最終話 リフレイン
悲しい旋律が聞こえる。
彼は病床にあった。この時代、まだ結核という病気に特効薬などなく、彼は死をひたすらに待つほかなかった。結核は感染する病だ。だから、誰もが恐れて、誰も彼に近付きはしない。彼の家族や友人でさえも、彼と同じように死ぬことが怖いのだ。
彼は孤独だった。死とは、これほどまでに孤独で、その瞬間が訪れるまでの間は、ひどく長く、そして恐ろしい。なによりも、死した後、自分を待ちうけるものは何か。物語に綴られるような、天使や神様のいる天国が待っているのか、それとも、ただ暗闇の無があるのか。
それは、誰にも分からない。
そして、彼の残した妻子はどうなってしまうのか。路頭に迷ってしまうのではないのか。もしかすると、もう他所に居場所を見つけているかもしれない。
それは、死にゆく彼にはわからなかった。
彼は、いても立ってもいられなかった。運命が決しているとしても、せめて誰かにこの死の恐怖を伝えなければならない。それが、家族であっても友人であっても、名も知らぬ誰かであっても構わない。とにかく、伝えたかった。
幸い彼は、音楽を嗜んでいた。彼の弾くピアノの音色は国一番とまで評されるほどであった。彼は医師が止めるのも聞かずに、病床を立つと五線譜を取り出した。そして、黙々とピアノへ向かった。
心に湧き出る恐怖。それを鍵盤の上で表現する。苦慮を重ねた。そして、何度も血を吐いた。それでも、彼は鍵盤から指を離さなかった。五線譜を滑らせる羽ペンを止めなかった。
やがてひとつの旋律が出来上がった。美しい旋律に散りばめられた、悲しげな高音。そして、迫り繰るかのような低音。それこそ、彼が伝えたいと思う、死の恐怖だった。そして、彼はその場で大量の血を吐き、絶命した。
彼の遺体を発見した医師は、彼の顔を診て驚いた。死の恐怖を伝えたいと、悲壮な顔つきでピアノに向かっていたはずの彼の死に顔は、あまりにも安らかだったのだ。
わたしは、静かに一輪の花を広瀬由希の傍に添えた。まるで、手向けの献花のように。
街は騒然としていた。悲鳴と混乱があちこちで飛び交う中で、銃弾に斃れた広瀬由希と魔物だけが、切り取られたように静寂の中で寄り添っていた。そのため、わたしが彼らの遺体に近付き、花を置いても、それを咎めるものも気にするものもいなかった。
夕刻の繁華街。夕食の買い物客や、会社帰りの大人たち、学校帰りの学生で賑わいを見せる街角に、現われたのは、鬼灯のように真っ赤な瞳、大きな牙の生えた口、四肢のあちこちには棘が生え、皮膚のすべてが緑色の鱗と化した魔物だった。
恐怖が繁華街を包み込み、やがて魔物は警官たちに包囲された。ところが、いくら拳銃を撃っても魔物は中々怯まない。そうしているうちに、魔物の傍に一人の少女が現われた。広瀬由希だった。彼女は最後に放たれた、一斉射撃の前に、魔物を庇うように斃れた。そして、魔物も脳天を打ちぬかれて、息の根を止めた。
広瀬由希はきっと死ぬまで、わたしに復讐することを誓っていたのだろう。おそらく、彼女の傍らで死んでいる、その魔物を使って。そして、わたしは彼女から復讐の責を負うだけの、理由があった。
彼女にとってわたしは、「姉の仇」なのだ。
しかし、彼女の姉もそして広瀬由希自身も、もうこの世にいない。当のわたしだけが生き残り、そして彼女達の死を見届けている。それでは、神様もあまりにひどい仕打ちだと思った。せめて、彼女の姉、広瀬由香里がわたしに書き残したこの物語だけでも、妹の元に添えてやる他、わたしに出来ることはない。
彼女達の両親のことを思えば、この世はあまりにも無情に思えてくる。たった二日の間に、彼らは愛する娘を二人とも永遠に失ってしまったのだ。ひとりは、悲しみの中で、学校の屋上から身を投げた。もう一人は、夕刻の街角で得体の知れない魔物を庇って死んだ。おそらく、彼女達の両親は、それが意味することを何も知らないまま、親としての自らを責めて、涙にくれることだろう。
