忘れない。だけど猫は人間に媚びない」と言うけれど本当にそのとおりだと思う。擦り寄ってくるのは、わたしが彼女の大好物「煮干」を与えた時か、顎の下を撫でてやったときくらいだ。その時だけは、嬉しそうに一際可愛い声で、にゃあと鳴く。
猫なで声とは、こういう声なんだと思った。
お父さんは「そろそろ寿命なんじゃないか?」などとジャムの誕生日、すなわちわたしの誕生日が来ると、毎年のように口にする。半分冗談で、半分本気だと思う。十七年と言う歳月は、人間にとって見ればたった十七年だけれど、猫にはとても長寿と言うことになる。
しかし、当の本人は十七年の間一日も病気をしたことがなく、健康そのもので、とてもあの世に旅立ちそうにない。しかも、最近はさらにぐうたらに磨きがかかってきているようにさえ思える。
そんなジャムが、突然いなくなったのは、放課後の音楽室でわたしが藤倉瑞希から、とんでもないこと聞かされた日と、奇しくも同じ日だった。
鍵盤の一つ一つから出る音に耳を傾ける。家にある小さなピアノとは違う、本格的なグランドピアノの調律された響きは、ピアノの下手なわたしが弾いても、それなりに聞こえるのだから、不思議だ。
これと言って特技のない帰宅部のわたしにとって、ピアノを弾くのは趣味みたいなものだ。時々押さえる黒鍵を間違えて、不協和音を奏でるわたしのテクニックは、他人に聞かせるほどのものではない。
音楽室へ忍び込んでグランドピアノを弾いたのも、実はこれが初めてだった。本当は、先生に怒られやしないかと、戦々恐々として、なんども和音を間違えた。
だから、藤倉さんが音楽室に飛び込んできたとき、わたしはびっくりしてしまった。彼女は体操服のまま、汗も拭わずに、じっとわたしの方を見つめていた。
「どうしたの? 慌てて」
出来るだけ笑顔を作って、尋ねると藤倉さんは驚いて、でもがっかりして、困ったような顔をした後、急に青ざめた。見ているこっちとしては、百面相みたいで楽しい。
藤倉さんとわたしは一度も同じクラスになったことのない、ただの同級生だった。彼女はわたしのことを知らないみたいだったけれど、わたしは彼女のことを知っていた。藤倉さんとは同じ中学校の卒業生で、彼女はその頃から陸上部のエースとして、学校中の話題を集めていた。
そんな彼女は中学二年のころ、交通事故に巻き込まれた。一時は陸上部への復帰は不可能かもしれないと、大騒ぎにもなった。ところが、彼女の怪我は思ったほどひどいものではなく、こうして高校生になった今も、陸上を続けている。
高校陸上のホープ藤倉瑞希のことをわたしが知っていても、何の変哲もない同級生のわたしのことを藤倉さんが知らないことは、無理もないことだった。
だから、彼女と口を聞いたのも顔を合わせたのも、それが最初だった。
藤倉さんは、何だか自問自答するように小さく呟くと、わたしの方に歩み寄ってきた。
「あの、あのね。今から言うことは、とても変なことだと思うし、信じられなくて笑っちゃうかもしれないけど、本当のことなの。だから聞いて欲しい」
彼女はそう前置きすると、わたしにとんでもないことを話し始めた。冗談で言っているのか、それともわたしをからかっているのか、真意は測りかねたけれど、彼女の真剣な眼差しは、嘘をついていないとわたしに感じさせた。
彼女の言を要約すると、なんでも彼女は事故のせいで、人の寿命が分かるのだそうだ。丁度、わたしの頭の上に、緑色のデジタル表示が浮いていて、それが残りの人生の時間を表している。
それを彼女はカウントダウンと呼んでいた。
そして、わたしの寿命は後残り四時間半しかない、四時間半後には絶対死んでしまうと、藤倉さんは言い切った。
「何か心当たりはない? 病気は? 怪我は?」
藤倉さんは必死だった。だけど、心当たりなんてない。健康に気を使っているつもりはないけれど、ジャムと同じくわたしも健康そのものだ。これと言って大病を患ってはいない。とすれば、事故に逢うというのだろうか。だけど、四時間半後、わたしは家でテレビを見ているだろう。
予期せぬことでも起こらない限り、四時間半後にわたしが死ぬというのは、寿命が分かるという藤倉さんの話と同じくらい、現実味がない話だった。
「わたしに出来ることだったら何でもするよ」
