聖霊王の悪戯 《後編》
聖霊王の玉座の水鏡にてクォーツ大ピンチ事件を見て、慌てて飛び出してきたは良いものの、全速力で彼がぶら下がっていた崖に行ったときにはもうそこはもぬけの殻だった。
崖上の土に何かが刷り上げられたような跡と、そこから森の中へと続く2人分の足跡があったので、多分他の皇子のどっちかに既に救出されたのだろう。全く人騒がせな……と、ブランは上空から彼等を探しつつため息をついた。
そして、程なくして河原で、妙な距離を空けたまま対峙している三人を見つけて近づこうとした、その時だった。
「うわぁっ!!?なになに!?」
不意に何も無いところから現れた布により、ブランの身体がすっぽりと包まれてしまったのだ。
そして、その布の外側にはホラーな顔……。
つまり、端からみればおどろおどろしい布が独りでに空中を飛んでいる状態なのである。なんとも不気味だ、恐いものが苦手な人間が見たらさぞ驚くであろう。
「前が見えないーっっっ!!!」
そんな謎の物体と化したまま、ブランは何やら気まずそうな信号機トリオの元へと突っ込んで行くのだった。
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ザァ……と吹き抜けて行った風が止むと、辺りは静寂に包まれた。
そんな中、クォーツは急に激しく脈打ち始めた己の胸を服の上から押さえ付け、小さく息を溢した。
隣に立つライトにどころか、数歩ぶん離れた位置でこちらを見ているフライにさえ聞こえてしまいそうな程の鼓動。それは、つい先程フライが呟いたひと言のせいだ。
『僕、ひと言も言ってないけど。彼女に好意がないなんて』
ライトが、フローラと自分達三人との婚約について“恋慕の情があって行われたものではない”と言った直後、聡明で、普段は感情を表に出さないあのフライが、絞り出すような声音でそう言った。
そして、呆けて何も言えない自分達を見て、しまったと言わんばかりに顔を背けるその仕草。
これではまるで、彼がフローラに特別な想いを抱いているみたいじゃないか。
「フライ、今のって……」
そう考えかけて、不意に胸に激痛が走った。今までの人生で一度も感じたことの無いその感覚に息がつまり、今にも出かけていた質問が喉元に突っ掛かって止まる。
そして、治まるどころか考えれば考えるほど深く、重くなっていく痛みに口を閉ざした。
時間が止まったかの様に、誰も、何も言わない。まぁ、ライトだけは自分とフライを数度見比べた後に、単に場の空気を読んで何も言わない選択をしただけのことだけど。そして、なぜか彼だけは普段は凛々しい色を見せている深紅の双眸を間抜けに見開いて空を見上げていたけれど。そんなことには興味も沸かなかった。
ただ、意図的に作られた沈黙の中に閉じ込められ、先程まで心地よく感じていた川のせせらぎも、柔らかなそよ風も何も感じ取れなくて。
代わりに感じるのは、これ以上踏み込んだら、後戻りが出来ない何かに触れてしまいそうな未知への畏怖と。今、ここで進まなければ、大きな過ちを起こしそうな漠然とした焦燥感だった。
しかし、そんな重たい空気を無視して、ライトが一歩前へと踏み出す。
「……フライ、ちょっと後ろ見てみろ」
そして、フライに向かってそう言った彼の横顔が、小さい頃に散々悪戯をされていたころの表情と同じなことに気づいた。
(なーんか、嫌な予感……!)
ヒシヒシと感じる、先程までの重い気持ちとはまた違った嫌な予感。その正体を確かめるべく自分もライトが見ているのと同じ方角の空を見上げると、途端に目に飛び込んできたのは、青と紫をふんだんに使用したホラーな色合いの人の顔!!しかも、それがひとつの塊となり宛ら生首状態のそれが空を飛びながら高速で迫ってきているのだから、思わず小さく悲鳴を挙げてしまったのも仕方がないと思う。
(いや、そんなことより今は……!)
