Ep.303 その化け猫、少女につき
抱き上げられたままひたすら腕の中で泣きじゃくるフローラの背中を、ライトはただ優しく擦り続けてくれた。自分が落ち着くまで、ずっと。シャツの胸元が涙でびしょ濡れになるのも構わずに。
「ライトっ、ライトだぁ……。良かった、生きてて……!!」
フローラの言葉に一瞬驚いたように瞳を見開いたライトだが、その眼差しはすぐに優しく細められた。10年以上の付き合いなのに初めて見た、甘くとろけそうな笑顔。
金髪に深紅の瞳で整った顔立ち、絶体絶命を救われたこの場面で大好きな人にそんな顔を向けられるなんて心臓に悪い。
「無事でよかった……」
フローラをぐっと抱き寄せて首筋に顔を埋めたライトから、心底安心したように吐き出された吐息混じりの一言。それが妙に甘く聞こえて、きゅんと疼く胸を押さえながら首を横に振った。
今はときめいている場合じゃないと思い出したのだ。
「エドガー君達は!?」
「無事に降りれたよ、二人とも無傷だった。妹はこの緊急事態にしっかり眠りこけてたけどな。お前が危ないって助けを叫ぶエドの声もしたから、俺が間に合ったわけだ」
「そっか。他の患者さんとかお医者様は……」
「それも無事。俺達が来た頃には皆避難が済んでたから、安全な場所までは誘導しておいた。エド達にもそちらに行くよう言ったから、俺達も行こう」
「うん!あ、待って!私自分で歩けるよ」
「駄目だ、そんなぼろぼろで何言ってんだたよ」
フローラを姫抱きにしたまま、ライトがゆっくり歩き出す。走らないのは、振動が抱えているフローラに行かないようにする配慮だろう。だから余計申し訳ないのに、ライトは優しく微笑んだまま離してくれない。
何度か降りようと頑張ってみたが、いつもより少しだけ低めの声音で『今は離したく無いんだ』なんて言われてしまったら、抵抗なんて出来よう筈がなかった。
(何か今日のライト、いつもと違うな……)
優しいのも、護ってくれるのも、たまに呆れたようにため息をこぼされるのすらいつも通りなんだけれど。ひとつひとつの些細な仕草が、表情が、声が、いつもより自分の心臓に悪いのは何故なのかとフローラが小首を傾げた時、がさりと近くの草影が揺れた。
「……っ!何だ、お前かよ」
甘い微笑みから一転してそちらに対峙したライトが、がくりと肩を落とした。草を掻き分け現れたのが、気絶した男を引きずっているフライだったからだ。
そんなライトを無視して、彼の背後に庇われるようにライトに後ろに下げられていたフローラを抱き寄せてフライがその頬に口付ける。
「な、な、なんっ……!」
「無事でよかった、いきなり消えたから心配したんだよ」
「……それでいきなりどうして頬にキスする流れになるんだ」
普段なら飽きれ顔でやれやれと流すライトが、不快感に限界まで眉根を寄せてフライとフローラの間に割って入るが、それを一瞥したフライは質問には答えずに、見慣れぬ騎士服をまとった男をライトの前につき出す。
男の剣に入った家紋に、ライトの顔色が変わった。フライも頭を切り替えたのか、二人は睨みあうことなく相談を始める。
「シュヴァルツ公爵家の家紋だな……、公爵が護衛として連れてきたのか」
「だろうね。彼女の居場所を探すために魔力で辺りの些細な声まで拾っていたら、偶然隠れている彼等の会話が聞こえたから捕らえた。……どうやら目的の中に、フローラの誘拐が含まれていたようだよ。公爵も、近くに居るんじゃない?」
「えっ!?私狙われてたの!!?」
「みたいだな。フライが気づいてくれたこと感謝しろよ」
だから先に行ったはずなのに居なかったのか、と少し後ろめたさを感じるライトだが、まぁ適材適所で動いた結果だと割りきった。
ライトが考えこむ仕草をとった、その突如。辺りの静寂を男の悲鳴が切り裂く。
「うわぁぁぁぁっ!ば、化け猫だ!!」
悲鳴は大人の声ばかり。更には金属が固いものにぶつかる音が辺りに響く。
フローラの持つ指輪の石が、一気に黒く染まり上がった。その気配が指し示す方角は、今しがたエドガーたちが向かった避難所の方で。
