Ep.355 漣の夜に
学院に戻る船旅の夜、寝付けず何気無く足を向けた甲板は静かだった。転落防止の結界が施された柵にもたれ、夜の帳が降りた空を見上げる。
「今夜は三日月か……」
そう呟いた直後。穏やかな風とさざ波の音に混じり、背後で小さく扉の軋む音がした。
「眠れないのかい?」
「……っ!そっちこそ」
淡々とそう返すと、珍しく髪を下ろしたフライは『お互い様か』と苦笑を浮かべ隣に歩み寄ってきた。別に互いになにを言うでもなく、ただ静かな時間が流れる。
吹き抜けた海風に、艶やかな翡翠がふわりと揺らいだ。
「しっかし、お前髪下ろしてると本気で女みたいな」
「しばき倒すよ?」
「悪い悪い、いやぁ色々一段落して気が緩んだせいかつい本音が……」
「それ全然謝る気ないよね?」
「はは、悪い悪い。でもそんな嫌なら髪切りゃいいのに」
そう言えば、フライはふと視線を落とし小さく何かを呟いた。聞き取れなかったので聞き返すと、想定外の声量が飛んでくる。
「だって、フローラが僕の髪が綺麗だって言うから!!」
「馬鹿っ、声でかいって皆起きちゃうだろ!でもそうか、そういやガキの頃からよくフライの髪弄ってたよな。あいつ」
今にして思えば、気難しいフライが怒りもせずそれを許していた時点ではじめからフローラは特別だったんだろう。俺が気づこうともしなかっただけで。……フライはその気持ちを、あいつに打ち明けたのだろうか。
「ーー……あのさ」
「……なんだか久しぶりだね、君とこうやって話すの」
『フローラと何かあったのか』。意を決して聞こうとしたそれは、久方ぶりに聞く穏やかなフライの声に掻き消された。
「そりゃ、お前がなにかと突っかかって来てたからだろ」
「ーー……そうだね、ごめん」
「なんだ、嫌にしおらしいな」
『らしくもない』と、苦笑すれば。ふっと目を細めたフライがわざとらしく頬杖をついて拗ねた顔をする。
「別にー?ただ流石に命の恩人に取る態度じゃないかなって思い直しただけ。……まさか僕が魔族に取り憑かれかけてただなんてね」
憂いを帯びた顔で海を眺めるフライの横顔から静かに目を逸らす。こいつが言いたいのは、女神達から出立前に聞いたある一件。魔族と聖霊の情報を貰いに、アイナ嬢の父君であるロイド伯を訊ねたあの夜の話だ。
あの日ロイド伯が俺達に見せた一冊の魔導書。あれには力は弱いが人の悪感情に付け入るのに長けた魔族が封じられており、そいつはあの晩、長年待ち続けていた依代を見つけ目を覚ました。身を焦がすような嫉妬に苛まれていたフライはあろうことかそいつに目をつけられ、まんまと心の隙間に入り込まれてしまったのだ。
そして、図らずもフライが完全に乗っ取られるのに歯止めをかけたのが、偶然その直後に居合わせた俺であった。と、言うだけの話。
あの日の明け方、俺の右手にはいつの間にか火傷のような傷が出来ていた。あれはフライの腕を掴んだ際に、身体に巣喰った魔を聖剣を使わずに強制的に追い出した裂傷だったのだ。
「あー、まぁ、なんだ。結果的に乗っ取られずに済んで良かったじゃないか」
何とも歯切れの悪い返しになってしまった。単に、何と言ったら良いかわからなかったのだ。
「ーー……そうだね、お互いに……ね」
含みのある言い方と表情に、今度こそ言葉も出ず苦笑のみを返す。今回のリヴァーレ島での時間は心底骨が折れたものの、同時にこれまで俺達の中に燻っていた疑問への答えが色々と得られた。
フローラの前世と俺達の魂の起源と言う壮大な話から、先程のフライが取り憑かれかけていた一件のような細かな点まで、女神達はわかりやすく答えを提示してくれた。今フライが俺に水を向けたこの話題もその一つだ。
”何故、俺が。十数年にも及ぶ長い間、フローラへの恋慕を受け入れられずにいたのか”
「まさか前世の騎士の記憶が足枷になってたとはな……。全く自覚の無いまま人格ごと乗っ取られそうになってただなんて、ゾッとする」
一時、俺は騎士の記憶を介して聖霊の巫女が身罷った場面の悪夢を繰り返し見ていた。あれが、一種の呪いに近い現象を産み出していたのだ。
