日本王國
日本王國
昭和四十年代頃の、ある夏の日。
熊沢雅宗は埼玉県行田市へ向かっていた。
熊沢雅宗は、もうすぐ四十歳にもなるのに、東京の大学の日本史学部で助教授にもなれず、しがない万年講師をやっている。日本歴史学において学閥からも外れ社交下手で、研究心こそ旺盛で熱意を持って古代史研究を続けてはいたが、学界に認められるような論文も書けないし、書いたとしても発表の場さえ無いような考古学者の端くれと言えた。
しかし、熊沢雅宗は大学院生の頃から、ある独自の古代史探求を続けていた。
大学で不人気講師である熊沢雅宗が独自に行う史跡現地調査に、夏休みを潰してまで助手として付いて来る学生など一人もいない。そもそも、熊沢雅宗の研究室の所属は彼一人だった。今は、彼の考古学説の支持者など一人もいないが、それでも、熊沢雅宗は自説を証明するための日本古代史探究に強い執念を持っている。関東平野、特に利根川流域の行田市周辺に注目し、古墳群に関する古文書を探して読み漁った。そして、実際に古墳群を発掘調査し、新たな遺跡を発見するために行田の山野を一人で歩き回っていた。
学生の頃から熊沢雅宗は、倭國から大和朝廷へ、そして日本國へと至る単純な過程に大きな疑問を持っていた。中国の歴史書『旧唐書』の記述から、大和王権の勢力範囲外で未開の地とされていた関東には、大和王権とは別の未知の古代国家が存在していたと確信し、これは日本古代史の一つの大穴だ、大発見になる、とその歴史的事実の解明に、熊沢雅宗は自分の全てを賭けていた。
しかし、また熊沢雅宗は、自分は何をやっても日本古代史学界から認められることはないと分かっている。生涯、自分の研究は無視され続けて、注目してもらおうと自説を発表したとしても白い眼で見られ、学会の異端児として嘲笑されるだけだと諦めてもいた。後世に残るような貴重な発見をしたとしても、大学にも見放されていて、助教授にも成れないような自分の研究成果は、埃に埋もれたまま決して陽の目を見ることはないのだ、と完全に悲観している。
熊沢雅宗の妻も、彼の研究内容にまるで理解はなく、ただその低収入を嘆いている。彼の息子や娘たちも、家でも研究ばかりしている父を尊敬せずに邪魔者と思っているだけだった。誰も自分を引き上げてはくれないし、心を支え合ってくれる相手も、背中を押してくれる者もいない。だから、孤独な熊沢雅宗は、大和王権が各地の小国を統一し日本國となる前に、その領域の外の関東平野に邪馬台國のような未知の古代国家があったと言う説を唱え、それを生きる『よすが』とするしかなかった。その古代国家を日本王國と名付け、その日本王國にも卑弥呼のような女王が存在していたという自分の結論を信じて、たった一人で、特に大学が休みである夏の間は研究に没頭する日々を送っていた。
そんな真夏の、ある蒸し暑い午後。行田市の巨大な古墳群を踏査中の熊沢雅宗は、近隣の野原を歩いている時に、女学校の日本史教師で行田市の郷土史家でもあると称する五十歳手前くらいの男、赤松重臣に出会った。
高校教師で、趣味で行田の古代史を研究しているに過ぎない赤松重臣が馴れ馴れしく話し掛けて来たとき、熊沢雅宗は彼を多少、見下して適当に応対していたが、彼に同行している二十歳くらいの美しい女が気になった。熊沢雅宗は、赤松重臣という素人古代史研究家には全く興味が無かったが、気軽にもう少し話してみようと思った。まさか、その後、自分が、この男に色々と驚かされる事になろうとは、この時、熊沢雅宗は思いもしなかった。
「それでは、赤松さんは、女学校が夏休みで、教諭の仕事のない間は、ずっと行田の大型古墳群の調査に専念してるんですね」
「いや調査なんて、とんでもない。大学の研究員でいらっしゃる熊沢先生の学術調査に比べたら、私のは素人の遺跡巡りみたいなもんですな。でも、学生の頃から、もう三十年以上も、行田の古墳群だけを中心に研究していますから、私は素人の郷土史家に過ぎませんが、行田の古代史に関しては誰よりも探求し尽していると言う自負があります」
熊沢雅宗は、赤松重臣の生意気な自信が鼻についた。この十年は行田の大型古墳群の研究に没頭していると自己紹介した大学研究員で、歴史学講師の自分に対して、赤松重臣が対抗心を隠さずに発言していると感じたからだった。
――女学校の日本史教師が、道楽でやっている自分の研究に一人で陶酔しているらしい。よくいる歴史学者気取りだな、この赤松という男は……。
熊沢雅宗は、考古学談義と言うよりは、もう世間話気分になっている。
「赤松さんは、お一人で研究しているんですか? 行田周辺の郷土史家の方々で集まって、研究成果を発表し合ったり、素人歴史家同志で行田古墳群の研究交流なんかはしてないんですか?」
「いや、特に他の郷土史家とは付き合いはないですな。私の研究は、そこら辺の郷土史家の趣味の域を出ない考古学者気取りとは段階が違うので、交流会に以前は参加していましたが、得るところは全く無かったので辞めました。だから、今は研究成果を発表する機会もないのですが」
熊沢雅宗は、ますます、この自信過剰で、おそらく自己中心的な自称考古学者を好きに成れないな、と思った。こちらも、もうこれ以上、この男と話しても得るところはないな、と思い、そろそろ話を終わらせようと思っていた。
「でも、お一人だけで研究していて、せっかくの三十年にも及ぶと言う日本一の行田古墳群に関する赤松さんの研究成果が、誰の目にも触れないと言うのは残念ですね」
「いやいや日本一なんて、とんでもないです。でも私の研究成果は、いつかは日本の国宝になると確信していますが、問題は、私には研究発表の場が無いので、私の生きている間に、国宝として認められる日が来るかどうかですな」
赤松重臣は一人で笑った。
――国宝だと?
熊沢雅宗は心の中で冷笑している。
「しかし、熊沢先生も、お一人なんですな。現地調査に、自分の研究室の学生さんとかを同行させたりしないんですか? 大学からの研究費支給もあるんでしょう?」
「えっ? いや、私も、まだ行田の古墳群の研究では成果が無いので、学生に手伝わせるのも、何か申し訳なくてですね。だから私も、まあ一人です」
熊沢雅宗は、赤松重臣から侮られている、と感じると同時に、自分の研究室には学生が誰も在籍していないことを感づかれたようにも思って焦った。
――自分の顔色が変わったのを感づかれはしていないだろうか?