だけど、その本当の罪人は、きちんと罰を受けている。彼らが涙を流すその瞬間も、永遠に終わりのない罰を受けていることを、知らない。
やがて、街角がようやく事態を飲み込み、救急車やパトカーのサイレンで、より一層騒がしくなる頃、街の中心を駆け抜けるように、童謡のメロディが流れてくる。この商店街で使われている、夕方五時を知らせるメロディだ。
そして、それは罪人が罰をうける知らせでもある。
少し離れたところから、広瀬由希の遺体を見つめていたわたしの視界が、少しずつ色を失っていく。赤、青、黄色とすべての色が順番に抜け落ちると、モノクロに変わった世界が、まるでビデオの逆再生のように反転していく。
そして、再び世界は色を取り戻す。
そこは、さっきまでいた商店街などではなく、暗がりの廊下。事件のざわめきも、広瀬由希の遺体もそこにはない。わたしの前に真っ直ぐ伸びる階段は、その段差さえも塗りつぶされたように真っ黒だった。そして、階段の頂点には、青いペンキで塗られたドアがあり、丁度上の部分に四角く仕切られた窓から、夕焼けの朱色だけが、まるで別の世界のように光り輝いていた。
分かっている、ここが何処でその先に何があるのか。
わたしは、意を決して階段を昇る。途中でつまずくことはない。もうこの階段を昇るのは、これで十回目。そして、この扉を開くのもこれで十回目なのだ。
そして、わたしは扉に手をかけた。油の切れた扉が音を立てて開く。その音に驚いたかのように、一羽の白い鳥が羽ばたいた。それと同時に、手摺の向こうに立つ少女の体が、ふわりと宙へすべる。
「待って、由香里っ」
わたしが叫ぶ声も、彼女には届かない。だけど、一瞬彼女はわたしの方を振り返った。その顔には、死を待つ悲壮さなど微塵もなく、安堵と満ち足りた表情だ。わたしは、思わず背筋が寒くなった。
わたしが手摺に駆け寄るよりも早く、彼女は地上に落下した。ラバーコートの上で練習に汗を流していた陸上部員達の悲鳴が聞こえてくる。
白い鳥が羽ばたくのも、由香里の最期の顔を見るのも、陸上部員達の悲鳴を耳にするのも、もうこれで十回目。
手摺から身を乗り出して、彼女の遺体を見る勇気はなかった。ふと、視線をそらすと、由香里の飛び降りた場所に、揃えられた靴と一緒に一冊のノートが置かれていることに気付く。
「飛べる」
それは、小説家を夢見ていたわたしが拙い文字で書いた物語だった。
広瀬由香里は遺書を残さず、わたしのノートを残した。わたしが友人である彼女に贈った物語が書き綴られたノート。それを読んだ彼女の書評は、あまりにも的確で、わたしを驚かせた。
「とっても面白かったよ。さすが小説家を志すだけあるね。でも、一つだけ酷評するとすれば、アスカの死の描写が、とても淡白な気がした。なんだか、死の恐怖とか辛さとかが伝わってこなかったの」
そう、そこは一番悩んで書いたところだ。何度も書き直した。科白にも工夫を凝らしてみた。それでも、リアリティのない文字列が列挙されるだけ。最終的には、いちばん当たり障りのない文章で締めくくる妥協に落ち着いた。とどのつまりわたしには死の恐怖がよく分からなかったのだ。
人は自分の死に直面すると、大抵の場合、恐怖を感じる。それは、自分が歩んできた生命の歴史が無に還ることを畏れるためだと、聞いたことがある。だけど、実際にはそれだけで、人は恐怖を感じるわけではない。
十人十色という言葉があるように、人はそれぞれ恐怖を感じる理由が違うのだ。それでも、人にとって最も恐ろしいのは死だ。それは、あまりに普遍すぎる事実だと思っていた。
ところが、広瀬由香里も、広瀬由希も、死に怯えなかった。むしろ安らかな顔をしていた。彼女達は死が恐ろしくなかったのだろうか?
