Ep.262 月色の瞳を持つ者
時刻は17時半を回った。
自室の寝台に身体を放り投げて早30分。ノックもなしに扉を開いたその人物が、片手で目元を覆ったまま動かないライトの胸元に小さな包みを落とす。
トンと言う軽い振動と共に甘い香りが鼻を掠めたが、それでもライトは動く気になれなかった。それもこれも、先程見た場合がまぶたの裏にまでしっかりと焼き付いているせいに違いない。
「良いんですか?仮病なんか使ってフローラ様との約束破っちゃって。『色々と無理が祟って体調を崩された』と言ったら、とても心配されておりましたよ」
「……っ!良いとは思ってない!思ってないが……フローラには悪いけど、今はあいつと顔を合わせたくない」
今しがた、約束を守れない旨と謝罪を彼女に伝えに行ってきた執事の言葉に、不安そうにしているフローラの姿が浮かんで。罪悪感がチクリとライトの胸を刺す。しかし、それを誤魔化すようにライトはフリードに背を向けて、頭から布団に潜り込んでしまった。
そんな主人にやれやれとため息をついたフリードが、一息に上質な掛け布団を引き剥がす。
煌々と部屋を照らす明かりの眩しさに目を細めたライトが、寝転んだままフリードを睨み付けた。
「久方ぶりに戻ってきたかと思えば、相変わらず無礼な奴だな。お前、俺に仕えてるんじゃないのか?」
「もちろん仕えておりますとも。だからこそお訊ねしますが、貴方は一体何にそんなに拗ねてるんです?」
「ーー……別に拗ねてない」
「拗ねてないならなんですか。私がお仕えしている殿下は、理由もなく女性との約束を反故にするような方では御座いませんよ。第一、出掛けていくまでは普通だったでしょう」
その的確な指摘に、ライトが気まずそうな顔になった。
どこか傷ついたような表情で、ゆっくりと寝台から身を起こす。誤って割ってしまわぬよう、フローラから届いたクッキーをその左手に大切そうに持ったまま。
「……共有スペースに続く扉が硝子張りだったのがいけないんだ」
「いきなり何の話です?」
ライトの呟きに、何のことだとフリードが嘆息する。
『順を追って説明してください』と言われたが、話す気にはなれなかった。
ただ、約束の時間。フローラに会いに行ったライトのその目に扉の飾り硝子越しに飛び込んできたのは、フライが彼女に口づけをしている場面だったのである。
硝子には淡くだが色がついていて、見え方は鮮明ではなかったし、ライトの立ち位置から見えたのは、フライの手に後頭部を固定され抱き寄せられたフローラの後ろ姿だけ。だから、実際にその唇同士が触れたのか、それは定かではない。定かでは、無いけれど。フローラから顔を離したフライに、硝子越しに“邪魔をするな”と、そう視線を向けられた瞬間、心臓を襲った言い様のない不快感と激しい痛みに、耐えかねて。気づけば自室まで戻ってきてしまったのである。
そして、『今日は会えない』と、フローラへの伝言をこの生意気な執事に任せて現在に至る訳だが。
「……俺さ、本当に大切なんだ、あいつのこと。誰にも傷つけさせたくないし、いつだって、笑っててほしいと、そう思ってる」
「……?えぇ、それはもちろん存じ上げておりますが」
唐突にそう言った主人にフリードが次は何だと眉をひそめたが、その呟きが胸の奥から絞り出したような哀切を滲ませていたせいで反応が遅れてしまった。
素っ気ない返答になってしまったかと焦るフリードを他所に、服の上から心臓を押さえつけた主人が話を続ける。
「だけど……今は、俺以外の男にあいつが笑いかけるのが嫌なんだ。ったく、なんなんだよ、この感情……!」
フライに口づけられていたフローラの表情を、ライトは確認しなかった。出来なかったのだ、もし嬉しそうにしていたらと、そう考えただけで、耐え難い。フライも、フローラも、自分にとって掛け替えのない大切な存在なのは変わりないのに。
あの時、ライトは思ってしまったのだ。
フローラを、“誰にも渡したくない”と。同時に、思い出してしまった。剣術大会最終日だったあの日、倒した筈のケヴィンが、自分に囁いたひと言を。