熊沢雅宗は、何とか研究費も支給されていないような自分の大学での情けない状況から話題を逸らしたかったので、ちらっと、赤松重臣の傍に立っている美しい女に目をやった。顔かたちは、赤松重臣には似ていないが、四十代後半の赤松重臣と女の二十代前半の年齢関係から言って親子かな、とも一瞬思った。
赤松重臣は、熊沢雅宗の視線の移動に気が付いて、自分も女に目を向けた。
「この子は、私が日本史教師を務めている女学校の元教え子です。夏休みの間もずっと、私の遺跡調査に同行しています。いや、大学の講師である熊沢先生に助手がいないのに、素人郷土史家の私に、こんな若く美しい研究助手がいるなんて、生意気で申し訳ないですな」
また、赤松重臣は、いやらしく一人で笑った。
熊沢雅宗は自分に対して、赤松重臣が優越感を持ち始めていることを確信し、
――この男は一体何なんだ。この根拠のない自信は、どこから来ているのか?
と、呆れ果てて、この男と会うことは二度とないだろう、と思っていた。
赤松重臣は、まだ薄ら笑いを浮かべている。
「実は、私の研究は一人ではないんですよ。この助手と二人で、二人三脚でやっているんです。美緒、熊沢先生に自己紹介して」
女は、赤松重臣に促されて、少し恥ずかしそうに口を開いた。
「赤松先生の高校の元生徒で、先生が顧問をされている日本古代史研究部に在籍していた頃からずっと大変お世話になっています。今は赤松先生の助手と言うか、先生の研究調査に毎日、付いて歩いている西野美緒と申します」
熊沢雅宗は、初めて美緒と瞳を交わした。美緒の美しさに一目で心を奪われている。そして、毎日一緒にいると聞いて心底、赤松重臣を羨ましいと思った。さらに、赤松重臣が、元教え子で今は研究助手である西野美緒のことを、西野くんとか美緒さんとかではなく、『美緒』と呼んでいるのがすごく気になった。
――このいやらしい中年オヤジと、この若く綺麗で色っぽい女は、一体どういう関係なんだ?
熊沢雅宗は、美緒のことばかりが気になって、美緒という女について、そして美緒と赤松重臣との関係性の方に興味が移って、それだけを話題にしたかったが、そういう訳にもいかない。とりあえず、行田の古墳群に話題を振った。
「大学で論文にも書いて発表していますが、私は、天皇家に通じると考えられる近畿の大和朝廷が、九州王朝である倭國を併合し、中国に対して日本國と名乗るようになった頃、その日本國の支配圏の外の関東、ちょうどこの行田の辺りに日本王國があった、と主張しています。その日本王國は、この行田周辺に、おそらく邪馬台國のようなクニを作っていて、そのクニには卑弥呼のような女王がいたと考えていますが、赤松さんは、どう考えているんですか?」
「私も、熊沢先生と同じように、倭國は九州王朝で、近畿天皇家つまり大和王朝が倭國を併合して、中国に対して日本國と名乗り、その勢力範囲は九州から東海地域までだったと考えています。関東以北は日本國の支配圏の範囲外で、その頃の関東、つまりこの行田周辺に関東日本王國があったのだ、との説を持っています。ただ、熊沢先生と私は、違いますね。先生に対しては、異論があります」
「えっ? 違う? 同じだと思いましたが、異論とは?」
「私は、その関東日本王國には、農耕祭祀を重んじる巫女のような女王ではなく、騎馬民族の首長のような豪族の大王がいたと考えますね」
「騎馬民族? 豪族の大王……ですか? その当時の関東平野にそんな騎馬部族とか、諸族を統合した首長がいたなんて、実際に馬を使って戦っていたとか、豪族の大王がいたとか、何か根拠でもあるんですか」
「根拠なら、ちゃんとありますよ」
――そんな馬鹿な。大学の学会でも今までに、そのような主張をして、その根拠を示した者など一人としていないのだ。こんな素人考古学者が、そんな大発見をしているはずがない。
熊沢雅宗は、ますます、この赤松重臣が詐欺師か、大法螺吹きか何かのように思って、これ以上関わり合うのは止めた方が良いのではないかと思ったが、なぜか好奇心が尽きなかった。
「その根拠とは何ですか? 何かの歴史的文書の記述の分析ですか? それとも郷土に伝わる古文書や風土記にでも書かれているのですか? まさか地元の伝承、言い伝えとか、そんな程度のものではないですよね」
「熊沢先生、そんな、不確かな根拠ではありませんよ。私が、三十年近くの歳月を懸けて調べ上げ、執念の研究の末に遂に見つけた確実な証拠です」
「確実な証拠? どんな証拠です? 赤松さん、あなたは実際に何かを見つけたんですか?」
「はい。弥生時代の後期頃に、関東日本王國が存在し、その王国は騎馬民族により建国されたもので、その王国を豪族の大王が統治していたという確固たる、まさに動かぬ証拠があります」
「…………」
「私は五年前くらいから、ちょうどこの美緒が私の研究調査を手伝ってくれるようになった頃から、その物的証拠を発見できるように成りました。そう、美緒は、私にとって正しく幸運の女神です。彼女のおかげで、この大発見が実現したと思っています」
「赤松さん。あなたの自説の根拠と成り得る、その物的証拠とは何なんです? あなたは一体なにを見つけたんですか?」
「騎馬民族や、豪族の大王の存在を示す遺物ですよ。行田周辺を探索していて、これまでに幾つも色々な遺物を発掘しました」
「でも、あなたみたいな郷土史家が、行田の大型古墳群を発掘調査するなんて、国や行政からの許可が出ないでしょう? あなたは無許可で日本の貴重な遺産である古墳群をほじくり返しているんですか?」
「まさか。熊沢先生、安心して下さい、私は古墳群をほじくり返してなどいませんよ。私は古墳以外の所を発掘調査しているんです」
「…………」
「今、存在している古墳がある場所ではなく、中央の日本國に滅ぼされた関東日本王國の、かつて存在していた古墳、いや古墳と言うよりは王墓と呼んだ方が良いかも知れませんが、その痕跡を発掘調査して、そして、様々な物的証拠を発見したんです」
「なんですって? そんな未知の古墳跡や、騎馬民族の大王の墓があるんですか?」