わたしは、彼女達の以前にも同じような顔をして死んだ人を知っている。その人は、わたしの歳の離れた従兄だった。従兄と、わたしはお互い一人っ子だった所為で、とても仲がよく、本当の兄妹のようだと、周りから言われるほどだった。わたし自身も「章兄ぃ」と呼び、とても慕っていた。
そんな従兄は、十六歳になったある日、突然にその生涯に幕を降ろしたのだ。その理由はよく分からない。事故か事件かそれもよく分からない、不可解な死に方だったのだ。叔父も叔母も当惑し続けた。しかし、わたしは従兄の死の理由など、どうでもよかった。
ただ、病院のベッドに横たわる従兄の死に顔があまりにも晴れやかで、死の恐怖は何処にもなかった。
死ぬことは怖くなかったのか。その疑問を従兄に尋ねることはもう出来ない。わたしは、それからというもの、死の恐怖に疑問を抱き続けた。まるで、路頭に迷った子犬のように。
そして、由香里からの書評は、わたしにあることを決断させた。
「死ぬことの意味を知りたい」
その方法には、苦慮した。自ら死ぬつもりはない。それでは、答えを知る前に死んでしまうからだ。かといって、誰かを殺すつもりもない。そこで、数週間の思考の末思いついたのが、とあるゲームだった。
インターネットで参加者を募り、人殺しをさせるのだ。人を殺せば、ポイントを得ることが出来、そしてその優劣を競わせるゲーム。わたしに人殺しが出来ないのなら、人殺しをしたがっている人にやらせればいい。単純な発想だった。
わたしは、ゲームのホームページを作成し、そのゲームに「スローターゲーム」と名づけた。直球なネーミングだと自分でも思う。
勿論、大半の人はこんなページを見ても、ただの冗談だと思うだろうし、わたし自身もこれを本気にする人間はいないと思っていた。だから、わたしはこの秘密のゲームを、すぐに由香里に打ち明けたのだ。
すると、彼女はとても怖い顔をして、わたしをなじった。それは、わたしにとって予想外の反応だった。
どこか陰のある由香里は、わたしと似ていると思った。由香里はピアノが得意で、はじめて彼女とであったのも、彼女が音楽室でひとりピアノを奏でている時だった。
「変わった曲だね」
と、わたしが声をかけると、由香里は鍵盤を滑らせる指を止めて、わたしに微笑んだ。
「あまり有名なピアノ曲じゃないの。この作曲家は三十歳の時に、結核に冒され、日々病床で死を恐れていた。その感情をこの曲に込めたの。作曲家は、この曲を書き上げると大量の血を吐いて、この世を去った。でも、何度弾いても、わたしにはこの曲から死の恐怖が伝わってこない。作曲家がどんな気持ちでこの曲を書いたのかが、よく分からないの」
普段無口な由香里が、あまりに饒舌に話すのも意外だったけれど、それにも増して、彼女の「死の恐怖が伝わってこない」という言葉にわたしは驚いた。
由香里もわたしと同じで、死の恐怖が分からない。死ぬことの意味が分からない。そうわたしは感じた。
「死の恐怖ってどんなものだろう」
思わず口をついて出たわたしの疑問符に、由香里は楽譜を見つめながら。
「分からない。わたしは今日明日に死ぬわけじゃないから、怖いって言うのがよく分からない。けれど、この作曲家は死の床で怯えていた。それだけは確かなこと」
と、静かに答えた。
その時からわたしと由香里は、上辺だけで付き合うほかのクラスメイトとは違い、親友と呼び合える間柄になった。だから、わたしは彼女にスローターゲームの計画を打ち明けた。
彼女なら、わたしの考えを分かってくれる。わたしと同じように死の意味を知りたいとょなら考える人なら、冗談だと笑い飛ばすことはあっても、けしてわたしの計画を否定したりなんかしない。
