Ep.231 とある奇人の屋敷の一夜
明かりのひとつもない廊下で壁際に追い込まれると、いくら相手が気心知れた幼なじみでも、一応女の子としてはちょっと身の危険を感じるのは本能的には当たり前の事で。吐息がかかるほど間近で見るその顔に、外面とも素の時とも違う妖艶な笑みが浮かんでいるのに気づけば、流石のフローラの危機管理能力も少しは反応を示したようだった。
顔をあげては重なる視線に目のやり場がなくなって、俯いたまま華奢に見えるその体を両手で押して見るがびくともしない。
「逃がさないよ。君が先に煽ったんだから、責任取ってくれるよね?」
「ひゃっ……!」
甘く囁く声と一緒に耳を掠めた吐息の感触に、ゾクリと体に痺れが走る。
そんなフローラの頬に手を当て、フライはわざとらしい位に優しく『どうかしたの?』と微笑んだ。
仕草も、表情も、声音も優しいのに、真っ直ぐに見つめてくる空色の双眸の奥でいつもとは違う何かを燃やしているような気がして。その上、壁に押し付けられ逃げられないこの体勢が不安を煽る。
「……可愛いな」
捕食される寸前の小動物のように震えるフローラを見下ろし、フライが一人言のようにそう呟いた。
「え……?」
「……っ!」
思わず声に出てしまっただけなのだろう。己の口元を片手で覆って顔を逸らしたフライだったが、すぐに気を取り直してフローラの髪を少し指先で掬い、口付ける。
キザな筈のその仕草も、寧ろ様になってしまうのは、生まれながらに培ってきたフライ自身の気品のせいだろうか。
無駄な抵抗とわかっているが、両手でフライの体を押しながら訴える。
「ほら、もうこんな暗い所でおかしなことしないで!口説かれてるみたいになっちゃうから……!」
「いいじゃない、強ち間違ってないよ」
「……っ!」
髪を避けられて露になった首筋に、軽く口づけを落とされて。
「もうやだ、今日のフライ恐いよ……!」
思わず身を竦めて目を閉じたフローラが、震える声でそう呟く。強く目を閉じているせいでわからないが、フライが小さく息を飲んだ音だけは妙にハッキリと聞こえた。
「だから、君が煽るからなんだってば。この状況で目なんて閉じたら、逆効果だよ……?」
頬をなぞり、顎に当てられた指先の感触に、いちいち体を震わせて。少し驚かして意識させる程度のつもりだったフライだが、歯止めの利かない所まで来てしまった。
フローラも殆ど抵抗にならない抵抗しかせず、寧ろ弱々しく怯えているのだから尚更である。
(ここまで自制が効かなくなるなんて……、参ったな)
小さくため息をついた気配にもう一度身をすくませるフローラの腰に腕が回されて、最早手で彼の体を押すことすら出来ないほど密着する。
もう一度『やめて』と口にしたいが、頭が上手く回らなくて声がでない。もう逃げるに逃げられない、そんな時だった。
「はい、そこまで!」
そう鋭く響いた声と共に、不意に拘束が解かれたのは。
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一方、父に明日のフローラ達の見送りについて相談に来たアイナは、そこに父の姿がなく首を傾げていた。
「魔道書も放ったらかしで、どこ行っちゃったんだろ……」
「アイナ!!!駄目だ、子供がそれに触れては!」
もう夜も深い。心配しつつ、何の気なしに机に放り出されていたそれを手に取ろうとしたその時。大慌ての父が部屋に飛び込んできて魔道書を取り上げた。
そして、アイナの肩を揺さぶりながら捲し立てる。
「この書にはね、魔族と契約する為の魔方陣が一番最初のページにかかれている。魔方陣から魔力の影響を少しでも受ければ、理性が蝕まれたり破壊的な衝動にかられたり……他にもどんな悪影響が出るかわからない。決して触ってはいけないよ。わかったね!!」
だったらそんな危険なものを無造作に部屋に置いておくなと言いたいが、心配してくれたことがわかったのでそこは黙っておく。
ただひとつ気になることがあって、魔力を遮断する効果があるブックカバーに魔道書をしまおうとしていた父に声をかける。
「でもそれ、風で開いてた一番最初のページ、何も書かれてなかったよ?」
「なんだって!?」
娘の言葉に慌てて魔道書を確認したロイドが『本当だ……』と声を漏らす。
至って真剣な顔で『修正液でも溢したかな』と呟く父の頭をひっぱたき、アイナは『ページを勘違いしてるだけでしょ』とため息を返した。
父が開け放したままの扉から何かが部屋を抜け出た姿は、その目には見えなかったのだ。
~Ep.231 とある奇人の屋敷の一夜~




