Ep.276 朝寒のうたた寝・後編
結局、ライトが目を覚ますまでの小一時間を、フローラはご意見箱の中身の選別をしながら過ごすことにした。
まともな意見や要望に比べれば少ないとは言っても、根拠もなにもない、ただ只管にライトを、または自分を、フライを、クォーツを傷付けようと言う明確な悪意が込められた手紙達は、流し読みをするだけで気が滅入ってくる。でも、今までフローラは、ただの一度もこの不愉快な手紙を目にしたことはなかった。
その中でも、やっぱり取り分けライトの出自への疑惑の声が多いことにフローラが眉をひそめた辺りで、ようやくライトがうっすらと瞳を開けた。
その事に気がついたフローラが振り返り、寝ぼけ眼のライトの瞳の中でふわりと笑う。
「あら、おはよう。よく眠れた?」
「あぁ、お陰様で……。って、フローラ!?いつから居たんだ!?」
「いつからって、もう来てから一時間位経つけど……」
二回も人の名前を呼んで、しかも抱き締めてきたくせに全く覚えてないのか。驚きで飛び起きたライトにそうむくれたくなるフローラだったが、待ち時間にフローラが終わらせた仕事を見て呆然と呟く彼の言葉に怒りが消えてしまう。
「本当にずっと居たのか……。変だな、俺寝てるときに誰かに側に来られるの駄目なのに」
「えっ、そうなの?」
「そうなんだよ。フライなクォーツですら、近づかれ過ぎると気配で目が覚めちまってさ……」
「じ、じゃあ私、すごーく邪魔だったんじゃ……!」
青ざめながら言うフローラに、ライトが小さく吹き出す。寝覚めのコーヒーに砂糖を入れながら、すっきりした表情でライトが笑った。
「いいや、大丈夫。寧ろ、途中から妙に夢見が良かった気がする位だ」
「そ、そうなの……?よくわかんないけど、しっかり休めたなら良かった。ーー最近ちゃんと寝てなかったんでしょう?この手紙の処理で」
「……っ!あー、読んじゃったか……」
「読んじゃったよ。ーー半分も処理してないのに、一時間もかかっちゃった」
気まずそうに頭を掻くライトの頬に、フローラがそっと手を添える。指先で触れたライトの肌は、ひんやりと冷たかった。そう気づけば、昨日、発熱したフローラを見舞いに来てくれたライトの手を冷たく感じたのは自分が発熱していたせいじゃないと気づく。
本当にライトの体温が下がっているのだ。寝不足による貧血で。らしくもない仕事中のうたた寝も、無理が祟った結果に違いない。
よく見れば顔色もよくないじゃないか。そう気づいたフローラが、悲しそうな顔になった。
「ずっと一人で処理してくれてたの?こんなにたくさんあるのに……」
「そんな表情するなよ。いいんだ、これは、俺がやるべきことだから」
きっぱりと言い切ったライトに、首を傾げる。
フローラの手から仲間達への中傷の紙の束をを取り上げ、指鳴らしひとつで消し炭にしたライトは、舞い散る火の粉の中勝ち気に笑った。
「知らなければ、なにも起きなかったのと変わりないだろう?こんな下らないやっかみと噂なんかに、お前や皆を傷つけられて堪るものか」
『だから、内緒な』と、悪戯っぽく片目を閉じてライトが笑う。その顔色は、悪いままなのに。
「頑張りすぎだよ、いくら会長だからって、ライトが一人で背負う事じゃ……!」
「“会長だから”俺がやるんだ。普段散々指示を出して皆に働いて貰ってるんだ。なにか起こったとき、一番に役員を守れるのが会長じゃなくてどうするんだよ」
強い眼差しで言われて、はっとした。これが、本来上に立つ者の器だと。押し黙ったフローラに、ふと眉を下げたライトが話を続ける。
「何より、中傷が始まったきっかけは俺の出自に疑惑が出てからだ。だから、今は誰よりも、俺が頑張らないといけない。……証拠のひとつもないのに“偽者”なんて言われるのは、結局俺の頑張りが足りなかったんだろうからな」
その言葉に、ドキリとした。実際そうだ。完璧だと思われていた人間のたったひとつの綻びを見つけただけで、周りは簡単に掌を返す。フローラ自身、痛いほどそれを知っている。
(足りなくなんかない、ライトは何も悪くないのに……!)