「未知の王墓跡が幾つもありますよ。おそらく、関東日本王國が滅ぼされたときに、それらの王墓は全て、日本國によって破壊されたので、今はその形が全く残ってはいないのです。しかし、私は、その痕跡を発見し、三十年に渡って地道な発掘調査を続けています。なかなか成果がなくて諦めかけたことが何十回もありましたが、この美緒が手伝ってくれるようになってからは、またやる気を取り戻して、そして遂に、その物的証拠を幾つも手にすることができました」
「…………」
「熊沢先生、その私の発見した物的証拠の数々をお見せしましょう。ぜひ、大学の先生であるあなたに、その目で事実を確かめて頂きたい。今から、私の研究所に来ていただけませんか?」
熊沢雅宗は、赤松重臣を素人の郷土史家だと馬鹿にしていたが、その研究内容に驚き激しく動揺している。今では彼を脅威に感じていた。彼の研究成果が本物なのかどうか、これは絶対に確かめる必要があると思った。それと、美緒の存在が気になっていたので、関東日本王國の存在や、騎馬民族の大王が実在していた証拠を示す発掘品を見せる、と言う赤松重臣の研究所へ行くことに同意した。
行田の古墳群がある辺りから歩いて十五分くらいのところに赤松重臣の研究所はあった。
彼の家は大金持ちであるらしいことに、熊沢雅宗は再び驚かされた。赤松家は、昔はこの辺りの大地主だったそうで、今でも山を幾つも所有していて、家の敷地も広大だった。家の大きな母屋とはまた別の、大きい平屋の別棟を全部そのまま彼の研究所としているとの事だった。研究所の広い屋内は倉庫のように改装されていて、所狭しと無造作に発掘品が並べられていた。木製の棚に置かれた木箱の中にちゃんと展示されている遺物もあれば、床の板の上にただ置かれている大きな弥生式土器もある。
熊沢雅宗は、しばらくは歩き回って発掘品を食い入るように見ていた。
――これは本物だ。間違いなく、関東日本王國の存在を証明する確かな物的証拠と成り得る素晴らしい発見だ……。
熊沢雅宗は、まるで今、自分自身がこの遺物を発掘して発見したばかりであるかのように興奮し、感動していた。しかし、美緒が、お茶を運んで来たとき、この発掘品は全て赤松重臣の所有物なのだ、と我に返った。短い夢から覚めたような感じがあった。
赤松重臣は、自分の研究成果を見た熊沢雅宗が言葉もなく、発掘品の歴史的価値に驚愕しているのが分かったから、笑いが止まらないようだった。満面の笑顔で、熊沢雅宗の横顔を見つめている。
「熊沢先生、どうですか? 私の発掘品の数々は」
「すごい。石器、土器、装身具、武器や武具、動物の骨や、古代人の人骨まである……」「そうです。当時、ここら辺には、干潟もあったようで、狩猟による獣の肉だけではなく、採集により魚貝類なんかも、たくさん食べていたのでしょうな。弥生時代なのに、縄文時代のような貝塚もたくさん見つけました。貝塚はゴミ捨て場でもあった訳ですから、土器や、色々な道具、獣の骨や人骨まであって、何でもかんでも貝塚に捨てていたのでしょうな」
「貝塚に捨てられた人骨は、この王国の敵を殺したものですかね。あるいは、奴隷とか、生贄の骨か……」
「さあ、まだ、そこまでは調査できていませんが、これらは、関東日本王國の存在を証明するような物と成り得ますか? どこかの歴史学会に発表できそうですかな?」
「素晴らしいです。これは日本の考古学上の宝となるでしょう。ぜひ、発表すべきです。よく、これほどの発掘成果を、たった一人で……。いや、助手と二人だけでとは本当に驚きです」
「いやいや、宝だなんて、そんなにお褒めの言葉を頂いて恐縮ですな。しかし、発掘品が多過ぎて、研究成果が膨大になってきましたので、とても整理が付きません。こんな感じでこの倉庫のような部屋に置きっぱなしの状態です。裏庭の納屋の中にも、まだまだ発掘したばかりの遺物が整理できずに、たくさん放置してあって」
「えっ、この他にもまだあるんですか?」
「美緒が、毎日休まず発掘品の分類や管理、研究日誌の記述や編集なんかを手伝ってくれてはいるんですが、それでも整理が追い付かないので、最近では美緒は、この奥の部屋に泊まり込んで作業しているくらいなんです」
熊沢雅宗は、倉庫の奥の方の部屋を、ちらっと見た。その部屋は、台所や食卓、畳の居間もあるようで、そこに寝泊まりすることもあると言う美緒と赤松重臣の関係性が、また気になってきた。それを想像し始めると、熊沢雅宗はそのことばかりが気になって、発掘品どころではなくなってくる。
「この倉庫みたいな所に、美緒さんのような女性が寝泊まりすることがあるんですか?」
「そうなんです。私の妻も、美緒に、母屋の客間で寝なさいと言うんですが、美緒が、私の妻に気を使って、ここで寝ると言い張るもんですから。この奥の部屋は、私の研究用の書斎だったんですが、今では美緒の仮の住まいですな」
別棟とは言え、妻のいる赤松重臣の家に寝泊まりすることもある美緒と彼の関係とは、ただの教師と元教え子、あるいは歴史研究家とその助手に過ぎないのだろうか。妻の見ていないときに、奥の部屋で赤松重臣は美緒と寝ることがあるのか。そればかりが気になってきた。
しかし、熊沢雅宗は、何とか発掘品だけに神経を集中させようと努めた。
普通の中年の田舎教師にしか見えない赤松重臣の発掘品を、冷静になって調べ始めたが、やはり信じられないような素晴らしい歴史的遺産ばかりだった。行田の未知の王墓跡から発掘されたと言う、千葉産出の貝殻、埼玉の土器、馬や馬具や武人の埴輪、そして山梨産出の水晶原石と水晶勾玉。埼玉を中心として千葉から山梨に至る強大な武力国家、これを関東日本王國として、その実在を充分に証明するに足る発掘品を今、自分は目の当たりにしている。心の底からすごい発見だと思った。
――こんな、いやらしい下品なオヤジに、やられた。完全に先を越されてしまった……。
熊沢雅宗は負けを認めるしかなかった。