『彼女を手に入れようなどと思うな。お前のものになれば、あの女は死ぬぞ』
根拠のない言葉だった。言ったケヴィン自身にも、その言葉を口にした記憶は無かったようだし、口から出た出任せだと考えるのが妥当だ。しかし、あの時顔を合わせれば、その心をかき乱す不安をフローラにぶつけてしまいそうだった。だから、尚更会わずに引き返したのだ。
そう話し終えた主人の顔をまじまじと見つめ、フリードが力なく床に膝を付く。
「お、おい、どうした!?」
突然の事に驚いたライトが、床に両手をついて項垂れたフリードの顔を覗き込む。なにやら色々とブツブツ言っていたが、聞き取れたのは。
「…………、まさかここまで拗らせていらっしゃるとは……!」
と言う、理解不能なひと言のみであった。思わず引きぎみで、今度はライトがフリードに訪ねる。
「何の話だ……?」
「……殿下!!」
「ーっ!?痛たたたたっ!いきなりなんだ、少しは手加減しろ!!」
あまりの不審さに身を引きかけたライトの肩を、フリードが人とは思えない程の馬鹿力でがっしりと掴む。あまりの痛みに思わずその手を振りほどいて、掴まれたそこを庇いながら数歩距離を取った。
「何なんだ一体!」
「殿下!実の母君の死の真相もわからず、殿下がそう言った類いの感情に疎い……否、無自覚に殿下自身がそう言った感情を抱かないよう押さえつけていたこと、私は気づいておりました。しかし!それも限界で御座います!私は殿下に!心から望むものを手に入れて頂くお手伝いをする義務があるのです!」
「……よくわからんが、俺がほしいものとかより先に何であの人が父と別れた後命を落としてまで俺を生んだのかを教えてくれ。お前は元々、あの人に仕えてたんだろうが」
「それは言えません!!」
「だろうな!知ってたよ、今まで何回この話を断られたかもうわからない位だからな!」
護りたいと言う慈しみは庇護欲、他の男に笑いかけてほしく無いのは独占欲だ。どちらも決して、“友人”に抱く想いではない。
(本当ならば、私の口から全てをお話出来れば、“貴族間の恋”への殿下の否定感もマシになるのでしょうが……)
しかし、それは決して出来ないことだとフリードが首を横に振る。ライトの方も、少し本音を吐き出して落ち着いてしまったのかすっかりいつも通りに戻り、『明日は謝りに行かないとなぁ』などと一人言を言いながらクッキーの包みを開いていた。
「そう言えば、わざわざクッキーだけ貰ってくるならあの剣も一緒に受け取ってきてくれれば良かったのに」
ハート型のそれを一枚口に放り込みながら、ライトはふとそう思った。何故だか自分の物になったらしい聖霊王の力が宿った剣。
元々、今日はそれを返して貰う為にフローラに会いに行く約束をしていたのである。
しかし、言われたフリードは一瞬ピクリと肩を跳ねさせてかは、ライトの頭をペシっとフリードが叩いた。
「なりません!殿下が受けとる約束をされたのならば、ご自分で行かれるのが筋と言うもの。明日、ご自身で受取に行かれてください」
「まぁ、確かにそうだな。自分でいかないのはフローラにも、お前にも失礼だ。悪かった。しかし、明日はケヴィンが島から出される日だからそっちにも行かないといけないし……」
「ーっ!おや、まだ衛兵に引き渡して居なかったのですか?」
「まあな。フローラがあの寮へはメイドとして潜り込んでたこともあって、幸い周りにはあいつがあの屑の被害にあったことは知られていないんだ。出来ればフローラの為にもこのまま誤魔化し切りたいんだが、向こうはこの期に及んで尚しぶとくて。取り調べで全てを暴露して、自爆にあいつを巻き込むつもりなようだったから迂闊に尋問に回せなかったんだ。ようやく口の固い衛兵が見つかったから大丈夫とは思うが、まだ心配だ。本当は、牢に収容されるまで見届けたいくらいだが……。生徒会長としての仕事もあるし、それは難しいだろうな」
「あぁ成る程。フローラ様が自分の“お手つき”だと言いふらすつもりだったわけですか。それはまた……自殺行為ですねぇ」
「全くだぜ。まぁ、すでに実家からは多額の保険金をかけられ見限られた身だからな、失うものがない者ほど恐ろしい者は居ないってことだろうな」