「……っ!」
「待てフローラ、一人じゃ危険だ!」
「全く、目を離すとすぐこれだよ……!」
真っ先にフローラが走り出す。あとから二人が追ってきてくれているのもわかっていたので、振り返らずに走り抜けた。目的地はすぐに見つかった。病院の裏手の林だ。そこで一人の男性が、三階建ての病院より巨大な黒い猫の前足に叩き潰され倒れている。
失禁して気を失ったその人を助けるためか、単に身を守りたいからか、数人の兵が剣や槍で一斉に攻撃を仕掛けていた。その兵士達の騎士服の家紋から、叩き潰されている男がシュヴァルツ公爵だと気づく。
聞こえてきた金属音はこれかと納得したフローラの視界の端に、大分見慣れてきたオレンジの髪が写った。
「エドガー君っ、大丈夫!?」
「ーっ!」
地面に経たり込み一人で呆然としているエドガーに駆け寄り、肩を揺さぶった。
「一体なにがあったの!?エミリーちゃんは!?」
「ーー……っ!」
フローラの問いに虚ろな眼差しをしたエドガーが、震える手で目の前の化け猫を、この世界で初めて見る“魔物”を指差した。
学生騎士じゃない、本物の兵士達から降り注ぐ矢の雨さえ物ともせず、前足で剣を次々にへし折った魔物がこちらに向いた。そして、まっしぐらにその鋭い爪をフローラとエドガーへと振りかざす。
「もう良い、殺せよ……お前も疲れたんだよな」
「エドガー君!!!」
振り下ろされる爪の前からフローラを押し退け、エドガーが魔物の前に立つ。その眼差しはもう絶望の一色で、だから気づいてしまった。
「ーっ!エミリーちゃん、駄目!!エドガー君も、避けて!!!」
「これ以上迷惑かけらんないし。全部、終わりにしなきゃな……」
今自らの兄を、凶器と化した爪で斬り殺そうと手を下ろしてくるその化け猫の耳に、先程フライが少女にあげたカチューシャと同じ鈴飾りが揺れている事に。
叫ぶフローラの制止は届かず、エドガーの前にフローラが飛び出したところで、巨大なその前足が二人の頭上に振り下ろされた。
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魔物と化したエミリーが今まさにフローラとエドガーを殺そうかと言う場面。
それをノアールの力で頭上から見下ろしていたマリンが、無表情で助けに向かっているライトとフライへと目を向けた。
「……ふぅん、生きてたんだあの男。でも馬鹿みたい、あんな女一人護ることに必死になっちゃって」
「ですが好都合でしょう。我々の因子を人間に継続的に注げば我らが従僕と出来ることも判明致しましたし、唯一無二の対抗策である剣は貴方の手の中。指輪の力は脅威ですが、フローラ皇女はエミリーを死なせる選択は選べないので、なす統べなくなぶり殺されるでしょう。もう何の不都合もありますまい」
「……そうね、あの馬鹿な皇子も一緒に殺されちゃえばいいんだわ」
「……おや、覇気がありませんね」
『そんなことないわよ』と答えるマリンの視線は、ライトに向いていた。
『自分も大事にしたら?』と言う彼の一言が、彼女のどこかに刺さったらしい。
(やはりあの少年は騎士の子孫……、あれほど探してきたのになぜ今まで見つからなかったのだ。誰かが見つからないよう隠していたのか……。何にせよ、彼が巫女と愛し合えばその分剣と指輪の力も増しますし、邪魔ですねぇ……)
「なにしてんの、帰るわよ!もう汗と煤でべとべとだしお風呂入りたいんだから!!」
「御意にございます」
まだまだ火事は止まらず、エミリーの夢にノアールが魔力を継続したことで魔物化した少女により真下は阿鼻叫喚。それでも見向きもせず『飽きたから帰る』と言う人の心を麻痺したこの少女は、本当に扱いやすい。
『次に始末すべきは彼ですねぇ』と言う呟きと共に、一匹の黒猫と一人の少女は姿を消した。手にしたその剣は、偽物だとも気づかぬまま。
~Ep.303 その化け猫、少女につき~
『倒すわけにはいかないと抵抗出来ぬ者達を、無情の爪が襲い狂う』