「美緒。やはり、私たちの研究成果はすごいぞ。大学の先生も一目見ただけで、認めてくれたんだからな。これを、ちゃんと世間に発表したら、二人ともすごいことになるぞ。これまでの地道な苦労が報われて、今の生活が一変するかもしれんな。まあ、まだ発掘品が、どれがどれなのか、幾つあるのか全く整理できていないし、どれがあってどれが無くなっても全く把握できていない状態で。研究論文も書き上げなくてはならんし、これからが大変だな」
赤松重臣は両手で、美緒の白く柔らかそうな手を、いやらしく撫で回すように握り締めながら、下品な笑い声を上げている。
赤松重臣の大発見に圧倒され、敗北感と屈辱感に堪え切れなかった熊沢雅宗は、なぜか思わず、大王の勾玉を一つ盗んでしまった。赤松重臣と美緒が見ていない隙に、熊沢雅宗は、ほとんど無意識の内に、棚の木箱の中に並んでいた大王の勾玉の一つを掴み取って、ズボンのポケットの中に入れていた。赤松重臣の発掘品は全く整理されておらず、管理が杜撰なので、一つくらい無くなっても分からないだろう、と思ったからなのか。とにかく、そんなことをした自分に、すごく惑乱していた。手は震えて、腋の下からは汗が流れ落ちている。足が浮いているようで、歩き出すときに脚が縺れそうなほどだった。瞬間的に、少年の頃に、駄菓子屋で万引きした時の興奮を思い出した。
その後、赤松重臣や美緒と何を話したのか、赤松重臣の研究所を出て、彼に感謝を述べて別れてから、どのように家路に着いたのかも、熊沢雅宗は、よく覚えていない。ただ、帰宅して一人になってからは冷静に、盗んだ大王の勾玉を取り出して、いつまでもその濃緑色の鈍い光を放つ石を見つめていた。
数日後、熊沢雅宗に、赤松重臣から電話があった。
赤松重臣は、自分の研究成果に対する、熊沢雅宗の先日の評価に感謝を述べてから、上機嫌で本題を話し始めた。
「熊沢先生。あなたのような大学の先生にお墨付きをもらってですな、すっかり自信をつけたという訳なんですよ」
「いや、わたしは三流大学の歴史学講師の一人に過ぎません。もっと一流の大学の考古学会にでも頼んで、一度、あの研究所へ視察に来てもらったら良いと思いますよ」
「いやいや、そんな謙遜をなさらずに。熊沢先生のような行田古墳群の専門の考古学者に私の研究成果を評価して頂いて、本当に良かった。私は、あなたと一緒に、研究成果を発表しようと思っています」
「私と一緒にですって?」
「そうです。もともと、もうすぐ発表しよう、そろそろかな、と思ってはいたのですが、熊沢先生のおかげで、やっと決心が付きました。研究成果を論文と発掘品の写真とにまとめてですな、東京の有名出版社から『関東日本王國と騎馬民族の大王』という本にして自費出版するので、大学の研究員である熊沢先生にも、ぜひ論文を寄稿して頂きたい」
「私の論文?」
「熊沢先生の『農耕祭祀民族の女王と日本王國』の論文と、私の『騎馬民族を統合した豪族の大王による関東日本王國』の論文を対比させる形の共同著書にしてですな、その本でもって、かつて行田に存在していた巨大古代国家の存在を証明してみせて、世間を、あっと言わせましょう」
「…………」
しかし、赤松重臣の話は、それだけではなかった。
赤松重臣は、本は共同著書として熊沢先生の論文も掲載するのだから、熊沢先生にも出版費用を半分出資して欲しい、と言った。どう見ても赤松重臣は大変な大金持ちの家であるはずなのに、熊沢雅宗が安月給の大学講師と分かっていながら、そんな事を言ってきた。熊沢雅宗は、赤松重臣のその姑息さに腹が立っていた。自分で勝手に話を進めておいて、論文だけでなく、その出版費用まで出資しろとは、傲慢な男であるのは分かっていたが、資産家なのに金にまで汚いのか、と呆れた。
そして、熊沢雅宗の論文と対比させると言うが、明らかに赤松重臣は自分の論文が絶対的に勝っていることを知っていて、自分の論文だけが大注目され、誤った説を唱えている熊沢雅宗に恥をかかせて、彼をただの引き立て役にしようとしている。そんな魂胆が見え見えの依頼をしてくる赤松重臣の、その虚栄心に、熊沢雅宗は憎悪すら覚えて、すぐに彼からの依頼を断ろうと思った。
しかし、赤松重臣という男は、間抜けそうな中年オヤジを装いながら、実は如才ない狡猾な人間なのかも知れない。熊沢雅宗が心底、美緒に惹かれていることを見抜いていて、彼がこの申し出を断れないようにしたのだった。
「この共同著書の編集は、美緒に任せようと思っているので、熊沢先生、論文の寄稿とか出版費用折半の件など、あとは美緒に会って、熊沢先生と美緒の二人だけで詳細を話し合ってください。私はまだまだ発掘の方に専念したいので、忙しくて、そっちの方には手が回りませんな」
赤松重臣のいやらしい笑顔を思い出すと、熊沢雅宗は、ただただ不快だった。
熊沢雅宗は、美緒に近づきたかった。
赤松重臣の誘いに乗るのは、みすみす彼の罠に嵌まるような気がしたから、熊沢雅宗は、赤松重臣の依頼を断ろうと何度も思った。しかし、秘かに美緒への思いが募って、どうしても美緒を諦め切れなかった。葛藤はあったが、逡巡して結局、本の編集を担当するという美緒との繋がりを持ちたいがために、赤松重臣の申し出を受けることにした。
赤松重臣の研究所を再訪する約束というよりも、ただ美緒に会いに行く約束をするために美緒に電話するとなったとき、もうすぐ四十歳の熊沢雅宗は、二十歳の頃に女の子に電話した時のように、心が時めき興奮していた。電話の向こうに美緒がいると思うだけで気持ちがはやり、とても心の平静を保てない。
「もしもし熊沢です。あっ、美緒さんですか? 赤松さんに言われて電話したのですが」
「はい、赤松先生から、御用件は聞いています」
「そうですか。先日の赤松さんとの共同著書の件で、美緒さんが私の論文を手伝う、いや私の編集をする、違うな。二人で編集すると言うか、私は何を言ってるんだ」
「熊沢先生、おっしゃっていることは何となく分かります。とにかく、明日、お会いしてお話ししましょう。赤松先生の研究所でお待ちしております」
電話を切って、熊沢雅宗は、汗が一気に乾いて冷たくなるのを感じていた。
――美緒さんは今夜も赤松の家に泊まるのだろうか? 夜に妻の目を盗んで、赤松は美緒さんと寝ることがあるのだろうか? そして美緒さんは赤松に体を許しているのか?