『彼にはそんなつもりは無かったのでしょうけれど』と、ハイネは憂いた顔をしていたが。
かつて、聖霊王の騎士は巫女に想いを伝える寸前に、彼女を目の前で失った。だから、女神達に託した自分の魂の欠片……つまりは、俺の魂の起源に一つの誓いをかけていたのだ。
『彼女を護る、聖剣の力に覚醒するまでは、何があろうとも彼女を愛してはならない』と。
その強迫観念にも近い悲痛な想いは長い時を得て歪み、“悪夢”という目に見えた形で俺を蝕んでいたのだろう。もう少し俺の覚醒が遅ければ、間に合わずに“ライト”の人格は死滅し完全に騎士に立ち代わられていたかも知れないと言われて悪寒が走ったのは事実だし、実際、そう考えれば色々と納得も出来る。
ただ……。
「まぁ、その話は理解もしたし同情しないでもないけど、でもそんなのもう関係ないから」
先程までの穏やかな声音から一転、凛と静寂を切ったフライの言葉と強い眼差しにこちらも身構える。
そうだ。俺がこの気持ちから逃げていた理由を前世の彼のせいだけには出来ない。根本的な原因は、俺自身の忌まわしい記憶の方にある。
「僕、フローラに告白したから」
「……っ!」
聞こうとした際にははぐらかされた事実を突きつけられ怯んだ俺を、怜悧な眼差しが真っ直ぐ見ていた。『君はどうなの』と、そう言いたげに。
「過去のトラウマを理由に散々逃げてきたんだ、お前の怒りは最もだろうと思う」
それでも、と一呼吸置くと、丁度雲間から月明かりが射し込んだ。
「俺はフローラを愛してる。譲るつもりはねえよ」
一瞬、切れ長なその眼差しが大きく揺らいだ。
「あぁそう、それはこっちの台詞だけどね。ただそれだけ言う覚悟があるならいい加減君ももうちょっと僕らに自分の事話したらどうなの?こっちは君自身の口からその“トラウマ”の内容について一切聞かされてないんだから対応しようがないんだよ!!」
捲し立てて少し落ち着いたのか、自慢の髪を靡かせこちらに背を向けたフライが歩き出す。扉を潜る直前、その足が一瞬止まった。
「本気でやり合うつもりなら、過去なんかに捕まって足踏みしてんな」
その呟きを最後に、フライの背中は見えなくなった。
カタン、と。頭上で響いた足音に振り返る。そこには一段高くなった展望台があるだけだ。小さく息をついてから、苦笑混じりに口を開く。途中から、そこに居たのはわかってたよ。
「盗み聞きとは趣味が悪いな、クォーツ」
「あはは、やっぱバレてた?話しかけづらくってさ」
ひょこりと展望台の柵から顔を出したクォーツが軽い身のこなしで甲板に降りる。差し出されたマグカップから、甘い湯気が漂った。
「寝付けなかったから全員分淹れたんだ、ホットミルク。はいこれ、君の分」
「ありがとう。……ちょっとぬるいな」
「だって君達が長々話し込んでるからー」
「はは、悪い悪い。温めようか?」
「君に頼むと沸騰どころか蒸発しちゃいそうだから結構でーす」
そうかと笑って、クォーツに倣い少し冷めたホットミルクに口をつける。優しい甘味に、強張っていた身体の力が抜けた。
「全員分配ってきたならルビーと飲めば良かっただろうに」
「そう思ったけどさ、女の子達はフローラの部屋に集まるって言うからカップだけ預けて来たんだ」
「あぁ、そうか。そうだな。今夜はあいつを、独りにしない方が良い」
ずっと抱えてきたわだかまりをようやく吐き出した、今のフローラの心は弱っているだろうから。クォーツもふわりと微笑んでから、空になったカップを揺らし『やっぱぬるいや』と呟いた。
「あーあ、誰かさん達が長話してるからー」
「ごめんて。でも、遮れないだろう。あれは」
怜悧と、薄氷の様に美しいと称される双眸が、確かに熱く揺れていた。あんな真剣な想いから、誰が目を逸らせるだろうか。いや、ずっと逸らしてたのは俺なんだが。
「……色々怒られちまったな。まぁ全部俺が悪いんだけど。あのフライにあそこまで言わせる程苦しめてたなんて、本当に情けない」
思わずこぼれた弱音に、クォーツはきょとんと目を瞬かせた。なんだ、聞いてたんじゃないのか?