いくら担当者の口が固くとも、情報なんてものはどこから漏れるか油断ならないものである。疲れた様子で息をつくライトに、フリードが提案した。
「では、そちらは私が殿下に代わって見届けて参りましょう」
安心したように喜びつつも、『大丈夫か?』と案ずるライトに、『大船に乗ったつもりでお任せを』と答えるフリード。
笑いながら『船に乗るのはお前だろ』と言われたので、確かにそうだと声をあげて笑った。
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連行されるとは言え、ケヴィン自身はまだ貴族の身。
魔力を封じる為の特殊な腕輪が両手につけられている以外は、罪人とは思えない扱いの船旅である。
テラスで潮風に当たりながら月見など、本当に罪を悔いていればとても出来ないだろうに、と。本当に連行用の船に同乗したフリードはため息混じりにそんなケヴィンに歩み寄った。
「ケヴィン殿、夜風は体に触りますよ」
「ーっ!ふん、心にもないことを言うな。主に言われて、私を監視に来たんだろう?」
深夜のテラスに居るのは、皮肉に笑ったケヴィンと、船自体が人間には魔法が使えないようになっているから安全だと武器を没収されて丸腰のフリードだけ。その上で相手が年若い優男だからと舐めきったケヴィンは、フリードを鼻で笑うだけで振り向きもしない。
「だが、監視なんて無駄だ。今回の事件であいつ等が自分達の立場を正当化するには、私の自白が必要なんだろう?あぁ、してやろう。もう失うものはない、全て話してやるさ。あの三人が愛して病まない婚約者の肌の感触まで、詳細にな」
下衆な笑みを浮かべるケヴィンに対し、穏やかな口調のフリードは一歩ずつ、距離を縮めていく。
「おや、それは脅しですか?自分をこのまま罪人とするならば、フローラ様を道ずれにすると」
「だったら何だ?まぁ、確かにフローラ皇女は見目が良いが、女などいくらでも代わりが居る。あいつ等がそんなに傷つくとは思えないが、醜聞としては十分効果的だろう。それが嫌なら、私への対応を改めるよう主人に伝えることだな」
「……成る程、噂以上の屑ですね」
「何だと?執事風情が……、ーっ!」
ようやくケヴィンが振り向いた頃には、二人の距離は手を伸ばせば触れられるくらいには縮んでいて。気づけば頭蓋骨が鈍く軋む程の力で、真正面からしなやかな手に頭を鷲掴みにされていた。
どう考えても、人間の握力ではない。初めて怯えた表情を見せるケヴィンに、フリードなにこやかに言う。
「ケヴィン殿は、なにか誤解をしていますねぇ。私は別に、貴方と交渉をしに来たわけではないんですよ」
「なん、だと……?じゃあ、一体なんの為に……」
「邪魔をされては困るんですよ。私は、殿下に心から愛する方と幸せになって頂かなければならないのでね。彼の母君と、そう契約を交わしたのですから」
「ひっ……!」
月明かりが、流れてきた雲に遮られた。
薄暗くなった甲板の柵に押さえつけられたケヴィンの頭に、フリードの指が沈んでいく。皮膚も、骨も、破壊することなく自分の脳に入り込んでくる指の感触に、声にならない悲鳴が漏れた。
「ま、待て!待ってくれ、わかった!フローラ皇女に手を出さなければ良いのか!?それともライト・フェニックスが私より優れていると皆に宣言するか!?それから……」
「いいえ、結構。口約束など当てになりません。貴方は、自身の欲望を叶えることが何より重要な人だ。我々の眷属の力を利用して、散々好き勝手に楽しんだのでしょう?」
海の風は、早い。先程月を隠した雲が、風に拐われ消えていった。
その男の双眸が、月光の元で銀色に輝く。
「遊びの時間はおしまいです。ケヴィン・プロフィットという男の人生は、ここで終了と致しましょう」
波もない、穏やかな月夜のことだった。
世界が大きく、揺らめいた。ケヴィンが最後に理解出来たのは、対峙した男の瞳が月と同じ銀色であったことだけであったと言う。
~Ep.262 月色の瞳を持つ者~
『その双眸に宿るのは、禁忌を犯しし罪人の証』