美緒と初めて二人だけで会う日の前夜は、そんな妄想で熊沢雅宗は全く眠れなかった。
午後の強い陽射しの中、赤松重臣の研究所の前で、熊沢雅宗と美緒は再会した。
熊沢雅宗は、努めて自然を装った。この会合は単なる仕事の打ち合わせなのだ、と自分に何度も言い聞かせた。
熊沢雅宗は、美緒に続いて、発掘品が並んでいる倉庫のような部屋を通ってから、奥の美緒が仮の住まいとしていると言う部屋へ入った。食宅にも使っていると言う机に美緒と二人だけで向かい合って座り、熊沢雅宗は緊張を解こうと、とにかく本の構成や自分の論文の内容について話そうと思った。研究の話から始めれば、だんだん、美緒の方の話を聞く余裕も出てくるだろう。
熊沢雅宗の論文については話し終わり、本に掲載する赤松重臣の発掘品の写真を一緒に選び始めた頃から、ようやく二人は打ち解けてきた。美緒にも笑顔が見え始めた。
熊沢雅宗も自然な笑みを浮かべて、本当に気になっていることを美緒に質問し始めた。
「でも、美緒さんは、ここに寝泊まりすることがあるなんて、大変ですね。まさか、赤松さんも、この部屋で徹夜したり、ここで仮眠したりして研究に没頭することがあるんですか?」
「まさか、赤松先生は、夜更かしが嫌いです。朝五時に起きて、発掘に行く毎日ですから。それに、こんなところで寝たら奥様に怒られるらしく、疲れたらすぐにご自分の寝室へ行ってしまいます。ここで食事するのも奥様に怒られるからって、必ず母屋の食卓へ行かれますよ。私は一人で、ここで食べますけど」
熊沢雅宗は安心した。赤松重臣は案外、恐妻家らしい。妻の目の届くこんな近くで、美緒と不倫をしているとは、とても思えない。
――美緒さんと赤松の二人には、特別な関係はないのだろうか? 美緒さんは、赤松に汚されてはいないのか?
熊沢雅宗は、美緒が身に着けている服の下の裸を見透かさんばかりに、美緒のことを見つめてしまっていた。
「熊沢先生、私、そんなに大変そうに見えますか?」
「えっ、いや、だって実際に大変なんでしょう、この前の話からすると」
「そんなに大変ではないんですよ。大学の研究室に比べたら気楽な仕事だと思います。最近は、ここに寝泊まりすることもなく、自分の家へ帰っていますし、一人でのんびりしています」
「そうなんですね。普段お仕事は何時までなんですか?」
「夕方の五時、あっ、六時、もうこんな時間なんですね」
「あっ、いつの間にか残業させてしまって、申し訳なかったです。明日も、また赤松さんの研究の整理や、本の編集で忙しいのに」
「本当に忙しくはないんですよ、でも……」
「……でも?」
「じつは、昨日、ちょっと大変なことが……」
「大変なこと……。どうしたんですか?」
「昨日、赤松先生に、ひどく怒られたんです」
「怒られた? なぜ?」
「大王の勾玉が一つ無くなっていたんです」
「……大王の勾玉?」
「はい。先生が発掘品の写真撮影をしているときに気が付いて、大王の実在を証明するために必要な、あの大事な大王の勾玉が一つ無くなっているぞ、美緒がちゃんと整理して置かないからだ、と私のせいになって、すごく怒ったんです。まだ発掘品の一覧表もできてなくて、勾玉の数は数えていなかったので、私が、先生の数え間違いです、最初からその数で、一つも無くなってはいません、と言ったら、本当に一つ無くなっているんだ、と怒って怒って大変でした」
「そうだったんですか、でも勾玉だけでも、百個くらいはあったでしょうか。あんなにたくさんあるから、管理も大変でしょう」
「とにかく、昨日はずっと怒られて、私も落ち込みました」
「それでは、今日は残業もさせてしまったし、昨日のことを忘れるためにも、飲みにでも行きませんか、私のおごりで」
「まあ、飲みに行くなんて久しぶりで嬉しい。気晴らしがしたかったので、ぜひ連れて行ってください」
熊沢雅宗は、思いがけず美緒が簡単に誘いに応じてくれたので、心の内では天にも昇るほどに歓喜していた。
熊沢雅宗と美緒は、行田駅前の居酒屋へ行った。
二人は、お酒も入って、色々とお互いの日々の愚痴をこぼしたりして、すっかり意気投合した。二人とも日頃の鬱憤が溜まっているという大きな共通項があったのだ。
熊沢雅宗の美緒に対する恋心は否応なく募った。
また、熊沢雅宗は自分が大王の勾玉を盗んで、美緒が赤松重臣に怒られてしまったことを、心の中で美緒に謝っていた。
「でも、あんなにたくさんの発掘品の整理を美緒さん一人に押し付けて、赤松さんは、ただ掘って持って帰るだけなんだから、文句を言うなんて、けしかんらんね」
「ほんとに、そのとおりです。ただ掘り出して、泥だらけの遺物を持って帰って来て、あとはよろしくって」
美緒も笑った。
「赤松さんは、管理は全部他人任せなんだから、一つくらい無くなっても文句は言えないでしょう。そうだ、先日、私が見学に行きましたが、あの後に無くなったようだから、あの熊沢が盗ったに違いないと、美緒さん、どうぞ私のせいにしなさい」
「熊沢先生、そんなことはできませんよ。でも、昨日の夜、本当にしつこくお仕置きされて、それでも私が無くしたとは認めないし、謝りもしないから、赤松先生は、もっともっといじめてやるぞって、ひどいんです。しまいには、私を研究所から追い出すぞって言って」
「いっそのこと、あの研究所を辞めて、赤松さんのところを離れたらいいでしょう」
「赤松先生のところを離れたら、私は生きていけません。あれが私の仕事なので」
美緒は笑ったが、瞳はどこか悲しそうだった。熊沢雅宗には、そう見えた。
また、赤松重臣の夜のお仕置きやいじめとは、一体どんなことをしているのか。そのことばかりが熊沢雅宗は気になった。
書き上がった分の原稿や、出版費用の分割金を手渡すために美緒に会いに行くときの熊沢雅宗は、二十歳頃の自分に戻って恋人のもとへ走って行くような気分だった。
美緒の顔の色々な表情を見つめ、内側から白い輝きを放っているような素肌や、美緒の体の女らしい形を愛で、その若々しく弾むような動きを感じるのは、熊沢雅宗にとって至福の一時だった。
しかし、そんな夢のような日々も終わろうとしていた。
その日、熊沢雅宗は、完結した論文を持って美緒に会いに行った。
「これで私の論文は完成です。残りの出版費用は近日中に指定の銀行口座へ振り込む予定です、と赤松さんに言っておいてください。あとは、赤松さんの論文と、掲載する写真の選定ですね。美緒さん、がんばってください」
「はい、熊沢先生、お疲れ様でした」
「私は、しばらくはここへ来ることもないでしょうから、打ち上げという事で、赤松さんも誘って飲みに行きませんか」
「まあ、お誘い嬉しい。でも、赤松先生は今日、とても忙しいと言っていらしたので、たぶん、打ち上げでも飲みには行けないと思います」
「そうですか。それは残念ですね」
「熊沢先生。もしよろしかったら、私と二人だけで行きませんか」
熊沢雅宗は、どきっとした。
行田駅前の居酒屋で、また二人で飲んで、熊沢雅宗は、美緒がかなり酔っているのを感じていた。
「そんなに飲んだら、美緒さん、酔って歩けなくならないかな?」
「今日は何か酔いたくて」
二人で居酒屋を出て、熊沢雅宗は、酔った美緒を一人で帰したくなかった。
「家まで送りましょうか」
「熊沢先生、送ってくださるの?」
熊沢雅宗は、酔った美緒を彼女の家である木造アパートの二階まで送って行って、部屋のドアの前で自然と美緒を抱き寄せた。酔いにまかせて、しばらく美緒を抱き締めていたら、彼女が許したから、熊沢雅宗は簡単に彼女の唇を奪うことができた。
「部屋の中に入ってもいい?」
美緒は、首を横に振って断った。
「…………」
熊沢雅宗は、美緒の拒否を意外に思ったから、一気に酔いが醒めてしまった。
――美緒さんは、私を部屋には入れてくれないのに……。やはり、あの赤松を部屋へ招き入れることはあるのだろうか?