まさか、いつも遠くから見ていた人に、そんなことを言われると思ってもいなかったわたしは、何だか気後れしてしまった。
「あ、ありがとう。心当たりはないけど気をつけてみるね、藤倉さん」
「あれ、わたしのこと知ってるの?」
わたしが彼女の名前を呼んだことに驚いた藤倉さんが言う。わたしは少しだけ笑って、
「有名人だからね」と返した。
本当は、藤倉さんってとっつきにくい人かと思ってた。陸上部のエースからしてみれば、わたしなんて沢山いる生徒の一人だと思っていた。そんな彼女がわたしのことを気にかけてくれるのは嬉しいと、夕陽に顔を染めて、ちょっと恥ずかしそうに笑う藤倉さんを観て思った。
「全校生徒の皆さん、直ちに下校してください。校内に残らないようお願いします」
と言う、全校生徒に帰宅の指示を与える放送が、学校中に流れたのは、その直ぐ後だった。その時、学校の屋上から、生徒が飛び降り自殺をしたと言う、大事件が起こっていることなど、わたしはまるで知らなかった。
着替えがあるから、と言う体操服姿の藤倉さんとは音楽室で別れた。
わたしは、赤いマフラーを首に巻くと、鞄を持って、一人音楽室を後にした。昇降口を出ると、駐車場にパトカーが止まっていた。先生たちが、青ざめた顔で走り回っている。
校門の前には、担任の先生が立っていて、「何かあったんですか?」と尋ねる生徒を、
「いいから、早く帰りなさいっ。寄り道するんじゃないぞ、お前達」
と。邪険な顔つきで追い払っていた。
音楽室で別れ際、藤倉さんはわたしに「また明日ね」と言った。わたしも笑顔で同じ言葉を返したが、彼女の眉目には、憂いにも似た悲しさが浮かんでいるのが、ありありと分かった。
もしも、彼女の言うとおりなら、わたしに明日はない。ただ、わたしに明日がなくても、藤倉さんには関係ないことなのに、彼女はわたしに笑われるかも知れないことを覚悟で、カウントダウンの秘密を打ち明けてくれた。
そんな彼女の、また明日には、何か願いのような思いが含まれているように思えてならなかった。
本当に、わたしは死ぬんだろうか? わたしはそんなことを、もやもやと考えながら、先生に一礼して校門をくぐった。
校門の先は桜並木の坂道だ。春になれば、薄紅色の花びらが舞い、思わずお花見でもしたくなるほど綺麗だけど、冬間近の今は、茶色い落ち葉の積もった寂しげな坂道になっている。
蛇行する坂道を下っていると、北風が吹き上がってくる。わたしは上着のポケットに手を突っ込んで、マフラーに顔を埋めた。
不意に、ポケットの中が振動する。携帯電話の着信を知らせるバイブレーターだ。
「もしもし」
鼻声で電話に出ると、相手はお母さんだった。ひどく慌てているみたいだった。
「どうしたの? 何? 今帰るところ。お祖母ちゃんでも倒れたの?」
喋るたびに吸い込む息が冷たくて、全身が冷える。もしかしたら、寒さに凍死して死んでしまうのだろうか、などと冗談を考えていると、母は少しいらだったように、
「もう、縁起でもないこといわないで。お祖母ちゃんは元気よ。それより、ジャムちゃんが」
「ジャム? あの子がどうしたの? とうとう旅立ったの」
「あんたは、どうしてそういうことしか言えないのよ。この、ヒネクレもの」
「そう育てたのは、お母さんでしょ。それで、寒いから早く用件だけ伝えてよ」
「あのね、ジャムちゃんがいなくなったのよ。家中探したんだけど、何処にもいないの。あの子外で凍えてなきゃいいけど」
わたしは、母の言葉に耳を疑った。他所の猫ならいざ知らず、ジャムに限ってこんな寒い日に、外を出歩くなんて考えられない。一体何処へ行ったというのだろう。冗談じゃなく、本当に旅立ってしまったのか、不安が過ぎる。
「分かった、帰る前に、ジャムが行きそうなところを探してみるね」
「でも、気をつけてよ。最近ひどく物騒だから。ジャムちゃんだけじゃなくて、あんたにも何かあったら、お母さん……」
母はそこまで言って言葉を詰まらせた。
「大丈夫。わたしは死んだりしないから」
わたしはそう言うと、少し驚く母を放っておいて、電話を強制的に切った。
死んだりしないから。別に母はそんなことを心配しているわけではないのだろう。ただ、わたしは咄嗟に言ったことばにしては、何だか気味が悪かった。さっき、四時間半後の死の宣告をされたばかりなのだから。