「ん?何だい、2人して。何かおかしなものでも降ってきてるのかな?」
急に自分達の意識が全く明後日の方向に行って気が削がれたであろうフライが、呆れ混じりに振り返ろうとする。
しかし、心霊系の恐怖には、普段から臆病者の自分よりも更に苦手なフライだ。あんなものを不意打ちで見せてはマズイと、隣に立っていたライトを押し退け、フライが振り返る前に飛びかかった。
「ーっ!!見ちゃ駄目!!!」
「うわっ!?」
「ーっ!?馬鹿っ、お前ちょっとは周りの足場を……っ」
2人で川原の比較的柔らかい土に倒れ込んだのと、頬にほんの数滴だけ水気を感じたのは、ほとんど同時だった。
そして、2人して盛大に転んだ自分達のすぐそばを、風にさらわれた一枚の布が流れていく。
その布の飛ぶ高さ、飛んできた方向と、何よりその如何にも自分が嫌いそうな不気味なデザインを目にしてクォーツの意図に気づいたフライは、思わず『参ったな……』と呟いた。
それもそうだろう。何故なら、彼は庇われたのだ。たった今、恋敵として敵対するのかしないのかの瀬戸際に立っていた筈なのに、この親友は何の迷いもためらいもなく自分の目を塞ぎに来たのだから。
庇われ下敷きとなったフライがなぜ飛び込んできてまで助けたのか問えば、何の疑問も抱かずに『だってフライ、ああ言うの苦手でしょ?』と。
その純粋な笑顔は、想いを寄せるあの子とよく似ていて。だからこそ、フライは思ってしまった。そんな優しさを見せられては、こちらも抜け駆けなんてズルいこと、出来ないじゃないかと。
「……そうだね、ありがとう。でも、流石に飛びかかってくれなくても良かったんじゃないかな。川に落ちたら、かえって危なかったよ?」
だから、つい出てしまったこの憎まれ口は、照れ隠しとして許してほしい。
「あっ!そうだよね、ごめ……っ」
「……大丈夫、この川見た目より浅いぜ」
そして、そんなフライの心情には気づかずに慌ててクォーツが謝ろうとした時、ひどく低い声音で、ライトが2人にそう言った。……が、声だけで、姿が見えない。
そういえば、2人で倒れた際に頬に水しぶきを感じたが、空は快晴で雨の“あ”の字も見えないほどだ。では、あの水滴はどこから来たのか……。
浮かび上がる結論に、2人して気まずい気持ちで視線をゆっくりと声のした方へと移す。
「……深さにして、大体30cmか。浅くて良かったね」
そこに尻餅をつき、足元と川底についた右手の手首のみを水に浸した友の姿に困ったように笑い、フライが言った。
そしてライトも負けじと、年頃のご令嬢が見ればそれはそれは喜びそうな素晴らしい微笑みを浮かべるのだ。その華やかな金髪から水を滴らせながら。
「あぁ、本当にな……。で?お二人さん、何か俺に言うことはないか?」
「「……本当にごめん」」
普段は優しく気さくな癖に、こんなところで最高権力保持者の威厳あるオーラを放たないで欲しい。
そうは思うが、2人で声を揃えて謝った。親しき仲にも礼儀あり。人間、感謝と謝罪は基本である。
「全く、フローラも居ないのにまさかこんな形で水浸しになるとは……」
潔く謝った2人を一瞥し、ため息を溢すライト。その片手に猫つまみをされ、ホラーな布の中から救出されたブランが、『君は昔からフローラの魔法の失敗に巻き込まれてるからね。ごめんね』と、猫らしからぬ落ち着きで謝罪をするのだから、先程までの気まずい空気など、すっかりどこかへ飛ばされてしまうと言うもので。
毒気も抜かれた三人は、近場の岩に腰掛け、1人は濡れた、後の2人は川原の土で汚れた上着を各々脱いだ。
「それにしても、どうせ濡れるならあの時みたいに怪我でも治るならよかったんだがな」
「怪我……?何それ、何の話?」
思わずこぼれたのは愚痴のような言い方だったが、その意味不明な内容にクォーツが食いつく。
それに対して、ライトが話したのは初等科二年生のとある晴れた日の出来事。
初めての剣技の授業で手首を痛め、仕方なく一人で医務室に向かっていた日のことだったと言う。
「渡り廊下を歩いてたら、たまたま花壇の手入れをしていたフローラとレインに出くわしてさ。で、声をかけようとしたんだがフローラが魔力で出してた雨雲の制御を間違えて……」
「水も滴る良い男になったわけだ」
「……まぁ、そう言うことだ。で、問題はそこじゃなくて、」
「うわぁ。自分で良い男って認めちゃうんだ?」
「なっ……!だから問題は!そこじゃなくて!!」
「あーもうっ、わかったから2人ともケンカしない!で、その後に何かが起きたの?」
フライが自分で誘導しておきながらからかうように意地悪を言うのは、先程ライトに『フローラの影響でフライが変わった』とからかうような事を言った腹いせだろう。ライト自身は本当に感じたままを言っただけで、意地悪を言ったつもりなどなかった訳だが。