熊沢雅宗は、それを美緒に訊きたかった。しかし、彼女の顔を見ていて、それは聞くまでもない、と分かってしまった。
美緒と別れて、熊沢雅宗は一人で歩きながら、どうしようもないくらいに若い頃のような肉欲が蘇ってくるのを感じていた。他の男の愛人に対する肉欲だが、これはもう止められないと思った。
熊沢雅宗は、どうしても、もう一度だけ美緒に会いたかった。
さらに、美緒と肉体関係にあるであろう赤松重臣にだけは二度と会いたくなかったので、電話で赤松重臣が不在であることを彼の妻に確認してから、美緒に会うために赤松重臣の研究所へ行った。
「熊沢先生、今日は、どうしたんですか?」
「私の論文で、少し書き直したいところがあったものだから」
「あらっ、私にお電話いただければ、私の方で直しておきましたのに」
美緒は、わざとなのか、女がよくするように、この前の夜の抱擁と口づけを全く気にしていないように振舞っている。
「美緒さんも、たくさんの発掘品の整理や、本の編集作業で忙しいだろうから、私の論文の書き直しまでお願いしたら申し訳ない、と思って」
「熊沢先生はお優しいんですね。赤松先生は、バカの一つ覚えみたいに相変わらず発掘作業ばかりで、その研究成果の整理は私任せ。本に載せる写真の選定まで全部私に押し付けて」
「この前、飲みながら話したみたいに、もう本当に、こんな仕事は辞めてしまったらいいのでは? そもそも、なんで美緒さんのように頭が良くて、若くて美しい女性が、あんな男の下で、こんな研究所に一人でいるのか、私には疑問です」
「自分でも不思議なんです。女学校を卒業したのですけれども、不況で良いお勤め先も見つからないし、お嫁に行きたいようなご縁もなかったので、仕方なく、いつの間にか赤松先生のところで古代史探究のお手伝いをすることになってしまいました」
熊沢雅宗は、自分には家庭があるとか、大学でも助手を持つような立場ではないとか、下心が見え見えであるとか、そんなことは、もうどうでもよくなった。何でもいいから、とにかく美緒を、ただもっと自分の方へ引き寄せたいと思った。
「美緒さん、思い切って私の大学へ来て、私の助手として本格的に古代史を勉強してみてはどうだろうか」
熊沢雅宗は唐突に提案してみた。
美緒は夢見るように、希望に瞳を輝かせて熊沢雅宗のことを見つめ返している。
「本当ですか? ぜひ、そのお話、考えさせていただけませんか? 私が大学の研究員なんて、もし成れたら嬉しい。本当を言いますと、こんなところはもう、うんざりでしたの。赤松先生の奥さんも私のことを良くは思っていませんし、赤松先生の愚痴や、夜のお仕置きや、いじめも、もうたくさん。嫌で嫌で仕方なかったんです」
「それなら、美緒さん、ぜひ私の研究室へいらっしゃい」
「そうですね」
「私と一緒にやっていきましょう。二人で古代史を研究するんです、大学で」
「熊沢先生、今日は、もうお仕事のお話は辞めにして、これから私を飲みに連れて行っていただけませんか?」
二人で飲んでいるときから、熊沢雅宗は、もう美緒に対する前戯が始まっているように思っていた。今夜、二人が体を重ね合わせることは分かっているのだから、早く美緒を愛撫したくて堪らなかった。
今夜、美緒が熊沢雅宗に体を許してくれるかどうかは、まだ分からないのに、勝手にそう決めつけていた。熊沢雅宗は、もう美緒への肉欲が抑え切れなかった。
飲み屋を出て、
「もう今夜は帰ります」
という美緒を彼女の家まで送って行って、部屋のドアの前で、熊沢雅宗は美緒と飽きるまで唇を重ね合わせていた。
「今夜は部屋の中へ入れて欲しい」
「…………」
「今夜こそ君が欲しいんだ」
また美緒は首を横に振って拒絶した。
「この部屋は、赤松先生が来るかも知れないから、だめなんです」
「…………」
「赤松先生は、この部屋の合鍵を持っていますから……」
こんなときに赤松重臣の名前を聞いたから、さらに嫉妬で頭に血が上って、肉欲の塊となった熊沢雅宗は強引に美緒をホテルへ誘った。
最初、美緒は拒んだが、拒みながらも熊沢雅宗に付いて来た。二人とも酔っていたので、いつの間にかホテルの部屋の中にいて、その夜、夢中で肉体関係を結んだ。
しかし、数日後、赤松重臣の不在を確認してから、熊沢雅宗が再び美緒に会いに行くと、美緒は意外なことを言った。
「赤松先生が反対したから、熊沢先生の大学の研究室へ行くのは諦めます」
「そう……。でも、なぜ?」
熊沢雅宗の心臓の鼓動は急激に高鳴ってはいたが、不思議と平然としていられた。彼は、どこかで、彼女のこの返答を予想していたからなのだろう。美緒から、数日間、全く連絡がなかったので、熊沢雅宗には悪い予感があった。それでも、期待を大きく裏切られたことに落胆しているのは間違いなかった。
「……理由は特にありません。ただ、赤松先生が、駄目だって。そんなことは私が許さないって」
「そう……」
「…………」
「もし、あいつが、赤松がいなかったら、私の大学へ来る?」
「はい。行きたいと思っていました。でも、私、赤松先生からは離れられません」
「どうして?」
「月々のお手当も、あのアパートの家賃も、私の両親への仕送りまで、何不自由のない生活を、全て赤松先生に面倒見てもらっているんです」
――やはりな。
と熊沢雅宗は思った。同時に、自分にはそんな金は、どう逆立ちしたって出せはしないな、と諦めた。
「熊沢先生、私は、女学校を卒業する時から、ずっと赤松先生に支配されているようなもんなんですよ」
美緒は力なく笑った。
「他に仕方がなくて、いつの間にか、そうなってしまいました」