探してみるね、とは言ったものの、ジャムが行きそうな場所なんて思いつかない。
普通、猫の行動範囲は、思うより広く、場合によっては隣町まで遠征して、ケロッとした顔で帰ってくるヤツもいるらしい。
ただ、我が家のものぐさ花子、ジャムが行きそうな場所となると、それほど広い範囲じゃないだろう。我が家からそう遠くないどこかにいるに違いない、とふんだわたしはとりあえず電車に乗って、家のある街まで帰った。
駅を出ると、もう辺りには夜の帳が降りていて、薄暗い上に寒い。いつもなら直行する家路を反対に向かい、近所の捜索を開始した
駅の反対側は商店街が軒を連ね、細い路地が縦横に走っている。すでに買い物の時間も終わり、多くの商店が灯を消してシャッターを下ろし始めていた。
「ジャムー、おーい、ジャム。出てこーい」
恥ずかしいので、あんまり大きくない声で呼びかけながら、商店街の路地を歩く。路地裏や空き地、猫なら立ち寄りそうな場所をあちこち探してみる。だけど、土管の中にも、お店のポリバケツの裏にも、コンビニの前に路上駐車された自動車の下にも、ジャムらしき姿は見つけられなかった。
それでももしかしたら、なんて思いながら、近所をくまなく探し歩いた。
どのくらいの時間、わたしはジャムを探していただろう。ポケットから携帯電話を取り出して、時計を確認する。画面のデジタル表示は、八時を回っていた。
携帯をポケットに戻しながら、観たかったバラエティ番組を見逃してしまったことを思い出す。
もういい加減思い当たる場所も尽きて、指の先からつま先まで、凍りつくように冷え切っていた。もしかしたら、ジャムのヤツわたしの苦労も知らないで、今頃家に帰って暖房に当たっているかもしれない。
それに、ジャムがもしも遠くへ出かけているのだとすれば、いくら近所を探しあぐねても、見つかるわけはないのだ。ジャムの身に何もなければ、そのうち餌欲しさに帰ってくるだろう。
そんな風に考え始めると、こんなに寒い中で、ジャムを探し続けるのはひどくバカらしく思えてきた。このままじゃ、風邪を引いて死んでしまう。
「帰ろっかなあ」
わたしがひとりごち、こうこうと灯の照るコンビニの前で踵を返したときだった。
ちりん、ちりん。
風鈴にも似た、金属の鈴の音がかすかに聞こえる。その甲高い音色に聞き覚えがあった。あれは、ジャムの首輪につけている、鈴の音だ。
白くて小さな陶器製の鈴で、鳴らすとまるで金属のような音がする、不思議な鈴だった。その鈴の音色を、わたしが聞き間違えるはずがない。だって、ジャムの鈴は、わたしが小学生の頃、修学旅行のお土産に買ってきたものなのだ。
「ジャムっ、何処にいるの? 帰るよ」
わたしは辺りを見回して、ジャムの姿を探した。だけど、辺りは静まり返った夜の商店街が広がるばかり。
ちりん、ちりん。
再び、鈴の音が聞こえる。わたしは鈴の音が聞こえる方へ、咄嗟に走り出した。
ジャムの名を呼びながら、路地裏を駆ける。鈴の音は確かに近くで響き、直ぐそこにジャムがいるような気がした。なのに、鈴の音はわたしを何処かへ導くように、少しずつ移動し続けた。
「わっ」
ちょうど路地裏から、次のブロックの曲がり角を曲がった時だった。わたしは誰かと激しくぶつかって、見事な尻餅をついた。
「ご、ごめんなさい、急いでたから」
やっと目の奥の火花が収まると、わたしの鞄が口をぽっかりあけて、中身を周囲にぶちまけているのが、眼に飛び込んできた。
「ごめんなさい、わたしもぼーっとしてたから」
ぶつかった相手も痛そうに顔をゆがめて言う。わたしとちょうど同じくらいの歳の女の子だった。誰だろう、見かけない顔のその子は、東高校の制服を着ていた。
「大変っ」
と、彼女は慌てて周囲に散らかった、わたしのノートや教科書を拾い集めた。
「あ、ありがとう。ホントごめんなさい。怪我とかしなかったですか?」
彼女から荷物を受け取りながら、わたしが尋ねると、彼女はすこし笑って「大丈夫です」と言った。激しくぶつかったと思ったけれど、どうやらわたしも、彼女も尻餅とたんこぶくらいで済んだらしい。
だけどグズグズしていられない、早くジャムを追わなくちゃ、見失ってしまうかもしれない。