そんな風に考えるのは、わたしの浅はかな期待だったのかもしれない。ところが、スローターゲームのはなしを打ち明けると、由香里は真っ先にこう言った。
「そんな人だとは思わなかった」
由香里は、わたしのことをどんな人間だと思っていたのだろうか。わたしは聖人君子なんかじゃない。なのに、由香里はわたしを叱り、そんな馬鹿なことはやめて、とまで言い出した。もちろん、計画はまだ杜撰だ。
リスクは処理できていないし、それにも増して冗談にしか思えないゲームなのだ。だけど、わたしは由香里にそんな風に咎められたくはなかった。
愕然と由香里の言葉を聞きながら、わたしは「独りでもやる。やらなければ、わたしは路頭に迷ったままだ」と、言い放った。それは、わたしが由香里と訣別するための言葉だった。
傍から見れば、こんなつまらないことで冷え切った仲になるなんて、馬鹿げてると言われるかもしれない。それでも、わたしにとって由香里は良き理解者だと思っていただけに、そのショックは大きかった。
わたしは絶望感を糧に、スローターゲームの計画を完成に近づけるため、わたしと由香里の最大の違いを利用した。由香里にこの計画を理解してもらうためには、由香里自身が、わたしと同じ疑問に到らなければならない。
そして、わたしと由香里の違いは、上辺だけの友人がいるかいないかだ。クラスでイジメの火種を起こすのは案外簡単だ。クラスのストレスのはけ口を常に求めたがっている人たちに、由香里というベクトルを示すだけでいい。その方法は、噂や誹謗、あらゆる手段がある。
そうして、わたしはクラスに由香里をイジメさせることにした。それと同時に、わたしはスローターゲームの計画を推し進めた。
最初の参加登録者が現われたのは、それから二週間あまりが過ぎた頃だった。わたしは、すぐさま適当な文面で、スローターゲーム開催を知らせた。
「ナイフを使って、サラリーマンを殺せ。一人につき一ポイント進呈。開催日時は二日後の午前一時から三時まで」
この文面をまともに受け取ろうが、撥ねつけようが、一向に構わない。そんな風に思っていた。ところが三日後の朝刊に、大きくその記事は載った。
「連続会社員殺害」の見出しと、ナイフのような鋭利な刃物で、午前十二時ごろから未明にかけて、三人の会社員が殺害された、という事件のあらまし。その時、わたしはゲームが軌道に乗ることを確信した。
案の定、ゲーム参加者はその日から、急増した。わたしは、彼らに適当な文面メールを送りつけ、都合三回に及ぶゲームを開いた後、ホームページを撤去した。
ここからが計画の本腰だった。昔、何かの本で読んだことがある。殺人を犯す者は、ある種の脳内麻薬のようなものが働き、人を殺すという罪の感覚を麻痺させる。特に、愉快犯であればあるほど、脳内麻薬の効き目は高いのだそうだ。更に、これはゲームなのだと思い込むことを加えれば、スローターゲームはその手の人には、たまらない刺激になる筈だ。
わたしの予想通り、わたしがゲームを閉鎖すると、瞬く間にゲームはわたしの手を離れ、勝手に動くようになった。つまり、わたしとは無縁のどこかの誰かが、スローターゲームを行うようになったのだ。
その様は、ウィルスのようだった。ゲームがわたしの知らないところで軌道に乗ったところで、世間は謎の連続殺傷事件に騒ぐようになった。これも、わたしの計画のうちだった。こうして、広まっていくのをただじっと待っている。
そして、わたしは人の死ぬ姿を見るのだ。スローターゲームの開催される日には、毎晩家を抜け出した。そして、夜の街を練り歩く。このままゲームが人々に感染し続けていけば、どこかで、スローターゲームの被害者に出会うことが出来る。
