002
後ろの席の、物静かな優等生。
緩く二つに分けて結ばれた髪に、分厚いレンズの入った眼鏡をかけた女子生徒。
白川綾音。
今、目の前にいる女子にその片鱗はない。彼女が白川綾音だと判断できる要素は実に乏しい。
トレードマークの眼鏡はかけていないし、おさげ髪でもない。
証明できるものがあるとすれば、やはり眼鏡だろう。それさえあれば判断がつく。
……というか、頭の上にあった眼鏡はどこ行った?
最初、その眼鏡を見たからこの女子生徒が白川だと思ったのだが、勘違いだったか?
とはいえ、白川の席に座っているわけだし、本人で間違いないはずなのだが……。
断言できる自信はない。
よくよく考えてみれば、白川の顔をそれほど真剣に見たこともなかった。
自分の席に着くときに、ちらっと視界に入る程度の認識しかない。
そもそも、俺が誰かと顔を見合わせることなんて滅多にない。
前髪で視界を遮り、俯いて歩く。そのせいか、クラスの連中の顔と名前もうっすらとしか憶えていない。
典型的な孤独主義者だ。
多分、それは白川も同じだと言える。
俺が知る限り、彼女もクラスメイトと接している姿をあまり見かけたことがない。
休み時間には教室の隅で本を読み、そこだけ時間が止まっているかのようにひっそりと、静かに、そこにいる。その静かさ故なのか、いかにも無愛想なオーラで周囲を遠ざけ、壁を作っている。
そんな感じの女子。
同じクラスになってから一カ月、俺が彼女に対して知っている情報といえば、それくらいしかない。
それすら、推測の域を出ない不確かな情報だ。
結局、俺は彼女について、何も知らないと言ったほうが正しい。
それにしても、彼女は本当に白川なのだろうか。
凛とした佇まい、無愛想で、不機嫌そうなその表情はどことなく彼女に通じるものがある気もする。
仮に、目の前にいるのが白川だったとして、眼鏡と髪型を変えただけでこんなにも印象が変わるとは思わなかった。
そう思うと、いろんなものが信じられなくなりそうだ。
―――――見えているものが真実だとは限らない。
そんな言葉が頭をよぎった。
女って怖えな。
俺が判断に困っていると、彼女が怪訝な面持ちで、冷たく言い放つ。
「……あなた、誰?」
なんだ、こいつ。眼鏡がなくて見えてないのか?
動揺しつつも、平静を装い答える。
「あ……、えっと、灰倉だけど」
彼女は少し考えたのち、目を細めながら、言う。
「……誰?」
単に知られていないだけだった。ひどい。
「前の席の奴も知らないのかよ」
「……ああ、サボりの人」
「それはそれで嫌な覚え方だな……」
ちょっぴり傷ついた。嘘。だいぶ傷ついた。
「というか、お前、白川……、でいいんだよな?」
あまりにも印象が違うので確認する。
「そうだけど、何か?」
「いや、何っていうか、眼鏡がないと随分印象が違うなって思って」
「めがね……?」と小さく呟いて白川は自分の顔を触りだす。
眼鏡がないことに気づき、鞄やら机の中やらをガサガサと慌てた様子で探しだした。
―――――?
そんなに慌てるほど大事なものなのか?
まぁ、視力が悪い奴にとっては大事か。俺もコンタクトをはずしたら視界がぼやけて全然見えないし。
なんとなく、探すくらいは手伝ってやろうという気になった。
どうせ、起きた時にその反動で床にでも落ちたのだろう。
俺は椅子に座ったまま、腰を折るようにして白川の机の下を覗いた。
真っ先に視界が捉えたのは、彼女の白い太ももだった。
一般的に、スカートやショートパンツなど、脚部の露出が多い着衣と、膝上までの長さがあるニーハイソックスとの間に生まれる素肌の露出部分には『絶対領域』と呼ばれる空間が存在している。
それは単に存在するのではなく、『スカート丈』:『絶対領域』:『靴下の膝上部分』の比率が『4:1:2.5』、誤差の許容範囲が±25%の黄金比により成り立っている。(ネット調べ)
たった今、俺はその空間を目の当たりにした。
しかも、間近で。
なんという僥倖。
言っておくが、これは不可抗力だ。
やましい気持ちなど決してない。
断じてない。
眼鏡を探そうとして、たまたま机の下を覗いたら、そこにあった、というだけなのだから。
これは、そう、まさに大航海時代、コロンブスが新大陸のアメリカを発見したのと同じように、俺の上半身が大冒険した結果、その絶対領域を見つけ出した、というだけなのだから。
さらに言えば、黒ニーソと白い肌のコントラストというのは色彩と配色の視点から見ても、芸術性に富み、眼を惹くのに十分な光景であると言える。
ここまで言っても、きっとほとんどの女子は納得しないだろう。「変態」と一蹴されておしまいだ。
だが、もう少し、考えてみてほしい。
本来ならば、眼を逸らすのが普通だろう。
それが常識というものだ。
そんなことはもちろんわかっている。
普段の俺だってそうだ。
廊下ですれ違う女子の大腿部をじろじろ見ることもないし、階段を登る女子を下から見上げるなんてこともしない。
至って健全な男子高校生だ。
しかし、だ。突然目の前に現れた美しい眺めに対し、眼を背けるなんてことができるのだろうか。
日本で見ることのできないオーロラが、突如夜空に現れたとしたら、眼を背けることができるのだろうか。
否。これはもはや、不可避の人間的本能であると言える。
ということは逆説的に、逸らすことは人間の本能に反する、見ないという選択は人間ではない、と言えるのではないだろうか。
それほどまでに、その空間は美しい。
なら、俺は人間として、そこから眼を逸らしてはいけないのだ、と強く決意する。
俺はその白い生足を眼に焼き付けた。
そしてその先には……、ごくり。
いや。
どんだけ力説しているんだ俺は。必死か。
「何を見ているの?」
彼女の疑うような声に反応し、我に返る。
「えっ、あ、いや、眼鏡だよ、眼鏡。ほら、椅子の下にある……」
そのままの体勢で上を見上げると、思ったよりすぐ近くに彼女の顔があった。
驚き、二人して飛びのいた。彼女の場合、その場に立ちあがってしまうほどの驚きぶりだった。
その直後、彼女の足元からバリっと嫌な音が聞こえた。
「「あ」」
声がシンクロする。
静寂が流れる教室に、グラウンドから金属バットの快音が聞こえてきた。