「それじゃあ、わたし急いでるんでっ」
わたしはそう言うと、頭を下げてその場を立ち去ろうとした。すると、彼女がそれを引き止める。
「待って、マフラーが」
マフラー? わたしは立ち止まると、首に巻いた赤いマフラーを確かめた。さっき転んだ拍子に、先端のほうが地面に着いて汚れたらしい。わたしは、軽くはたいて、埃とゴミを払った。
「ありがとう」
「いいえ。でも、気をつけて。そのマフラーは、とても目立つわ。最近このあたりは、とても物騒だから」
彼女は、一際低い声で言った。その視線は、じっとわたしの赤いマフラーに注がれていた。
死ぬとか、物騒とか、今日はなんだか、いつも聞かない単語ばかりを耳にしているような気がする。もっとも、死も物騒な世の中も、今に始まったことじゃなく、わたしたちの隣にいつも、さりげなく居座っているものだ。
わたしの場合、電車通学だから、電車が事故を起こすかもしれないし、駅から自宅までの夜道、街頭は薄暗い。その電柱の影に誰が潜んでいるかも分からない。
だからと言って、今日、明日にも死んでしまうかもしれないなどと、日々の暮らしを物騒だと決め込んでは、びくびく過ごすことを、あまり当たり前のことだとはいえない気がする。
時々思う。ジャムのような猫になれたら、どんなに幸せだろうと。物騒だとおびえることも、自分の寿命を考えることもない。しかも、勉強と恋愛というわたしの苦手なものに心を痛めなくていい、という特典つきだ。大好きな煮干を頬張って、ゴロゴロしているなんて、なまじっか進化してしまったサルの人間には、とても羨ましいこと何じゃないかと思う。
バカバカしい。せっかく人間に生まれたのに、そんなことを考えるなんてと、誰かに話せば笑われるだろう。だけど、人生を全うしたら、次は猫に生まれたい。できるなら、ぐうたらなジャムみたいな猫に。
でも、わたしの人生はあと少ししかない。
角でぶつかった女の子と別れて、わたしはそんなことばかり考えていた。妙に意味深な彼女の言葉がそうさせたのだと、少しだけ責任転嫁してみる。それというのも、あれから、一向にジャムの鈴の音は聞こえてこなくなってしまったのだ。
たしかに、あの涼やかな音色はジャムのものだった。だけど、今は静寂な夜の街を吹き抜ける、夜風の音しかしない。
振り出しに戻る。昔、従姉妹と一緒に遊んだすごろくを思い出す。運の悪いわたしは、最後のマスに仕掛けられた意地悪な罠に引っかかる。「振り出しに戻れ」とかかれたそのマスに何度悲しい思いをさせられたことか。今の状況はそれと同じような気がした。
もう少しでジャムのことを見つけられそうだったのに、とんだハプニングのおかげで見失ってしまった。勿論、ぶつかったあの子を責める気はないけれど、わたしはそのイライラのやり場に困っていた。
「ジャムー、寒いから帰ろうよう。居るんでしょ、でてこーい」
わたしはがっくり肩を落としながら、小声で言った。ふと、周りを見ると、街路樹の植えられたその通りは、すでに三度見て回ったことに気づく。
はあ。思わず溜息を吐きながら、もう一度鈴の聞こえた場所へ戻って、それでもジャムが見つからなかったら、今日は諦めて帰ろう。
そう決めて、踵を返したときだった。ひたひたひた、と靴音がする。丁度わたしが振向いた瞬間に、その足音はピタリと止まる。
それだけなら、不審に思う必要はない。ただ単に偶然止まっただけかもしれないし、気のせいということもあり得る。ただ、わたしは少しだけ違和感を感じながら、歩き始めた。ジャムは何処だろう、そんな風に思いながら歩いていると、再度足音が聞こえてくる。それは、ゆっくり、でも確実にわたしの後を尾けていた。
変質者、泥棒、痴漢、ストーカー。色んな単語が右へ左へ、わたしの頭を去来していく。とりあえず、別に特筆するほど可愛くもないわたしにストーカーはありえないとして、泥棒や痴漢だったら、大いにあり得る話だ。そう思うと、背筋に悪寒が走った。誰かの視線を感じたような、冷たくて気持ちの悪い感覚だ。
「誰かいるの?」
フェイントをかけるように、急停止して振り返る。なるべく張り上げたわたしの声が、夜の街に響き渡る。しかし、声は空しく風に飛ばされていくだけで、そこには、誰もいない。