スカートの裾を、シワになるのも構わず強く握りしめた。
ゲームの知識を引っ張り出し、改めて知識を整理したフローラは、ライトが“偽者”などと揶揄されて良いような人物ではないとも知っている。彼の母は、確かに今の王妃様じゃない。だけど、彼女も正真正銘のフェニックスの皇女だった。そして、そうなってしまった真相をライト自身が知らされていない原因は、多分、フローラの存在が原因だとも……気がついてしまった。
本当は、知っていることだけでも彼に話すべきじゃないか、と思う。でも、これはフローラが知っていてはおかしい情報だ。今の段階で話したとして、どこで調べたんだと聞かれれば、フローラは答えることが出来ない。その“情報源”だと言えるようにする為にも、エドガーの協力はやっぱり不可欠なのだ。それに、理由はもうひとつある。
考え込むフローラの顔を覗き込んで、ライトが苦笑した。
「……不満げな顔してんなぁ。お前だってすぐに無茶する癖に」
「えー?私無茶なんかしてないよ。ほら、朝からとっても元気!プリンも食べてきたし!」
「つい昨日も熱出してぶっ倒れた癖によく言う。跳ねるな、汗かいて冷えたらまたぶり返すぞ」
元気をアピールする為にその場で跳び跳ねるフローラに、ライトが喉を鳴らして笑う。しかし、すぐに真面目な表情に戻って、呟いた。
「で?本当に、今度は何が目的なんだ?エドガーなんて引き入れて……。あいつが嫌ってるのはお前だ。それに、あいつが抱いてる妄信的な執着は、現実の俺達の姿を近くで見る内に覚めるかもしれない。どちらにせよ、もしエドガーが火種になってなにか被害を受けるとしたら、真っ先に矢面に立たされるのは引き込んだお前なんだ……っ!?」
心配げなその苦言が、不自然な位置で止まった。フローラが、正面からライトに抱きついたからだ。
「な、なんだよ、いきなり……!」
「寝ぼけて抱き枕にしてきた仕返しだよ、大人しくして」
「ーっ!?俺そんなことしたのか!?」
狼狽えて、抱き締め返すことも出来ずに腕を宙に浮かせたまま身を捩ろうとしたライトの首もとに腕を回し、身体を寄せて。抱きついたその冷たい体を、フローラが魔力で包み込む。
「温かい……」
「……ライトが身体冷やしてるからだよ」
目眩と頭痛が消え、段々と身体が温かくなってきたことをライトが自覚した頃、ようやくフローラがライトの顔を見上げた。
「……ありがとう、大分楽になった」
ライトの礼に頷き、微笑むフローラが言う。
「いつも心配してくれてありがとう。でも、エドガー君なら大丈夫よ。私の事がどんなに嫌いでも、彼は裏切ったりしないと思うから」
「……根拠は?」
「だって、妄信的な執着なんかじゃないもの。見たでしょ?あのたくさんの写真」
エドガーの撮った写真の中には、影で努力をしているライトの姿もたくさんあった。だから、フローラは今、彼を連れてきたのだ。頑張っている皆の姿を、誰よりも見てきた証人だから。
当人からすれば、盗撮はちょっとご遠慮頂きたいだろうけれど。
「エドガー君が憧れて、目標にして追いかけてるのは、外面で作り上げた虚像じゃない。失敗も挫折もして、傷つけられて。それでも前を向いて頑張ってきた、“今”のライトだから、彼は尊敬してるんだよ。もちろん、私達も。これからどんなに心ない言葉を言われたとしても、それを忘れないで?」
いつかの夜、努力しないと出来ない自分が恥ずかしいと言った、あの日の少年はもう居ない。今のライトは、自身の努力に胸を張ることが出来る。他ならぬ、『頑張る自分』を見つけて、真っ直ぐに認めてくれた、フローラのお陰で。
そして月日は流れて今、あの日ライトを救ってくれた彼女が、再び傷つき迷っている自分を助けようとしている。
フローラがわざわざ、自分にとっては危険なエドガーを引き入れたがったその理由に気がついたライトが、抱きつかれた体勢のまま呆然と呟いた。
「お前、俺にそれを言う為にわざわざ……っ」
胸が締め付けられるような痛みに、ライトの言葉が詰まった。
自らの安全より、自分の心を思いやってくれるその優しさが、痛いくらいに嬉しくて。
宙に投げ出されたままだったライトの指先が、目の前で微笑んでいるフローラの身体を抱き締めたい衝動にピクリと動いて。いつもは何でもないようにフローラを抱き寄せたり、抱き上げたりするその腕が、躊躇いを隠せないままフローラの腰に回った。
その時だった。きちんと締め切られていた筈の引き戸が、激しい音と共に勢いよく開かれる。嵌め込まれたガラスが衝撃で割れるのではと思うような騒音に、咄嗟にフローラを自分から引き剥がしたライトがそちらに視線を移し、すぐさま気まずそうに目を逸らした。
その仕草が不思議で、扉の方を向いたフローラに、長い足で扉を開いたフライが綺麗に微笑みかけたけれど。空色のその双眸は、全く笑っていないのだった。
~Ep.276 朝寒のうたた寝・後編~
『貴方が寒さに凍える時は、暖められる自分でいたい』




