Ep.298 届かぬ想い
お祭り騒ぎの生徒たちの賑わう声も、これだけ離れると風に揺れる木々のざわめきにかき消されてほとんど聞き取れない。
夜の泉は凪いでいて、淡く光を放ちながら飛び交う蛍と、魔力を帯びてミルキーブルーに輝く泉のコントラストが美しい。エドガーから聞いた伝説の件が無くとも、一見の価値がある場所だ。けれど……と、ヒールが折れた靴を見て、フローラはため息を溢す。
気が進まないまま森の中を歩いてきたせいか、それともいつも通りただのドジだったかわからないが。先ほど土から飛び出ていた木の根に足を引っ掻けて、パキンと折ってしまったのだ。その拍子に、咄嗟に支えてくれようとしたフライを巻き込んで倒れて彼の背中を土まみれにしてしまうし、申し訳ない限りである。
「うーん、落ちないな……」
「うぅ、ごめんね。巻き添えにして……!」
「そんな顔しないで、無理に連れ出したのは僕の方なんだから」
美しい泉の浅瀬でジャケットをゆすいでいたフライが、濡れた髪をかきあげて微笑んだ。
中性的な顔と艶やかな髪に反して、引き締まった体が濡れたシャツから透ける。
“恋愛成就”を売りにした場所に二人きりと言うシチュエーションも相まって、居たたまれない気持ちでそっと視線を空へと移した。
「あ、流れ星……」
帳を下ろしたような夜空に、一筋の光が現れ、消える。
そんな些細な出来事に、無意識にふと、今は隣に居ない彼の無事を願った。きっと、彼と二人きりになれるときにはいつもこんな星空の下だったからに違いない。
「ライト、今頃エドガー君のお父様と会ってるよね……。大丈夫かな」
「……っ!」
泉の浅瀬に立ったままのフライの瞳が歪んだことには、気づけなかった。
ただフローラの頭には、『交渉材料はあるから』と笑って送り出してくれたライトの笑顔が浮かぶ。思えばライトは昔からいつもそうやってフローラの悩みを吹き飛ばしてくれるけれど、その度に危険な目に合っているのも事実。
だから……やっぱり、心配で。捻りはしたものの、冷やしたお陰で歩けるくらいには回復した足を泉から引き上げ、立ち上がった。
「きゃっ……!」
しかし、途端に泉の水面さえ波ひとつ立てない無風だった森が、ザワザワと不穏な風に包まれる。
驚いて、その風を吹かせているであろうフライの名を呼んだ。
「フライ、どうしたの?」
「『どうしたの?』じゃないよ。……そんなに、ライトが好きなの?」
「……、ーっ!!?」
あまりにも直球な指摘に、フローラの白い頬が真っ赤に変わる。月明かりしかない夜の森の中にも関わらず、フライの目にもその姿がハッキリとわかった。
「な、なん、違っ……いや、違わないけど……!」
「ははっ、何にも誤魔化せてないよ。分かりやす過ぎ……」
ワタワタと腕を振り弁解しようとしているフローラをしばらく見つめていたフライは、目元を片手で軽く拭った。視界が滲んだのは、泉の水で濡れた髪から水が垂れてきてしまったからだと己に言い聞かせているフライを見て、フローラが首を傾げる。
「フライ、何か怒ってる……?」
「……あぁ、腹が立ちすぎておかしくなりそうだよ」
ジャリっと、足元の土が音を立てた。フライの射抜くような強い感情を滲ませた双眸に見据えられたフローラが、後ずさった為だ。そんなフローラとフライの距離は、1メートルもない。
「今、君の目の前に居るのは誰?」
それなのに、フライのその問いがずいぶんとか細く感じられた。
「今日、君とここに来たのは?誘ったのは?……君が今しているその髪飾りを贈ったのだって、ライトじゃ無いでしょう」
二人きりなのに、どうして独占出来ないんだ。
最後のその呟きだけは、声には出来なかった。
