Ep.242 始まりは暗影と共に
目の前が暗い。
視界が滲んでいるのは、空を一枚の幕が如く覆う乱雲から降りしきる雨のせいで、決して泣いている訳じゃない。そもそも、こんな閑散とした村など、自分は生まれてこの方見たことがないのだから、泣く必要などないのだ。
だけど、捻り上げられた腕が、容赦なく踏みつけられた背中が、ギシリと痛んで嫌な音を立てる。
地面に力付くで伏せられ滲む視界の先で、木製の十字架に張り付けにされた女性と視線が重なる。
『止めろ、彼女が貴方達に何をしたと言うんだ!!』
『その炎を一体どうするつもりだ!?』
『ーーとーーはどうした、二人も貴方達の仲間を救うために遠方に向かった筈だ!それなのに……!』
『この手を離せ!!彼女を彼処から下ろすんだ!!』
喉が裂けるのではないかと思うくらいに張り上げるその声をかき消すように、村人達の『殺せ』や『火を放て!』と言う罵声が響く。『平和の為の尊い犠牲だ、巫女様なら許してくださる』と言う一言に、全身の血が逆流するほどの怒りを覚えた。だけど、これは何の怒りだろうか。
『止めろ、止めろ!止めろ!!!』
伸ばそうとしたその腕は誰のものだったのか。
届かないとわかって尚立ち上がろうとする身体が、幾人かの男に押さえ付けられる。
痛みと衝撃に漏れた呻き声と同時に、一人の少女を張り付けにした十字架へと火が灯された。
こんなにも雨が降っているのに、おかしなことだと思うが、くべられた火種は業火となり、足元から少女に向かいせり上がっていく。恐らく、炎自体に魔力が籠っているのだろうが、そんなことはどうでも良かった。
何が起きているのかすらわからないのに、助けなければと身体が動こうとする。しかし、それを嘲笑うかのように、村人達に何度も地面へと倒されて。
業火に呑み込まれるその直前、重なる視線の先で、彼女が微笑む。その笑顔に妙に既視感を覚えると共に、その人は業火に焼かれて消えた……。
「ーー……っ!!!」
張り裂ける程の胸の痛みに、弾かれるように飛び起きて。視界に飛び込んできたのはまだ見慣れない色の天井だった。
全身が脈動しているのではないかと錯覚する程の激しい鼓動を落ち着かせようと、両手で思わず胸元を押さえつけた自分を、慌てた様子の声が労る。
「殿下、どうなさいました!?」
「……いや、何でもない。少し、悪い夢を見ただけだ」
まだ慣れぬ寝台で身を起こした自分に掛けよって来るのは、国の王城から父が派遣してきた初老の執事である。元は父の専属であり、きっちりまとめた白髪に片目につけたモノクルが似合う優秀な男だが、少々過保護なのが難点だ。今も、『お具合が悪いようなら試合は棄権しましょう』などと騒いでいる。
「馬鹿を言うな。まだ少々時期尚早だったものを無理してここまで漕ぎ着けたんだ。今更途中で投げ出せるものか」
「しかし、顔色の悪さが尋常ではありません。私めは殿下のお身体が心配なのですよ。万が一のことがあれば、陛下と奥様に合わせる顔がございません。フリードからも、無理はさせぬようにと念を押されたのですよ」
最後に出てきた名に顔をしかめた。あいつは、散々人に『一生を捧げる』の何のと言っていた癖に、今回剣術大会用に建てたこの寮にだけはどうしても着いて行けないと言い出し、一時的に暇を要求してきたのだ。それでわざわざ城から優秀な者を数名呼び寄せる羽目になったと言うのに、何を偉そうにと。
だが、それを言っても本人がこの場に居ないので仕方がない。小さく息をつき、深紅の衣に手を伸ばした。正直気分は良くないが、今は大会の方が大事だ。
「今は俺の身体より、彼等の権威を削ぐことが重要だ。支度を急いでくれ、開会式に間に合わなくなる」
「畏まりました。剣はどちらになさいますか?」
「必要ない。不正を疑われる事がないよう、今大会の武器は全て主催側が用意した物の中から選ぶ形を取っている」
「左様でございますか」
多少苦言を呈することはあれど、最後はこちらの意を組んで必要なものを的確に用意する彼は優秀だ。
より動きやすいよう手入れされた衣をまとい、左手を一度強く握り締めた。
脳裏を過るのは、世界の全てを失ったかのような絶望と喪失感を嫌と言うほど刻み付けてくるあの悪夢だ。
初めて見た初夏の一夜以降、大会の準備を数ヵ月間はたまにしか見なかったと言うのに、この寮に移ってからと言うもの、同じ悪夢を頻繁に見るようになった。
初めは音はなく、何が起きているのかも理解しないままで。だが、その方が良かったのではないかと思う。日増しに、夢の中の体の感覚がわかるようになり、音がつき、仕舞いには降りしきる雨と辺りに漂う血の匂いまで鼻をつくようになった。過去を思い出していると言って良いほど鮮明なそれは、最早“悪夢”で片付ける訳にはいかなくて。
(……顔が違った。あの人はあいつじゃない、そんなことはわかってる)
けれど、彼女に多くの者から悪意が向けられているこの現実が、あの悪夢の不快さと相まって、不安で、堪らなくて。
元から、マリンに誑かされたあの道化共はいずれ学院から追い出してやるつもりだった。しかしそれは今でなく、もっとあいつ等の巻き返しが効かない、高等科入学後に違うやり方で仕掛けてやるつもりだった。そこで転落させれば、奴等はもう終わりだ。その為に、準備も着々と進めてきたけれど。
このままでは彼女があの悪夢のように、悪意の生け贄にされる。そんな直感に突き動かされ、こうして予定を前倒ししてまで今回のリコールへこじつけた。
『絶対に来るな』と、いっそ彼女に嫌われても構わないつもりで厳しく言い含めたのもその為だった……のだが。
「大会初日か……、不安だな」
「おや、弱音とはまたらしくない……。殿下があのような者達に遅れを取るとは思えませんが」
「それは当たり前だろ。そっちじゃない、大会自体は、一般の女子生徒も観戦が可能なんだ。流石に見に来るのも駄目だとは言えなかったんでな」
『ふと通路を見ただけで、またなにかやらかそうとしてるあいつを見かけそうで心配だ』と肩を竦めた寮室の外で、使い魔にウィッグを被されながら走る彼女が居ることを、ライトはまだ知らない。
~Ep.242 始まりは暗影と共に~