「…………」
「昨日の夜も、私の部屋で、赤松先生に、この前お話したとおり、やっぱり私、熊沢先生の大学へ行って助手として勉強したいんですって言ったら、またいつものお仕置きが始まって。もう恐かったんですよ、熊沢先生、助けてください」
今度、美緒は、何とも言えない笑顔を見せた。
「お仕置きって、どんな?」
「ねちねちと、一晩中ずっと放してくれなくて、激しく攻め立ててくるんです。しつこいったらないんですよ。熊沢先生、ほんと助けて」
赤松重臣の性癖を聞いていて、この前の夜だけは赤松重臣ではなく、自分が美緒の妖艶な肉体を独り占めしていたことが思い返されて、熊沢雅宗は美緒に対する独占欲が強まって堪らない気持ちになっていた。
「もし赤松を殺して、奴がいなくなったら、どうする?」
熊沢雅宗は無理矢理に笑った。その笑顔は引き吊っている。
「もし赤松先生がいなくなったら? そうしたら私、熊沢先生の大学へ行って研究助手になります」
熊沢雅宗は、また強引に美緒を連れ出し、酒を飲みに行った。
二人でホテルへ行き、再び激しく体を重ね合わせた。もう熊沢雅宗の美緒に対する肉欲と独占欲は止まらなくなっていた。
美緒に会えないとき、熊沢雅宗には、赤松重臣への嫉妬と憎悪しか残っていなかった。だから、熊沢雅宗は、赤松重臣を殺して彼の発掘品や研究成果と、美緒の両方を奪い取ることを妄想するしかなかった。そのような悪事を、人が実行に移してしまうとき、最後にその決心をさせるものとは何なのか? やはり強迫観念なのだろうか? それとも、本当に単純な性衝動なのか?
熊沢雅宗は、大学から許可をもらったので、行田の古墳内の貴重な石室を共同で発掘調査しましょう、と赤松重臣を誘った。発掘好きの赤松重臣は、もちろん喜んで付いて来た。
その日、二人だけで、行田の古墳の発掘調査を始めたとき、熊沢雅宗は既に、石室の出入口の上に仕掛けをしておいた。夢中で発掘調査をしている赤松重臣を、計画的に落石を装って殺そうとしたが、失敗してしまった。赤松重臣は、後頭部の頭蓋骨を陥没骨折しただけで、死ななかったのだ。
熊沢雅宗は全てにおいて絶望することになった。
赤松重臣は長期入院し、熊沢雅宗との共同著書の出版は中止となった。さらに、なぜか赤松重臣の妻に代わって、美緒が付きっきりで赤松重臣の看病だけに専念することになったので、熊沢雅宗は、美緒と全く会えなくなってしまったのだ。
おそらく、赤松重臣の妻は、夫と美緒の関係に、とっくに気づいていたのだろう。
そして、赤松重臣も、熊沢雅宗と美緒との関係に気づいていたのだ。
赤松重臣は、熊沢雅宗と美緒を、もう二度と会わせないと決めたようだった。退院したというので、赤松重臣の自宅へ見舞いに行ってみて、熊沢雅宗は、改めてそれを悟った。
あんな大怪我をして自宅で静養していると言うのに、赤松重臣は相変わらず元気で、いやらしい笑みを浮かべている。
「熊沢先生が見舞いに来られるという事で、美緒はちょっと使いに出しておきましたので、今はいませんよ、会えなくて残念でしたな」
「いやいや、赤松先生がお元気で何よりです」
「おかげさまで、まあ、何とか私は命拾いをしましたよ。咄嗟の熊沢先生の救護のおかげと言うべきなんですかな。私は、あの事故の時のことをよく覚えてはいませんが」
「…………」
「熊沢先生は、まだご自分の説を基に研究を続けているんですか?」
「はい」
「あの農耕祭祀民族の女王と日本王國なんて、あんな説は捨てて、もう無駄なことはお辞めになった方が良いのではないですかな? 美緒とも、さっき話していたんですよ。今に大王の太刀や冠、装飾品が次々と発掘されて、私の方の説が証明されるのは時間の問題なんですからな」
赤松重臣は勝ち誇っている。
熊沢雅宗自身も、女王の存在に自信が持てなくなっていた。女王がいたという自説と共に、それを唱え続けた彼自身も消えて無くなってしまいたかった。
「赤松さん。あんまりお疲れになっては傷にも良くないでしょうから、私はそろそろ失礼します」
「ちょっと待ってください。まだ話があるんです」
「話?」
「熊沢先生、あの時あなた私を殺そうとしましたね」
「えっ」
「あなた、やっぱりあの時、落石事故に見せかけて、私を殺そうとしたんですな。昨日の夜、事故以来初めて美緒のアパートへ行って、ベッドの中で二人で話していたんですよ。あの事件のことを」
「あの事件?」
「あなたが犯した殺人未遂事件ですよ。あなた私を殺そうとしたんですからな。美緒が、なかなか白状しないので、またいつものように手厳しくお仕置きをしてやりましてね。容赦しないで、いじめ抜いてやりましたら、美緒もようやく告白しましたよ。あなたには私に対する明確な殺意があったと言うことを」
「…………」
「それで、そのあとは、美緒と二人で、やっぱりあなたの犯罪を警察へ訴えるべきだと、そう話し合っていたんです」
熊沢雅宗は、赤松重臣のことも、美緒のことも、警察の取り調べを受けることになって裁判に掛けられるかも知れないことも、あれこれ考えると絶望するしかなかった。
しかし、一番には、美緒に対する欲求で気が狂いそうになっている。精神はバランスを失い、常に酩酊しているような、おかしな感じだった。古代の王国の祈祷師やシャーマンとは、このような精神状態だったのではないか、と変に面白い気分になったりもして躁鬱気味だった。
熊沢雅宗の、邪馬台國のような女王のいる日本王國という説は敗色が濃厚である。そして、赤松重臣が、今に大王の太刀や鏡、装飾品が次々と発掘されて、間もなく自説が証明されるのだ、と勝ち誇っている姿を、御告げのように夢に見たりして、熊沢雅宗の孤独な魂は制御不能になってきた。
