015
頑張れと言われてもな……。
大体、気にかけるって、どうすりゃいいんだよ。
さっきみたいに絡まれるなんてのは御免だ。
武闘派の先生とは違い、俺はインドア派のもやしっ子だぞ。
自分の棒きれのような腕に、大した力が無いことくらい把握している。
事を荒立てず、波風を立てず、ただひっそりと過ごす。
それが、俺の望む日常だと言うのに。
はあ。
扉の前で思わず、溜息をついた。
「溜息なんてついて、何か憂鬱になるようなことでもあったのかしら?」
突然の声にびくっとした。
その声の先に目をやると、白川が腕を組みながら壁にもたれていた。
先に教室戻ったんじゃねえのかよ。
いきなり話しかけられてびっくりしただろ。
「……別に。疲れただけだ」
「そう。それならいいけど」
いいのかよ。
「溜息をつくと、幸せが逃げるというけど、あなたの場合、不幸をばら撒いているように見えるからやめてほしいわね」
「俺に限らず、誰だって不幸になったら溜息くらい出るっつーの」
「それもそうね。でも大丈夫。そんな救われないあなたに朗報よ」
「は?朗報?」
「実は、吐いてしまった分をもう一度吸って、そのまま息を吐かないで止め続ければ、今より幸せになれるらしいわよ」
「いや、それ普通に死んじゃうから!朗報じゃなくて訃報だから!」
何さらっと俺を死へと誘おうとしてるの、この人。死神なの?
「さっきは助かったわ。一応、お礼はしておこうと思って」
「……え?」
不意に訪れた感謝の言葉に、耳を疑った。
相変わらず脈絡などお構いなしに話を進める奴だ。
というか、感謝する前に死の宣告するとかどんな神経してんだよ。
「二度は言わないわよ」
「あ、ああ。まあ、礼なら赤崎先生に言えよ。結果的に先生が何とかしたんだし。俺なんてただ横やりを入れただけで、実際、役に立ったかどうかなんて怪しいもんだ」
「確かにそうね。あなたは突然変な言い訳をして、その場を変な空気にしただけだったものね」
「………」
事実、そうなんだけど。
ややこしくして、最終的に何も成果がない。
一番迷惑なパターンだ。
やはり、らしくないことはするもんじゃない。
「危うく口裏を合わせて、あなたのことを『おにいちゃん』と呼ばなければならないのかと死にたくなるほど絶望したわ」
「おにいちゃんっ!?」
ああ、なんて良い響きなんだ。
リアル妹、欲しいなあ。いたら絶対溺愛するのに。
「ツッコむところはそこではないと思うけど」
「あえて聞き流したんだよ」
「ちなみに、私には本物の兄がいるわよ。もちろん、間違っても『おにいちゃん』なんて呼ばないけどね」
こいつ、妹属性だったのか……!
こんな妹、絶対嫌だ……。
憧れが、一瞬にして崩れた。
現実ってやっぱ厳しいな……。
「どうしたの?何故だか残念そうな顔をしているようだけど」
「ちょっと現実逃避したくなってな……」
「そう。ならやっぱり、息を止めるのが良いと思うけど」
「そんなに俺を殺したいのか!」
「冗談よ。あなたに死なれたら、私が困るもの」
「え?それはどういう……」
「私が容疑者になってしまうじゃない」
ですよね。
他意がないことくらいわかってましたよ。
「…お前の冗談は冗談に聞こえないんだよ」
「冗談と言っても、80%は本当のことよ」
「それもう本音だよ!」
もう、何がこいつの本音なのかよくわからなくなってきた。
いちいち真に受けていたら効率が悪い。
ツッコミの勢いに任せ、気になっていたことを白川にぶつける。
「ところでお前、眼鏡の代わりはどうしたんだよ。昨日あるって言ってただろ」
「今してるじゃない」
「今してるって…、コンタクトのことかよ」
「そうよ」
平然と、何の悪気もなく、白川は答えた。
「本当は伊達眼鏡をかけようと思ったのだけど、私が持っているのは黒縁眼鏡だから、前の眼鏡とは違って主張が強くてね、かえって注目されそうだったからやめたのよ」
そんな理由だったのか。
とはいえ、素顔の方がよっぽど注目されていると思うのだが……。
やはり、この女の考えることは理解できない。
「いや、そうは言っても、いきなり素顔で学校に来て大丈夫だったのかよ?」
「まぁ―――――大丈夫じゃないわよね」
そう言って。
言葉のわりに、事態の深刻さなど微塵も感じさせないほど、彼女は堂々としていた。
まるで、他人事のように。
「全然平気そうに見えるけどな」
「平気?馬鹿言わないで。こう見えて、それなりの覚悟はしていたつもりよ」
先ほどまでの無表情とは一変、白川の表情は険しく変化し、目つきは鋭さを増したように見えた。
迂闊な発言だった。
高校に入学する以前から、少なくとも1年以上、素顔を隠すという制限された生活を送り、それを覆す行動において、平気でいられるわけがない。
不用意な一言を、反省する。
「とは言うものの、こうも注目を浴びるとさすがに辟易するわね。やっぱり、伊達眼鏡の方がいくらかマシだったかしら」
うんざりしたように、白川が言う。
その瞬間、数分前に赤崎先生との会話の中で見せた、彼女の陰鬱な表情がフラッシュバックした。
「……お前さ、俺に黙れだなんだって言っておいて、何でわざわざ素顔のままで来たんだよ」
「さっき言ったじゃない。伊達眼鏡だと目立つからよ」
―――――多分、それは嘘だ。
「……本当にそれだけか?」
「何が言いたいのかしら?」
「お前、まだ何か隠していることがあるんじゃないのか?」
「……あなたには関係ないことよ」
伏し目がちに、白川は顔を背けた。
関係ないーーーーーと。
そう言って。
彼女の過去。
抱えている問題を、全てではないとはいえ、知っている今。
関係ないなんてことがーーーーーあるわけがない……!
「そうかもしれないけど、何かあるなら言ってみろよ。話すだけで楽になることもあるだろうし、もしかしたら、力になれるかもしれないだろ」
反射的に出たその言葉に驚いた。
放った言葉の内容もさることながら、咄嗟の反駁に語気を強め、苛立っている自分に。
が、白川もそれにひるむことなく、言葉を返す。
「これまでに、私に対してそう言ってくれた人が3人いたわ。一人は転校して、あとの2人は言うだけ言って、実際には何もしなかった」
言葉に詰まる。
裏切りや偽善。
周囲への不信感。
簡単には埋まらない、深い溝。
「別に優しさや同情なんていらないのよ。これは私の問題なのだから、私が何とかする。例え誰かに頼って解決したところで、それは結局、自分自身の解決にはならないもの」
自分のことは自分でやる。
彼女は当たり前のように、そう言った。
相変わらずの無表情。
それ故に。
決意の強さを窺わせる。
「それに、昨日も言ったはずよ。私には関わらないでって。あなた、日本語も理解できないのかしら?」
「借りがあるって言っただろ。関わるなって言われても、それで返した気にならねえっての」
「なら、さっきの件でチャラでいいわ。これでもう、あなたは私に対して負い目を感じる必要もなくなったわけだし、これまで通り、無関心でいてくれればそれでいいの」
続けて、白川は言った。
「だから、私には関わらないで」
そう言って、白川は背まで伸びた黒髪を翻し、そのまま角を折れて階段へと消えていった。
取り残された俺は昨日と同様、呆然とただそこに立ちつくすだけだった。