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003

 彼女の右足が、床に落ちていた眼鏡を踏んでいた。

 分厚いレンズは砕け、フレームもあり得ない方向にねじれていた。


 粉々になったレンズは俺が掃除し、ひん曲がったフレームのみを救出した。

 どうやら思い入れがあるらしく、持って帰るとのことだった。


 多少なりとも、罪悪感は感じていた。

 彼女を驚かせてしまったせいで、眼鏡が壊れたわけだし。

 しかも、思い入れのあるものなら尚更だ。弁償すると言ってやりたいところだが、そんな財力を俺は持ち合わせていない。


 掃除は、せめてもの償い。

 それでも、まだ足りない。

 他人に迷惑をかけるということが、何よりも嫌なことなのに。


 しくじった。


 そんな俺をよそに、彼女は窓辺に寄り掛かり、歪んだ眼鏡をいじっていた。


「もうそれ、いくらやっても直らないだろ」

「まだなんとかなるかも知れないじゃない。人事を尽くして天命を待つ、よ」


 そう言いながら、ねじれたブリッジ部分を力任せに元の形状へ戻そうとしていると、やはりというか案の定、ポキッという可愛らしい音をたて、それは二つに分断された。

 もはや完全に、眼鏡としての形状を失っていた。


「ぽいっ」


 軽快な効果音を織り交ぜ、この女は躊躇ちゅうちょなく、惜しむことなく、それをゴミ箱へ放り込んだ。


「……思い入れはどうしたんだよ」

「あったけど、たった今無くなった」


 なんなのだろう、この潔さは。


「……やっぱりダメね」


 彼女は小声で、ため息まじりにそう呟いた。


 掃除を終え、箒と塵取りを用具入れにしまう。

 俺は自分の席に座り直し、立ったまま物憂げに外を見つめる彼女に尋ねた。


「眼鏡、無くて大丈夫なのか?」  

「別に。眼鏡が壊れても代わりはあるもの」


 なんとなく、どこかで聞いたような台詞だった。

 代わりがあるならよかったと、俺は少し安堵した。

 抱いていた罪悪感も、少しだけ和らいだ。


 それ以上、彼女は何も言わなかった。

 弁償を要求することもなく、俺を糾弾きゅうだんすることもなく、ただ無表情のまま、彼女は窓の外を見つめていた。


 そんな彼女を見て、俺は何も言えなくなった。


 借りを作ってしまった、と思った。


 彼女はいったい、何を考えているのだろう。


 教室に差し込む斜陽、海から運ばれてくる潮風、穏やかに揺れる黒髪。

 未だに、彼女があの白川綾音だという事実を、俺は受け止めきれていない。

 眼鏡をはずしたら美少女でした、なんて、いつの時代のラブコメだよ。


 ―――――見えているものが真実だとは限らない。


 それは彼女自身に確かめるほかなかった。


「…なあ、お前、本当に白川なのか?」

「人違いよ。私は白川じゃないわ」


 ―――――え?


「いや、さっき聞いたときに『そうだ』って言ってたじゃん」

「知らない」


 ぷいっとそっぽを向く。ちくしょう。ちょっとそれ可愛いじゃねぇかこの野郎。

 それはともかく、なぜこの期に及んでしらばっくれるんだ……。


 だが、こちらにはまだ決定的な証拠がある。


「さっきの眼鏡、白川のだろ?あんな分厚いレンズの眼鏡をかけている奴なんてそうそう居ないし」

「あれは…、そう、白川さんに借りたのよ」


 嘘も甚だしかった。


「……眼鏡の貸し借りなんて聞いたことねえよ。それに、借りたものを頭に乗せて寝るやつがどこにいるんだよ」

「……ちっ」


 舌打ちしやがった。こんなキャラだったのか?白川は。


「お前、やっぱり白川じゃねえか。なんか、いつもと全然印象が違うんだけど」


 言葉通り、あの物静かな優等生というイメージは、俺の中ですでに跡形もなく消えていた。


 というか、そのイメージの原因は全て、あの眼鏡が担っていたということだ。

 もはや、白川を構成している要素の90%は眼鏡だと言っていい。

 むしろ、あれが本体なのではないかと思ってしまうくらい、眼鏡のありとなしとでは別人だった。


 外見という意味でも、内面という意味でも。


「問題児のあなたに言われたくないわ」


 問題児って。だいぶ子供扱いされている気がするんだけど。


「バカ言うな。これでも昔は優等生だったんだぞ」

「へぇ、まぁ聞いてあげないけど」

「聞いてくれねえのかよ」

「興味ないもの。過去の栄光なんて」

「あっそ」

「そもそも、過去にすがっている時点で、今はそれ以下ということが確定しているのよ」

「ぐっ……」


 正論過ぎて言い返せない。

 一つ、咳払いをしてお茶を濁すことにした。


「こほん。まぁ、いい。話が逸れたけど、お前、こんな時間まで何してるんだよ」

「何って、見ればわかるでしょ?夕寝よ」


 そんなに堂々と言われてもなあ。

 てか、夕寝って。

 一般的に浸透してねえよ、そんな言葉。


「それはそうなんだけどさ、俺が言いたいのは、放課後のこんな時間まで寝ている理由がわからないんだよ。そんなキャラでもないだろ」

「勝手に私のキャラ設定を決めつけないでくれる?気持ち悪い」


 おぅふ。思いのほかジャブが重い。

 そんな俺をよそに白川は続ける。


「あなたが私に対して、どんな妄想をしているかは知らないけど、今日はとても眠かったのよ。それで、軽く十五分くらい寝てから帰ろうと思っていたのだけど、寝すぎてしまったみたいね」