それでも、熊沢雅宗は行田古墳群周辺の研究調査へ出かけた。そうする以外に、どうしようもない心境だった。
そして、熊沢雅宗は、行田にある貝塚のような未知の古代遺跡から、新たに女性の白骨を見つけ、その女が女王であるという最後の虚しい希望を持った。それは、石詰めにされた人間の全身骨格だった。貝塚では貝殻のカルシウム成分が土壌をアルカリ性に保ち骨の保存状態が良いから、その人間の骨格は、驚くほど完全な状態で露見した。まるで死の瞬間の光景が眼に浮かぶほどに、生きた人間の最後を留めていた。
熊沢雅宗は、それが女の骨格であり、女王の遺骨に違いないと信じて疑わない。しかし、貝殻や小石を取り除きながら考えてみると、当然に、なぜ女王が王墓ではなく、貝塚のような穴に埋葬されたのか、という疑問に行き当たる。
――埋葬されたのではない。生贄とされたのだ。
その結論に達するまでに時間は掛からなかった。おそらく若く処女のままで死んだであろう生贄の女王の骨に、痛ましい気持ちと、憐れみを持って触れてみた。不意に、ある予感に襲われて、熊沢雅宗は目を閉じた。
熊沢雅宗は、古代のシャーマンの脱魂状態や、何かが憑依した精神を体感しているようだった。眠っているのか、覚醒しているのか。幻覚を見ているかのような、夢うつつの中にいた。目の前には、現実ではない光景が確かにあって、自分の存在の方が幻であるような奇妙な感覚がある。
そこは、もう弥生時代の古代世界だった。
熊沢雅宗は貝塚のような穴の中にいて、彼が穴の底から見上げると、やがて、若い巫女が一人だけ穴の底へ下りて来た。不思議とその巫女の顔は美緒と瓜二つだった。
熊沢雅宗は、
「君は女王なのか?」
と巫女に尋ねた。
巫女は首をかしげた。そのしぐさも美緒に、どこか似ている。
「女王でなければ、なんなんだ? やはり、ただの巫女なのか?」
「…………」
熊沢雅宗は、現代日本語と古代の日本語とでは発音や文法なども違い、言葉が全く通じないのだと理解した。何か意思の疎通が図れないものかと思い、咄嗟に、いつも持ち歩いている大王の水晶勾玉を巫女に手渡した。
巫女は、初めは驚いて大王の勾玉を受け取った。その時の表情にも、まさしく美緒の面影がある。彼女は美緒の遠い祖先なのかも知れない。巫女は、掌の勾玉を愛おしそうに見つめている。その憧れの表情と、巫女の姿をしばらく見守っていて、やはり、この國には、女王は存在しなかったのだ、と熊沢雅宗は悟った。
巫女は、大王の勾玉を大事そうに胸の中に抱いて俯き、憂いを帯びた表情のまま、穴の底に静かに横たわった。蒸し暑いのに、なぜか微かに震えている。
熊沢雅宗が穴の底から再び見上げると、古代の村人たちが穴の周りから小石を一つずつ投げ落としてくる。穴の周りの至るところから、小石が雨あられのように降ってきた。
穴の底に横たわっている巫女の体が、どんどん降ってくる小石で埋まっていく。そこでは、ただ透明な空気のような傍観者に過ぎない熊沢雅宗は嗚咽を漏らした。
処女の巫女は、わずかに目を開き、
「仕方がないのです」
と呟いた。
熊沢雅宗は、ああっ、と感嘆の声を上げ、
「たとえ女王ではなくても、後の世で、生贄のあなたの骨だけが、あなただけが、私に語りかけてくれた。あなたは私に何かを伝えようとしてくれた」
と叫んでいた。
小石に埋もれながらも巫女は、
「私は、赤松大王に仕える巫女でした」
と言った。
熊沢雅宗の目には、別の幻が浮かんだ。木造の宮殿のような建物の中の、薄暗い部屋が映っている。
部屋の中央には低い台座があって、大王があぐらのような恰好で座っていた。まさに騎馬民族の族長のような出で立ちで、長い太刀を杖のように両足の間の床に突き立てている。その大王の前から少し離れたところに、巫女が平伏していた。
大王の横に立っている男は、大王の側近なのだろうか、巫女を激しい言葉で責め立てている。
「おまえは勾玉を一つ盗んだな。大王の勾玉が、どうしても一つ欲しくて盗んだと、さあ白状しろ」
巫女は、ただただ平伏していた。体は恐怖で震えている。
大王が野太い声で、側近に言った。
「西の大國に倣って、不老不死に効力があるからと大勢の巫女を使わしたが、やはり我らには巫女など要らん。巫女の祈祷は全く効かないではないか。不老不死は嘘で、盗みまで働く、巫女など信用ならん。女は子だけ産んでおればいいのだ。西の大國とは違い、やはり我ら騎馬民族にとっては馬こそが力の源。馬で民に力を示し、土地を開墾させ、その土地には地母神が宿る。巫女など、どこにも必要がない。巫女など要らんのだ。この巫女も生贄にでもしてしまえ」
大王は、太刀を持ち上げてから床に突き刺して大きな音を打ち鳴らし、暗い宮殿内に怒りを示した。
その幻の光景を、雨あられのように降り続いている小石が、瞬時に搔き消した。
穴の底の小石に埋もれゆく巫女は、さらに途切れ途切れに必死で口を開いて、
「大王の勾玉が一つなくなって、私は責められて仕方なく……、どうしても欲しくて、一つだけ私が盗んでしまいました、と白状するしかありませんでした」
と呟いた。
熊沢雅宗は、
「その勾玉を盗んだのは私だ。あなたは悪くない、あなたは盗んでいない。私のせいだと弁解しなさい」
と叫んだ。
しかし、もう顔だけになった巫女の最後の吐息が、
「これは、その罰なのです」
と小石の狭間に途絶えた。
熊沢雅宗は、まるで自分自身の死の瞬間を目撃したかのように、堅く目を閉じるしかなかった。