008
公園から防砂林の小道を抜け、国道に出る。
大通りを渡った向かい側に、白川の家はあった。
そして、驚愕する。
そこは田舎に不釣り合いなほど立派で、見上げるのも一苦労な高層マンションだった。
「……お前の家、ここなの?」
「そうよ」
ため息が出るばかりだった。
エントランスでけぇ。
「……送ってくれて助かったわ」
「ああ、まぁ気にすんな」
普通に礼は言えるんだな、こいつ。
意外な発見だった。
「あ、間違えた。乗り心地が最悪だったけど、助かったわ」
「わざわざ皮肉を混ぜて言いなおす必要はねぇだろうが」
撤回する。
失礼な女だった。
「あなたが欲しがっていたから、つい」
「欲しがってねぇよ。どう見たらそうなるんだよ」
「ほら、私、視力悪いから」
「視力のせいにするな」
「今だって、あなたの顔がぼやけて見えるもの。モザイク処理で」
「おい、俺の顔は見せちゃいけないものなのかよ」
「犯罪者なんだから、不自然じゃないわ」
「犯罪者じゃねえよ!」
「違うの?」
「違うよ!」
もういい加減、俺を犯罪者呼ばわりするのやめてくれないかな。アイス奢ったのに、全然口止めになってねえよ。
白川は肩にかかった長い髪を払いながら勝ち誇ったような微笑を浮かべていた。
「……そういえば、なんで髪ほどいてるんだ?いつもおさげなのに」
「おさげ……、随分と古い言い方ね」
「古い?なんか違うのか?」
「まぁ、おさげというのは間違いではないけど、今時はツインテールの部類に入るそうよ。私のように、耳より下の部分で結んでいる場合を、『カントリー・スタイル』というのだそうよ」
「へえ。知らなかったな」
「流行に疎いのね。手遅れな人」
「おい、遅れている人ならまだいい。でも手遅れな人はやめろ、なんか残念な気持ちになる」
「そういう意味で言ったのだから、伝わって安心したわ」
「俺は安心できねえよ!」
いい加減、こいつの毒舌にも少しは耐性がついたのかもしれない。
話せば、それなりに慣れるもんなんだな。
とはいえ、普通にむかつく嫌な女であるのは変わらない。
最初からそう身構えていれば、それなりに対処できる。
俺の適応力の高さを甘くみるなよ。
「で、髪をほどいた理由は?」
まぁ、興味ないけど、一応聞いておく。
「髪を結んだまま寝ると、頭皮が痛いのよ。女の子の日は特に」
「………」
そうでしたね!ごめんなさい!
慣れたとか全然違った。
そもそも、こんな斜め上をいく奴を理解しようだなんて土台、無理な話だった。
他人を知った気になるのは、傲慢だ。
そんなこと、わかりきったことなのに。
「そ、そういうものか。女の子は大変だな……」
「そうよ。だるいし、眠いし、肌も荒れるし、それに暴言も出るわね」
今までの暴言を全て女の子の日のせいにしようとしているよ、この人。
と、ここで不意に、俺の中で全然関係の無いところの辻褄が合う。
「…ああ、そうか。なんか納得だわ。姉貴があまりにも理不尽すぎて手に負えないときがあったのはそのせいか。やっと理解した」
「あら、お姉さんいたのね」
「まあな」
「通りで暴言に対しての耐性があると思ったわ。生まれ持ってのドM体質なのね」
「自分で暴言を吐いた自覚があるなら少しは控えろよ。それに俺はドMじゃない」
「欲しがってたから、つい」
「だから欲しがってねえよ」
この辺りで白川も満足したらしく、会話は途切れた。
少しの沈黙のあと、「それじゃ」と軽い挨拶をして彼女はエントランスへ歩き出した。
「なあ」
そう言って、背を向けた白川を呼びとめた。
彼女はその声に反応し、半身をこちらに向ける。
長い黒髪が風に吹かれ、ゆらゆらと揺らめいた。
俺にはまだ、彼女に言わなければならないことがあった。
「なんか困ったことがあれば言えよ。眼鏡を壊した原因は俺にもあるわけだし、弁償…とはいかないけど、出来る範囲でその借りは返すよ」
一瞬、白川は目を丸くして、きょとんとした表情を見せたが、口調は相変わらず平坦だった。
「眼鏡を壊したのは私なんだから、あなたがその責を負う必要はないと思うけど」
ここへきて、白川の常識的な返答には驚くばかりだが、それでは俺の気が済まない。
この罪悪感が消えないうちは、平穏な生活など送れないことを俺は知っている。
「いや、まぁそうかもしれないけど、やっぱり高価な物だし、はいそうですかとはいかないっつーか…。それ相応の見返りは返さないと、俺の居心地が悪いんだよ」
「クラスで居心地が悪いのはいつものことでしょう?」
「クラスのことは言ってねえよ。心の問題だ。お前に借りを作ったままじゃ嫌だって言ってんだよ」
「ふうん。まぁ、そこまで言うなら一つ、お願いすることにするわ」
正直、願いを増やせとか、絶対服従とか、そんな無理難題を言われるつもりでいたのだが、結果として、その予想は大きく裏切られた。
それは笑顔にとてもよく似た、儚げで、今にも消えそうな表情で、何の前触れもなく、彼女は言った。
「もう、私には関わらないで」
俺はただ呆然と建物に消えて行く彼女を見送り、やたらとでかい自動ドアを見つめたまま、その場に立ちつくした。