しかし、このまま言い合わせては話が進まないと、クォーツが強制的に話を軌道修正する。これも、試練前ならあり得なかったことだ。
「……ま、あの時はまだ仲もよくなる前だったからな。腹は立ったけど、あんまり平謝りしてたし、流石にわざとじゃないことはわかったから魔力で服を乾かして、そのまま医務室に行ったんだ。そうしたら……」
「「そうしたら?」」
「……消えてたんだよ、手首の痛みと腫れが」
「え……、ちょっと待って!それって、治ってたってこと?捻挫が?」
練習場から医務室に向かうほんの僅かな時間の間に治るだなんてあり得ない!と叫ぶクォーツを他所に、フライは考え込むようにしばし顎に手を当てた後、ライトに尋ねた。
「つまり、皆で森に飛ばされてすぐにライトが言っていた『小学生の頃の件で気になること』と言うのは、その件だったんだね?」
「あぁ。あの当時はまだ治癒力が普通の人間に扱えないものだと知らなかったし、そんなに気にしていなかったんだ。ただ、もしあの日俺の怪我を治したのが、あいつの魔力によるものだったのだとしたら……」
そこで意味深に黙り混んでしまったライトとフライに、唯一ある事実を知らないクォーツが首を傾げる。
そんな親友に困ったような微笑みを向け、ライトが『確証がある話じゃないし、この話は後にするか』と無理矢理会話を閉じた。
「えーっ、気になるじゃないか……!」
「話して大丈夫だと確証が得られたらちゃんと話すさ。それより、本当にそろそろ行かないと、少しだが日が傾いてきたぜ」
「そうだね、クォーツだって、ルビーが心配なんじゃないのかい?もしかしたら、今頃君に会いたくて泣いてるかもよ」
かなり力業だが、クォーツにとってその名はいつでも効果抜群なのだ。
フライのひと言ですぐさま立ち上がり、今すぐ行こう!!と走り出す。……焦りすぎて、先程まで彼等が居た方向に。
「ちょっとクォーツ、そっち逆だよー」
やれやれと肩をすくめてフライが彼を呼び戻しに行くその隙に、ライトは己の服を乾かそうと手に魔力を籠める。
ーー……否、籠めようとした。
「どうかしたの?」
いつもなら一瞬で終わる筈の乾かし作業が起こらず、それどころか不思議そうにライトがその手を見つめる姿に、隣に居たブランが尋ねる。
「いや、なんか、魔力が使えないんだ……」
「え、魔力切れ!?試練で頑張り過ぎた!!?」
「お前なんで試練のこと知ってるんだ?……まぁ、それはいい。そんな、完全に枯渇するほど使った記憶は無いんだけどなぁ」
自慢じゃないが、生まれてこのかた魔力切れはおろか、魔力不足にすら陥った事はない。つまり、これはある種の異常事態だ。……が、それはここがただの人間の世界であったらの話だ。
「まぁ、ここはあくまで聖霊達の住まいだしな。こんなこともあるだろ。それよりブラン、何か布的なもの持ってないか?」
さっさと頭を切り替え濡れた部分を拭くことにしたらしい彼にそう言われて、ブランは困った。
何せ慌てて飛んできたものだから、預かっていた筈のフローラの鞄も玉座の花園に置いてきてしまい手ぶらだったのである。なので、今手元にある布地と言えば……
「これならあるけど……」
先程自分を生首状態にしたらホラーな布ただ一枚なのである。
普段細かい事は気にしないライトも、受け取りはしたものの『これはちょっとな……』と苦笑した。
「それにしても、ずいぶん繊細に縫い込まれた刺繍だな。なんともまぁ、技術の無駄遣いをした人間が居たもんだ。犯人、フライに名前しられたら大変だぞ、きっと」
「そんなに?フライ本当に嫌いなんだね~こう言うの」
「まあな、正直ホラー関連で本気で怒らせたら恐いなんてものじゃ……ん?」
雑談しつつ、流石にこれで身体は拭けないと、全力で才能を無駄遣いしたそれを畳んだ時に、不意に鼻を掠めた甘い香り。
花やせっけんの薫りを模した香水じゃない。クッキーやアイスクリーム、プリンなど、甘味を彷彿とさせるその香り。バニラだ。
そして、この場所に居るであろう、手先が器用で発想が変で、かつお菓子の甘い香りに縁のある人間など、一人しか居ない。というか、他に居てたまるか。
「お待たせ。今度こそ行こうか?」
「ーっ!!」
結論に至り慌てて小さく折り畳んだそれをポケットへと押し込んだところで、フライが戻ってきた。間一髪とは正にこの事だ。
「……?行かないの?」
「いや、もちろん行くさ!さぁ歩くぞ、余計な事は考えずに!!」
そして、親友2人の背中を押し、無理矢理に3人並んで歩きだす。そのポケットに物理以上の重さを感じ、ライトは内心叫ぶのだった。
~聖霊王の悪戯 《後編》~
(あんの、お転婆姫がーっっ!!!)
その叫びを感じとり、隠れてマリンの様子を伺っていたフローラが小さくくしゃみをしてしまったことは、また別の話である。