「君はこんな時でさえ、自分より僕らのことばっかりだねぇ。フライが言いたかったのはそうじゃないと思うよ?……君がいつも僕らの重荷を一緒に抱えてくれるみたいに、君の過去の苦しみくらい一緒に受け止める覚悟なんかこっちはとっくに出来てるんだから、一人で抱え込んでないで話して欲しいって、言いたかっただけだよ」
いつもとなんら変わらない優しい友の声で紡がれた訳に目を見開く。いや、あの剣幕に気圧されてその発想はなかったわ……。
「あー……、敵わないな。お前には」
「ライトが自分への好意に異様に鈍いだけじゃない?君は昔から、他人の痛みには誰より鋭くてどんな相手も助けようとする癖に、自分が愛されたり救われる事を、何より恐れる人だから」
核心を突かれ思わず肩が跳ねる俺を見て、クォーツはどこか寂しげに笑った。
「まぁフライの真意がそれだけかは僕も知らないけどさ、ライトはもうちょっと欲張ったらいいよ。特に恋に関してはね。フローラが好きなんでしょう?君は、彼女と、どうしたいの?」
『譲れないんなら、手を離しちゃ駄目だよ』と笑って、クォーツはわざとらしくあくびをした。部屋に戻ろうかと歩き出したその背を呼び止める。
「待ってくれ。……お前は、いいのか?」
鈍感と揶揄される俺にさえわかるくらい、クォーツのあいつを見る眼差しは優しくも、熱を帯びていた。今ならわかる。クォーツも、フローラを好いていた筈だ。それなのに。
「『いいのか?』って、譲れない癖にその聞き方は変じゃない?」
あんまり何でもないように笑い返されて、言葉に詰まる。クォーツの言う通りだ。もう、あいつの居ない未来なんて考えられない。
「けどさぁ……!だからって他の奴の気持ち踏みにじるとか、そう言う話じゃないだろ。俺そう言うのすっごい嫌……!」
一瞬目を瞬かせ、クォーツが小さく吹き出した。
「もう、お人好し過ぎでしょ。あんま余裕こいてると本当に負けるよ?ただでさえ一歩先行かれてるんだから」
そこを突かれると痛い。伸ばしかけていた手を下ろした俺に、クォーツが笑う。
「僕は降りるよ。知ってるでしょ?勝てない勝負はしない主義なの。応援に回るよ」
『あの子には、幸せで居てほしいから』と笑うその顔は、清々しい程穏やかで。俺が、ルビーに怒られるなと言えば、それはちょっと困るなと笑った。
「だから僕のことはお気遣いなく。ただ、そうだな。助けてくれるばっかりじゃなく、いつかは僕らにも君を助けさせてくれたら嬉しいんだけど」
その優しいわがままは、とても嬉しい。そして、同時に申し訳なかった。
「……悪い、過去の話は、まだ…………。あー……っ、駄目だ。なんて言えば良いんだこう言う時」
「はは、馬鹿だなぁ。無理にすぐ話さなくていいし、『ありがとう』だけで良いんだよ」
「……っ」
ゆっくりとした動きで、クォーツの背中が遠ざかる。
「……っ、クォーツ!」
「なんだい?」
「……ありがとな」
その一言で精一杯だった。朗らかに笑ったクォーツが立ち去り独りになった甲板で夜空を仰ぐ。
改めて、先程問われた言葉がリフレインした。
『君は、フローラと、どうなりたいの?』
「そうだな、俺は、これから…………」
小さなその呟きは、漣に抱かれ静かに消えた。
~Ep.355 漣の夜に~
『譲れない想いを、漣の音色に乗せて』