怖くなってきた。そして、思い出した。
「あのね、後四時間半であなた死んでしまうかも知れないの」
藤倉さんの言葉が頭の中で反響する。四時間半……、コートのポケットから手繰り寄せた、携帯電話の時刻表示は、まさに四時間半後を指し示していた。
体が凍りついたように動かない。電柱の切れ掛かった街灯が、バチバチと音を立てて点滅する。風の音意外何も聞こえない。
「誰、出てきてよ」
わたしは搾り出すように言った。言いながら、必死にわたしのコンピューターがフル回転し始める。どうやって逃げよう。どうやって、身を護ろう。
走ったところで逃げおおせられるほど、脚力には自信がない。もしも、相手が男の人なら、わたしの細っこい腕なんかじゃ、太刀打ちできるわけがない。もしも、ナイフとか持ち出されたらどうしよう。合気道なんて知らないし、まして、そんなもの見たらすくみ上がって何も出来るはずがない。
ゆっくりと、あとずさる。一歩、一歩、バックしながらも、わたしの視線は正面に釘付けだった。
視界に映る電柱が揺らぐ。空を切るような音、衣擦れの音、光る刃。顔はよく分からない。
一瞬の出来事だった。電柱の影から飛び出してきた人影は、わたし目掛けて突進を仕掛けた。弾丸の速さで迫るその両手には、しっかりとナイフが握られていた。文房具店で売られている大き目のカッターナイフだ。
わたしは悲鳴を上げながら、咄嗟に鞄を突き出した。皮製の学生鞄は、右から左に寸断される。文房具のナイフとはいえ、刃渡り十センチ以上のそれは、凶器として十分な働きを見せていた。
相手はいささか驚いたようだった。鞄で防がれるとは思ってもみなかったのだろう。小さな舌打ちが聞こえると、再びその刃を振り下ろす。
何で、わたしは襲われなければならないのだろう。わたしは誰かのうらみでも買ったのだろうか。心当たりはないけれど、間近に迫る死の恐怖に怯えた。もしも、藤倉さんの予言が当たっているのなら、わたしはここで死ぬんだ。
ちゃんと、忠告を聞いておけばよかった。後悔先に立たずってやつか。
振り下ろされたナイフは、寸でのところでわたしを掠めていく。手の甲に痛みと熱を感じた。だけど、傷口を見る余裕も押さえる余裕もない。既に相手は固く握り締めたナイフを、突き出していたのだから。
わたしは、観念して瞳を閉じた。せめて死ぬ前に、短い人生だったと悲観する時間が欲しい。あと、わたしとジャムが帰ってこないことを心配している両親に謝りたい。最後に、ジャムの頭を撫でたかった。
何か重たい物が落下するような、そんな鈍い音が聞こえる。痛みはない。死ぬ時なんて、あっという間なんだなあ、と思いつつ崩れ落ちようとした。
あれ? ホントに痛くないよ。かえって、さっき切られた手の甲の方が痛い。変だ、わたしは不気味に思いながら瞳を開いた。
「は、放してっ」
声がした。誰の声だろう。瞳を開けたわたしは、目の前の状況を理解できなかった。わたしは確かに刺されては居なかった。ナイフはわたしに届く前に、わたしと犯人の間に割り込んできた、別のものに刺さってしまったのだ。
わたしを助けてくれたのは、グレーのコートを着た、女性だった。綺麗なつやの長い髪をした、わたしの知らない人だった。彼女のわき腹には、カッターナイフが突き刺さっていたが、彼女は無言で犯人の腕をつかんでいた。
放して、とは犯人の悲鳴だった。犯人は、女性の思わぬ行動と、鋭い眼光に怯えていた。さっきまで死の恐怖に怯えていたわたしのように。
「こんなことしたらダメよ」
鈴の鳴るような綺麗な声、だけど凛と張り詰めたその声は厳しさを持っていた。
「うるさい、放してよっ」
犯人は乱暴に言うと、女性の腕を振り解いた。そして、足早に逃げていく。
わたしは、大声を上げて助けを求めるべきだった。なのに、喉の奥から声が出てこない。あまりに急なことで、頭が回転していない。
犯人が通りの角に姿を消すと、辺りには静けさが戻り、人心地ついたわたしはへなへなと、その場に座り込んでしまった。心臓が、早鐘を打って止まない。
助けてくれて、ありがとうございます。わたしはお礼を述べようと思った。ところが、女性は突然、その場に倒れてしまったのだ。
「大丈夫ですかっ」