そして、問いかける。死ぬのが怖いか? 何故怖いのかと。
スローターゲームがわたしの手から離れ、自動的に広まっていくように、由香里へのイジメもみるみるうちに、わたしの与り知らぬところで広まっていった。
どんなイジメを受けていたか、それをわたしは知るつもりはなかった。ただ、いずれ由香里が追い詰められることを待ち望んでいた。日増しに、ゲームとイジメは苛烈さを増していく。面白いように、わたしの思惑通りに。そして、由香里の表情は少しずつ曇っていった。
やがて、秋の初め頃、わたしはついにゲームの被害者に出くわすことが出来た。これこそ、待っていた瞬間だった。
驚いたことに、ゲームの参加者は中学生くらいの男の子だった。男の子は、手持ちのリュックサックから、工作用のカッターナイフを取り出すと、まるでスパイか忍者のように音もなく、標的に近付いた。
夜の公園。明かりも少なく、植え込みの多い、あまりに不気味な場所で、標的の女子大生は一人足早に、公園を通り過ぎようとしていた。男の子にとって、人気のない場所を無防備に歩く彼女は格好の標的だった。
男の子は忍び寄ると、素早くカッターナイフを繰り出し、女子大生の踵の辺りを切り裂いた。彼女は自分の身に起きたことも理解できないまま、その場に崩れ落ちた。そして、次の瞬間、鋭利な刃は、彼女の喉元深く突き刺さった。
「これで一ポイント。初めての成果としてはまあまあか」
男の子はそう言うと、女子大生の首元からナイフを抜き取り、何事もなかったかのように、その場を後にした。
わたしが警察官だったら、男の子を追いかけるだろう。しかし、わたしは人殺しなんかに興味はなかった。男の子の姿が見えなくなり、辺りに誰もいないことを確認すると、わたしは木陰から出て、女子大生の元に近付いた。
男の子は気付いていなかったのだろうか。標的は虫の息で生きていることに。喉元から、どろどろと血を流し、時折呼気の漏れる音をさせながら、まだ女子大生は生きていた。そして、現われたわたしに、血だらけの指を伸ばす。
「たすけて」
声だか雑音だか分からないような、女子大生の悲鳴。わたしはそれを無視して、彼女の元にしゃがんだ。
「ねえ、死ぬのが怖い?」
わたしの問に、彼女は無言で頷く。痛そうに、辛そうに、苦しそうに顔をゆがめる。
「どうして、怖いの?」
その問に、彼女は訝しげに眉をひそめた。そして、小さな呻き声とともに、息を引き取ってしまった。
結局、答えは聞きだせず仕舞い。それでも、やはり死ぬのは怖いことなのらしい。それだけでも収穫はあったと、わたしは遺体を見下ろしながら思った。
イジメがエスカレートしても、クラスメイトの誰一人として、彼女の味方はしなかった。大局的にみて、クラスはイジメに加わる者と、傍観する者に分かれた。わたしは後者の方に近い立場だった。もっとも、事の発端を起こしたのはわたしなのだが、スローターゲームの発案者が誰だか分からなくなってしまったように、誰がイジメの原因かなんて、分からなくなっていた。
「あんたって、広瀬さんと仲良かったよね、味方してあげないの?」
ある時、クラスメイトに尋ねられた。
「別に仲がいいわけじゃないよ。それにね、ここだけの話、正直言うと巻き込まれたくないんだよね」
とわたしが答えると、彼女は笑って「薄情者め」と言った。ところが、そうは言っても、彼女自身、由香里の味方をして、自分が渦中に飛び込む気はないのだ。それに、わたしは傍観者でなければならない。
由香里が追い詰められて、そして死を考えるその瞬間まで。それは、もう直に迫っていることを、教室に渦巻く異様な連帯感と、ただ独りその連帯感からつまみ出された由香里の姿を見て感じていた。