 一応、訂正しておくが、妄想はしていない。想像はしたけど。

 大体同じ意味か。


「寝すぎたって、いったい何時から寝てたんだよ」

「十六時過ぎぐらいかしら」

「一時間以上寝てるじゃねえか」


 いくらなんでも寝すぎだろ。寝起きでも悪いのか?


「仕方ないでしょう。女の子の日でなかなか起きれなかったんだから」

「え、あっ、いや、そういう事情があったとしても言うんじゃねえよ!」


 そっちかい!

 というか、女子としての恥じらいがなさすぎる。

 今時はそうなのか。

 オープンなのか。

 あけっぴろげなのか。

 実にけしからん。


「うろたえ過ぎよ。なに?あなたまさか童貞なの?しょうもない」

「全然しょうもなくない!むしろ守っている方が正義だ!全国の童貞さんに謝れ!」

「守るつもりなんかないくせに」

「あう……」


 平気で核心をついてきやがる。

 何だこいつ。


「というか!そんな話はどうでもいいんだよ!」

「よくないわよ。ここではっきりしておかないと、読者が感情移入できないじゃない」

「まてまて!ここで読者とか言ったらダメだろ!それに、その言い方だと、読者がみんな童貞だとでも言うのか!」

「だって、童貞はこういう話、好きでしょ?」

「おい!童貞への偏見がひどい!そんなこといったらコメント欄が荒れるわ!それに、女性だってきっと見てくれている!」

「それならぬかりないわ。私だって処……」

「もういいもういいもういい!」


 ギブ。もう無理。無理だよ。


「なに?別に恥ずかしいことではないでしょう」

「……俺が恥ずかしいっつーの」


 もういやだ、こいつ。


「で、結局、あなたはどうなの?」

「………」


 童貞でした。

 気を取り直し。


「何の話しだったかしら」

「なんで寝てたのかって話」

「ああ。まぁ起きれなかったのは別として、眠かったのは昨日の夜更かしが原因かもしれないわね」

「……最初からそれを言えよ。それだけで十分だろ」


 さっきまでのやりとりはなんだったんだ。不必要な告白までさせられたし。

 はぁ。


「あら。あなたが起きれなかったことに文句を言うから、黙らせるためにわざわざ答えてあげたんじゃない。喜ばれるならまだしも、怒られるいわれはないわ」


 ちょっと。

 黙らせるとか怖えよ。

 物騒な女だな。


「いや、普通に喜ばねえから。どこに喜ぶ要素があるんだよ」

「女の子と性について語り合ったこと」

「マニアックすぎるだろ、それ!そんなことで喜ぶほど俺は変態ではない!それに、語り合ったつもりはない!」


 酷い。主に思春期の男子に対しての偏見が。

 思わず、声を大にして反論しちゃったよ。


 らしくないぞ、俺。

 冷めた性格が俺のいいところじゃないか。

 こんな奴に振り回されていたらダメだ。

 もっと冷静になれ。

 落ち着いて対処すれば何も問題はない。


 冷静に、冷静にだ。


「私の脚、見てたくせに」


 見られていた。


「それもじっくり、舐めまわすように」


 れ、冷静に、だ。


「み、み、見てない見てない、全然見てない。はは、何を言っているんだよ。そんなこと、あるわけないじゃないか」


 最後、え○りかずきみたいになっちゃったよ。


「あくまでも、シラをきるというのね」


 彼女は腕を組み、いかにも偉そうに、控えめな胸を張って言った。


「今、正直に白状すれば、私の寛大な心で特別に許してあげてもいいわよ」


 その胸で寛大だと!?バカにしやがって……!

 それは罠だ……!救済なんて、あるわけがない……!


「は、白状するもなにも、見ていないんだから答えようがないな」

「ふうん。そう」


 彼女は一呼吸置き、つらつらと、畳み掛けるように言葉を並べた。


「仕方ないわね。こうなったら、職員室に駆け込んで、クラスメイトから痴漢被害を受けたと相談し、さらにはあなたの個人情報をSNSに拡散して、あることないこと言いふらして……」

「見ました見ました!白川さんの脚、めっちゃ綺麗でした!」


 その時初めて、彼女の笑った顔を見た。


 その笑顔は、見た者の時を止めるには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。

 こんな状況でなければ、俺は彼女に惚れていたかもしれない。


 そしてゆっくりと、心を込めて、彼女は言う。


「変態」


 一蹴。

 もはや俺のHPは虫の息だった。


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