感情を抑えきれないせいで吹き荒れる風で揺れる、フローラの着けた緑色のリボン。いつぞやの夜会の日、フライが彼女に贈ったそれを彼女が着けてくれたのは、片手の指で足りる程の回数しかなかった。
「僕だって、君に喜んで欲しくて色々頑張ったつもりだったんだけど、足りなかったかな……。実際、いつも最終的に君を助けてるのはライトだもんね。ライト以外の男は……僕は、必要ない?」
「……っ!そんなことない!!」
卑屈な言い方になってしまったことをフライが後悔するより早く、フローラの声が静寂を破った。
驚いてフライが顔を上げれば、澄んだ水色の瞳が真っ直ぐに自分を見ている。
「いらないわけ無いじゃない!フライがいつも私や皆のこと、ライトとは違うやり方で守ってくれてるのちゃんとわかってるよ?ちょっと言葉が不器用なだけで、本当は誰より仲間思いな所とか、お兄さんのこと、権力とか周りの声とかに惑わされないで大事にしてるところとか、すごく尊敬してるんだから!」
『そんな悲しいこと、言わないで』と、そう言ってくれるフローラ。だけど、その尊敬は、自分が望む答えでないと、彼女は気づかない。
だから、泉に下半身を浸したまま、わざと意地悪な声を出した。
「そう言うなら、もうちょっと君からも何かお礼が欲しいなぁ。貸しも返して貰って無いことだし。他人のことはあれだけ助けまくってるくせに」
「うっ!だ、だって、私がフライにあげて喜んで貰えるようなものが浮かばないんだもん……」
悪いとは思ってるよー、と、肩をフローラが落とした時だった。
バシャンっと、風が吹いたにしても不自然な水音が響いて顔をあげる。今さっきまでそこに居た筈のフライの姿が、忽然と消えていた。
先ほどまで彼が立っていた筈の泉の底から小さな気泡が上がっていることに気がつき、青ざめる。
(フライはクォーツと違って泳げるはずだけど、まさか……!)
考えるより先に、ドレスのまま泉に飛び込む。そして、後悔した。
「……捕まえた」
「ーー……騙したのね?」
「失礼だな、僕は泉の底に階段のような段があって気になったからちょっと潜ってみたら、君が勘違いをしただけだろう?」
飛び込んだ衝撃で頭から水に濡れたものの、冷静になってみれば二人が立って……否、抱き合っているその場所はまだ浅く、十分に足がつく深さで。
フライに抱き締められたフローラは、じっとりと得意気な彼の顔を睨み付けてやる。
しかし、濡れていつもより艶を増した髪と唇。水気で張り付いたドレスから露になる華奢な身体のラインに加えて上目遣いで睨み付けられたところで、余計にそそるだけだ。実際、フローラの腰に回されたフライの腕の力は強くなるばかりで、離してくれる気配はない。
「……本当に、借りを返すつもりあるの?」
「……っ!」
なんだかよくわからないまま、とりあえず必死に頷いた。その瞬間、ただ抱き寄せられる程度にフローラの腰に当てられていたフライの腕が動いた。正面から抱き締められている。痛いくらいに、強く。
「フライ!?痛いよ、とりあえずちょっと離して……!」
「嫌だ、離さない。本当に何か与えてくれる気があるなら……っ」
こんなのは卑怯だ。それがわかっているのに、フライの口は止まらない。
「他には何も望まないから、僕のものになってよ……!」
「…………っ!!」
吐息が混じった、酷く切ない声だった。なのに、どうしてこんなにもよく、響いたのか。
呼吸を詰まらせて自分を見据えるフローラの頬に手を当て、熱い眼差しでフライが喉を鳴らす。らしくもなく緊張している彼の姿に、フローラも思わず、身構えた。
「僕は、君のことが……っ」
しかし、その時だった。
静かな泉の真反対。フローラから見た方角の森から、突如として地面が揺れる程の爆音が響いたのは。
~Ep.298 届かぬ想い~