わたしは、徹底的に傍観し、彼女とは目もあわせなかった。それなのに、ある日突然に、彼女から呼び出しのメールが来た。
恨み言でも言うつもりだろうか。そもそも、彼女はわたしがイジメの発端だと知っているのだろうか、などと考えながら、放課後の廊下を待ち合わせの音楽室まで歩いた。音楽室からは、由香里と出遭ったあの日と同じ、ピアノの旋律が聞こえてきた。
由香里は、わたしが音楽室へやってきたのを見止めると、あの日と同じように指を鍵盤から離した。
「来てくれたんだ」
由香里はか細い声でそう言うと、わたしを手招きした。わたしはゆっくりと彼女に歩み寄った。
「あなたが、どんな風に思っていても、わたしはずっと親友だと思ってる。だから、あなたの知りたいことの、答えを教えたい」
「わたしが知りたいことの答え?」
「うん。あなたは、わたしとはじめてここで話したとき、死の恐怖ってどんなものだろう、って言ったよね。それって、あなたの知りたいことでしょう?」
由香里の問いかけに、わたしは素直に頷いた。すると、彼女はニッコリと笑った。イジメの張本人を前にして、何故由香里は笑えるのか。
「人は、死ぬことが怖いんじゃない。どうせ人はいつか死んでしまう。ただ、死んだ後のことが何も分からない。その先に何が待っているのか、そしてその後に何が残されるのか、それを知る方法がないから、死を恐れるの」
彼女はそこで、話を止めると再び鍵盤に向かった。滑らかに鍵盤を叩く指先から奏でられるのは、あの曲だった。
「前に話したよね、この曲を作った人のこと。わたし、あれから何度もこの曲を弾いているうちに分かったことがあるの。どうして、死の恐怖を表現したいと思って書いたのに、この曲はこんなに美しいんだろう」
「どうして?」
「この作曲家はね、何日も何日もかけてこの曲を書く間に、死の恐怖を失った。ううん、正確に言うなら、死の恐怖を乗り越えた。そして、こんな綺麗なメロディの曲を書き上げて、そして死んだの」
「そんなの、由香里の考えでしょ? わたしが知りたいのは、一般論として」
「一般論なんて存在しないわ。人が思うことなんて、千差万別で当たり前だもん。だから、死の受け取り方だって、人それぞれじゃないかな。死の持つ意味は、その人にしか分からない。わたしが死ぬ意味も、あなたには分からないし、あなたが死ぬ意味も、わたしには分かりっこない」
「だから、わたしはそれを知りたいって言ってるの」
「それに、何の意味もないわ。その人の死は、その人だけのもので、他の誰のものでもないから。だから、恐怖を拭って、乗り越えることも出来る。ただ漠然とした不安に押しつぶされることも出来る」
由香里はそういいながら、ピアノを引き続けた。確かにその美しい旋律には、死の孤独も恐怖も表現されていない。
「スローターゲームでどんなに人殺しをしたって、永遠にあなたは答えに行き着くことは出来ない」
「本当に? 本当に由香里が言うとおりだとして、それを証明できるの?」
わたしが問うと、彼女は瞳を伏せた。やや沈黙があって、ピアノだけが音を奏でる。そして、おもむろに由香里は口を開くと、わたしに言った。
「証明してあげる。これは、親友として、わたしが出来る唯一のことだと思うから。もしも、本当に、死の意味を知りたいなら、二日後の放課後、屋上に来て。そして、死の意味を知ったら、直ぐにスローターゲームなんか止めて。お願い」
彼女と言葉を交わしたのは、それが最後だった。二日の後、言われたとおり屋上へ駆け上ったわたしを待っていたのは、彼女が屋上から身を投げるその瞬間だった。そして、由香里の言ったとおりだった。
