Ep.260 サヨナラは、花吹雪と共に
古の魔は、封印の地から放たれた。
一人の青年から飛び出した……、かのように見えたそれは、正確には若人達の学舎がある島の地中から天へと解き放たれたのだ。
新たな巫女、フローラのお陰で大分力を取り戻しつつある水鏡越しに、聖なる剣の継承からライトの強い覚悟による覚醒。その剣を修復・強化したフローラの愛情と、そして、剣がライトへ譲渡されたことにより一瞬だけ緩んでしまった封印の隙を突いて逃げ出した初代の魔族。絡み合う因果の全てを見ていた聖霊の王が、深く息をついて並んで座っていた妻の肩に己の頭を預けた。
普段なら『王ともあろう者が行儀の悪い』と怒る妻も、今だけは優しく頭を撫でてくれる。
そんな仲睦まじい夫婦の背後で、不意に吹いた風にアネモネの花弁が舞い上がる。さくりと、背後で花畑を歩く足音がした。自分達の背後に舞い降りたのが聖霊ならば、足音は立たない。我々には羽根があり、皆、来るとしても空を飛んでくるから。だから、今自分達のすぐそばに降り立ったその者は人間だ。そう、確信した。
しかし、ここは聖霊達を統べる全知全能足る王とその妻である聖霊女王が暮らす、玉座の花園。そもそも人間界との出入りは他ならぬ自分が握っているのだから、ここに現れた時点でその者はただの人間ではない。
あえて振り返らずにいた聖霊の王の右手に収まる、魔力のテストを自分の実力のみで受けたいからと言った生真面目な巫女が一時的に返却してきた指輪。それが、独りでに輝きを増した。背後に立つその者を、求めるように。
「……元気そうで何より、とはとても言えそうに無いが……。久しいな、友よ」
『ええ、本当に。あれならどれくらい経ったかわからない程だと言うのに、相変わらずお若いことで』
『羨ましい』と、クスクスと笑いながら聖霊王の美貌を賛辞した男に対し、オーヴェロンは果たして先程の挨拶は正しかったのかと瞳を細めた。どんな形であれ、再会は嬉しいものだ。こう言う時、人間達は“お元気そうで”等と、相手の息災を喜ぶ挨拶から会話に入るのが普通らしいが、とても、そうは言えなかった。
だって、日差しが温かく降り注ぐこの花園で自分達の背後に立つ、年若い古の友の足元には、影が無い。当然だ、……彼の身体は、当の昔に滅びている。
「全く、別れの挨拶が遅すぎるぞ。薄情な男め」
「貴方、そんな言い方は無いでしょう。彼は……」
『構いませんよ、女王陛下。実際、随分と長いこと……私は眠りこけて居たようだ』
「古の魔と共にか?」
皮肉めいた口調の夫を嗜めようとしたタイターニアを制した男に対し、オーヴェロンが迷わず核心をついたのは、時間が無いからだ。
“愛しい人への未練”と言う最も強い想いと、“聖なる剣の扱い手”と言う使命を失った現世に留まりしその魂は、ほんの少し風が吹くだけでも、少しずつ天へと導かれて行ってしまって、すでに消滅間近だから。それを自覚している男の方も、誤魔化したりせず頷く。
『そうなりますね。結果的には、逃げられてしまいましたが』
「封印の要であった剣の持ち主が変わった代償だ、それはそなたのせいでも、新たな持ち主のせいでもない」
その肯定は、王としては正しくないのかも知れない。しかし、それが天に召される一歩手前にいる友への優しさだと理解しているから、妻も微笑み夫に同意した。
その直後、一陣の大きな風が、吹き抜けた。
天へ拐われる、その前に。オーヴェロンとしては彼に聞いておきたいことがある。真相を知る手がかりは、きっともう、この者だけなのだから。
「あの夜、本当は何があった?……そなたの命が尽きたのは、あの場所ではあるまい」
『……っ!』
向こう側が透けて見えるほどに薄くなって居るのに、男がその顔に驚きを浮かべたのがわかった。
決して急かすことはせず、静かに返事を待つ。すると、やがて自嘲の混ざった声音で、男は静かに言った。
『あの日、あの夜、何が起きたのか……。それは私にも、正確にはわかりません。ですが、……私はあの時、彼女と心が通じあったことを、誰にも話しては居なかったのですよ』
巫女の処刑と言う、悲劇が起こった前夜。彼は彼女に想いを告げた。それがきっと、過ちだった。
翌日にはその事が知られていて、結果巫女は恋人の名を餌にした村人達に、捕まった。村人達の前では、二人とも徹底して個人的な仲を気づかせないよう接していたのにも関わらずだ。
そこから導き出される術はひとつ。誰かが、話したのだ。話した意図が何だったのかを知る術はもうないけれど。
『あの日、彼等は約束の時刻に帰ってこなかった。そして、同じ時刻に、彼女は村人に捕まった。私から申し上げられるのは、これだけです。どうか見つけてください、彼等の生きた証を』
共に聖霊から力を与えられ、彼女を守り、……そして愛してしまった者達。彼等の安否は、自分も知らないのだと笑うその姿が、足元から、消えていく。
「……2人の内どちらかが、そなた等を裏切ったのだとは考えないのか?」
『えぇ、思いません。だって、彼等も、私も、護りたいものは同じだった』
固い表情で尋ねたオーヴェロンに対しハッキリとそう答えながら笑う。その笑顔は晴れやかで、ただただ、美しくて。そして、今にも、消えそうだった。
『まだ話足りませんが、そろそろ時間のようですね』
「……もう、行くのか」
満足げに、男が笑う。そして、言った。
『この世界の因果が今、理を歪める外部の魂を排除しようとしています。努々油断せぬようにと、お伝えください。それから……』
最後のその言葉は、強い風音に遮られてしまう。
花吹雪に思わず目を閉じたタイターニアが顔を上げた時にはもう、花園には、自分と夫しか居なかった。
「……全く、この聖霊王を伝言係にしようとは、最期の最期まで無礼な奴だ」
「……えぇ。でも仕方がないでしょう、友とは、互いに対等なものだわ」
憎まれ口を叩く夫は、空を見上げたまま片手で目元を覆っていたけど。そこに伝う雫には、気づかなかったことにする妻だった。
~Ep.260 サヨナラは、花吹雪と共に~




