001
説教を終え、鞄を取りに教室棟へと繋がる連絡通路を渡る。
帰り際のアイアンクローのせいで頭が痛い。
独身のこととなると、本当に容赦ないな、あの人。
頭が痛む度に思い出が一個消えてそうだ。
どうせだったら嫌な思い出を消してほしいところだが、まぁ、そんなことができるはずもない。
思い出したくないものほど、鮮明に、鮮烈に、憶えている。
傷は、いつまでも傷のまま。
痕は、残る。
先生の言葉を反芻する。
―――――明るい未来、か。
幼い頃に描いていた高校生像とは、明らかに違っていた。
青春して、ラブコメして、きゃっきゃうふふな未来が待っていると思っていた。
ところが、実際そんなことはない。
誰とも関わろうとしなければ、そりゃ何も始まらない。至極簡単なことだ。
待っていれば向こうからやってくるなんてのは幻想で、まやかしだ。それはもう、サンタ伝説を信仰しているのと同じくらいファンタジックなことだ。
友達なし、彼女なし。クラスで空気扱いの、良く見なきゃわからないくらいの男前で、冴えない男子学生。
別にイジメを受けたり、迫害されたりしているわけではない。
ただ、ひとりでいるだけ。
いてもいなくても同じような存在。河原に転がる無数の石ころのうちの一つ。自分の代わりなど、いくらでもいる。
普通。
標準。
俺はそんな中立的で落ち着いた、周囲と何も関係のない平凡な立ち位置が気に入っているのだ。
誰かと関わることは、酷く疲れるから。
きっと、『今』の俺が良ければ、未来の俺も後悔はしないはずだと、そう思う。
見えない未来にすがるより、見えている『今』が重要なのだ、と。
今この瞬間は、この時にしかないのだから。
つまるところ、『今』の俺がやらなければならないことは、ただ一つ。
課題の再提出だ。
この場を借りて、高らかに宣言しよう。
……めんどくさ!
早くも、面倒事を未来に託している自分がいた。
・・・×・・・×・・・
踊り場を抜けてすぐのところに二年五組の教室がある。
時間は十七時過ぎ、教室に残っている生徒もいないのだろう。リノリウムの廊下に響くのは自分の足音だけだった。
到着早々、俺の目に飛び込んできたのは衝撃的な光景だった。
衝撃を受けた要素を説明するなら、大きく分けて三つある。
まず一つ目に、無人だと思っていた教室に人がいたこと。
二つ目に、その生徒が机に突っ伏していること。
三つ目に、その生徒というのが俺の後ろの席の女子生徒だったということだ。
もう少し詳しく言えば、その女子生徒というのは、教室の隅で本を読んでいるような、おさげ髪で、眼鏡をかけた、物静かな優等生といった雰囲気の女子生徒なのだが、そんな彼女が放課後、誰もいない教室で机に突っ伏しているという光景は、やはり、ただ事ではないと勘ぐってしまうような状況でもあった。
その現状をいまいち受け止めきれず、教室の入り口で数秒間立ちつくしたが、その間、女子生徒はこちらに気付く事もなく、窓側の一番後ろの席で、鞄を枕代わりにして、依然、突っ伏したままである。
この場合、予想される事情としては、
1.具合が悪く、立ちあがれる状況ではない
2.悲しい出来事により、泣いている
3.寝ている
こんなところだろうか。
鞄を置いて帰るわけにもいかないので、ひとまず、自分の席へと向かう。
この時点でかなり接近しているが、これまた反応なし。そっと音を立てないように自分の椅子を引き、窓を背に横向きに座った。
ここでさらに数秒、様子を見る。
肩が一定のリズムで上下する。すうすうと心地よさそうな吐息。
そしてなにより、眼を惹いたのは頭の上に乗っかっている眼鏡。
これ、完全に寝てるよね。
なんというか、新鮮だった。
机で寝るという行為自体、珍しくもなんともないことなのだが、物静かな優等生が机で寝るなんてことがあるのかと驚いた。
このまま寝かしておくべきか起こすべきかと悩んでいると、携帯が震えた。
物音をたてないように、慎重に腰を浮かせ、ズボンの右ポケットからそれを取り出す。
母親からのメールだった。
『帰り遅いなら豆腐狩ってきて』
母よ、俺は狩人じゃねぇよ、と心の中でツッコミながら、また空気椅子状態で右ポケットに戻す。
今思えば、母親からの和みメールで油断した。万全を期して、携帯を鞄にしまえば良かったのかもしれない。ポケットにしまう途中、自分の腕が椅子にぶつかり、がたっと音をだした挙句、その振動で女子生徒の机まで揺らしてしまった。
「ふがっ」
聞きとり不可能な言葉と同時に、彼女はむくっと上半身を起こし、こちらを見る。
眠そうな、寝起きで機嫌が悪そうな、猫のような目で。
そして、目が合う。
俺は、息をのんだ。
そこにいたのは、おさげ髪で、眼鏡をかけた、物静かな優等生、『白川綾音』という、俺が知っている女子生徒の姿ではなかった。
背まで伸びたストレートの黒髪に、白い肌が印象的な、校内で見かけたこともない美少女がそこにいた。