彼女が何故晴れやかな顔をしていたのか、そして、彼女が何故飛び降りてしまったのか、その理由はわたしには分からなかった。同時に、彼女の妹由希にも、そして彼女の両親にもそれは分からないことだった。
イジメを苦に自殺した。わたしに死の意味を教えるために自殺した。理由をつけるなら、いくらか思い浮かぶ。それでも、どれが正解なのか知っているのは、由香里だけなのだ。
その人死は、その人だけのもの。由香里の言ったとおりだった。わたしが知りたかったことの答えは、証明されるまでもなく簡単なことだったのだ。そして、わたしは後悔した。はじめて、ラバーコートの上で消え行く由香里の命を見つめて、後悔した。
誰にも死の意味は分からない。たったこれだけの答えのために、わたしは多くの罪を犯し、そしてかけがえのない親友も失ってしまった。それは、どんなに後悔しても遅すぎる結末だった。
空虚な心の隙間に涙が流れ込み胸が苦しくなった。ごめんなさいを伝える術は、わたしに残されていない。後悔はすべてが遅すぎた。
唯一つ、分かることがある。彼女が何故遺書の代わりにわたしが彼女に贈ったノートを置いて行ったのか。それは、彼女が死ぬ間際まで、わたしのことをちゃんと友達だと思っていてくれたことの証だった。
彼女はスローターゲームを始めたわたしのことに、失望なんてしていなかった。わたしだけが勝手に、由香里に失望し由香里を遠ざけた。
それだけが確かで、それ以外はすべてが罪深いわたしの過ちだったと、わたしはようやく悟った。
そして、わたしは罰を受ける。自分のために人を殺させ、親友を裏切り、死に追い込んだ罪人に待っているのは、過酷で終わることのない罰だ。
はじめて彼女が飛び降りるところを見たその日から、わたしは同じ日を何度も繰り返している。由香里の死を目撃した後、翌日のその時間、丁度広瀬由希が魔物とともに死ぬ時刻になると、再びあの屋上に呼び戻されるのだ。そして、何度か由香里が飛び降りるのを阻止しようと試みた。
だけど、どんなに手を尽くしても由香里は、晴れやかな顔をして、屋上から飛び降りる。それは、決まった運命のように、けして変わることはなかった。
五度目、彼女が飛び降りる瞬間、わたしはそれがわたしと言う愚かな罪人に課せられた、罰だということを認識した。
この罪は許されるのだろうか。許されたとき、わたしは次の日へと進むことが出来るのだろうか。それとも、永久にわたしは繰り返し続けるのだろうか。
例え、そうだとしても、わたしは甘んじて罰を受けよう。
十一度目、屋上の扉を開く。白い鳥が飛び立つ。由香里が屋上から飛び降りた。十二度目、十三度目。わたしは、罪が許されるその日まで、何度でもこの日を繰り返そう。
何度でも、何度でも……。
(あとがき)
最後まで読んで頂いた皆様方、大変ありがとうございました。連作短編「リフレイン」いかがだったでしょうか?
ネタ勝負で十の物語を書きましたが、まだまだ至らない点なども多かったと、反省しております。
最後まで読んでいただいた方は、もうお分かりと思いますが、物語の最後は第一話へと戻ります。つまり「リフレイン(繰り返し)」するというわけなのです。各ストーリーの主人公の名前は、次の話に出てくる名前であり、最終話の主人公の名前は、第一話に登場する名前なのです。
また、ご意見ご感想などございましたら、お寄せいただければ、大変嬉しく思います。
まだまだ精進が足りないと思いますが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。では、また、次回作でお会いしましょう。