慌てて立ち上がると、彼女の元に駆け寄る。彼女のわき腹にはカッターナイフが刺さったままで、ぐっしょりと血に染まり、グレーのコートを赤黒く塗り替えていた。
「バカねえ。せっかく、あんたを安全なところに連れて行こうと思ったのに」
女性はわたしの青ざめた顔を見るなり、口許に笑みを浮かべて、そう口にした。
「わたしのことなんか探さないで、さっさと家に帰ればよかったのよ。昔から、妙に頑固なんだから。まあ、それがあんたのいいところでもあるんだけど」
まるで、わたしのことを知っているような口ぶりだ。だけど、わたしはこんな美人のお姉さんを知らない。
「どこかでお会いしたことありますか?」
「そうね、分からなくても仕方がないか。ずっと昔から、わたしはあなたのことを、あなたはわたしのことを知っているわ」
「なんで、わたしなんかのことを助けてくれたんですか?」
わたしが尋ねると、彼女は笑って、「お姉さんだからよ」と言った。わたしには、その意味がよく分からなかった。ただ、ぐずぐず話をしている場合じゃない。わたしは、コートのポケットから、携帯を取り出すと、救急車を呼ぶことにした。
一一九、ボタンを押す指を、彼女は遮った。
「いいのよ、もう手遅れだから。最期に、お父さんとお母さん、それにあなたの役に立てた。それで満足できた。だから、もういいの。わたしは十分長生きしたもの。今まで、ありがとう」
それが、彼女の最後の言葉だった。彼女はゆっくりと、ろうそくの炎が消えるように、瞳を閉じ、わたしの手を押さえるその細い指の力が失せていった。
「しっかりしてくださいっ、ねえっ」
必死になってゆすっても、声をかけてももう、彼女は目を開かない。わたしを庇って彼女の命は消えた。それがどれほどショックだったかは、筆舌しがたいものがある。ただ、ただ、わたしは無我夢中で彼女を起こそうとしていた。それが、ムダだと分かっているのに。
すると、唐突に彼女の体が薄くぼやけてくる。最初はわたしの目がおかしくなったのかと思った。ところが薄くなっているのは彼女の体だけだ。
何が起こったのか、直ぐには分からなかった。だんだんと薄くなっていった彼女の体はやがて小さくなり、わたしの両手におさまるほどになった。
そして、わたしは目を疑った。
わき腹に、カッターナイフが突き刺さったまま、息絶えているのは、髪の長い女性なんかじゃなかった。わたしの良く知っている人。いや、正確には人ではなくて猫。ジャムだった。
ジャムが助けてくれたんだ。そのことをやっと理解したわたしは、胸の奥がひどく締め付けられるような思いがした。
ジャムがどうして、わたしが襲われることを知っていたのかはわからない。野生のカンと言うやつかもしれない。ただ、ジャムは鈴の音を使って、必死にわたしを安全な場所へ誘導しようとしていたのだ。なのに、わたしは意地でジャムを探した。
「もしも、死が運命なら、わたしにはどうしようもない」
藤倉さんの言葉が反芻される。ジャムはわたしの死の運命を変えた。人の姿に化け、わたしを庇うことで、運命を変えたのだ。
言葉が出ない。長く生きたと、ジャムは言ったけれど、そんなことちっともない。もっと長生きして、わたしに頭を撫でさせて欲しかった。もっと長生きして、わたしのグチを聞いて欲しかった。時には一緒に寝転がって、ぐうたらしたり、時には一緒に遊んだり。まだまだ、ジャムと一緒に過ごしたかった。
だって、わたしの家族なんだもん。大切な家族なんだもん。それを伝える前に、ジャムはわたしのために去っていった。
「何いってるのよ、わたしの方がお姉さんだよ、ジャム」
わたしは冷たくなっていくジャムの頭をそっと撫でて、わき腹に刺さったカッターナイフを抜き取った。ジャムの命を奪った忌々しい凶器は投げ捨てた。
長生きをした猫は、化け猫になって出てくる。それは、人を驚かせるためじゃなく、可愛がってくれた恩人を救うために、化けるのだ。そんな話を、昔本で読んだことがある。ジャムは、わたしのことを、恩人だと思っていたのだろうか?
「ありがとう、ジャム」
そっと、ジャムを抱きしめた。寂しくて悲しいはずなのに、少しだけ心が温かな気がした。
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