3:メリーの館Ⅷ
転んだ私は事態を把握するのに数秒を要した。危機的状況においては致命的な時間だ。私が目にした時、そこには血だらけのリアちゃんがいた。私たちをかばった代償だと思い知らされる。
「そ、そんなっ……」
「大丈夫っ、離れてて」
「グギュル」
現れた男の人が二つに割れて血に伏せていた。嘔吐しそうなほど気分が悪くなる。けれど、そう悠長なことも言ってられない。前方の遥か奥に何かがいる。けど、私が視認する前にそいつは暗闇に消えた。
リアちゃんの腕は裂いたのも、正気のなかった人を殺したのも。
「っ……、リアちゃん……」
「平気だから。それより、まだ来ると思う」
リアちゃんは戦う意志を見せる。千切れそうなほど裂かれた袖を自ら切り離し、風を呼び寄せた。何も感じられなかった通路の空間に、流れが生じる。
「う、ぅあぁあぁあ!?」
「志水さん!?」
「いやだっ! 死にたくない!! やめろ! 来るな!」
目を見張る。ついさっきまで前方にいた何かは、後ろに下がったはずだ。なのに、今は遥か後方に潜んでいるようだ。志水さんを背後から奥の闇へと引きずり込んでいる。
「っく……」
あまりに早い。手を伸ばす間もなく、志水さんが闇へと消えてしまう。その直後に風が駆け抜ける。私がリアちゃんだと理解するのは少し遅れることとなった。
「紗希!」
呼ばれて、初めて気付く。
「グギュル」
不快に思える鳴き声と、ボト……ボト……と何かが滴る音。いずれも、私の背後からだった。
「あ……ぁ……」
振り向かなければ良かった。見なければ良かった。何かが膨れ上がる。これは、恐怖心なのか。いや、この現実に対する、この上ない嫌悪感だ。嘘だ。認めない。否定する。こんな現実、受け入れられるわけがない。
「紗希! 逃げて!」
「く、うぁ……や……」
赤い六つの光が見える。そして、肉片が垂れ下がる。変わり果てた志水さんであった。前に出てくるそれは、志水さんだった肉をくわえたままだ。逆釣りにされ、上半身しか確認できない。ボトリと、血であるのか肉片であるのか判断がつきそうにない。ひゅーひゅーと息遣いに近いものが聞こえたが、じきにそれも途絶えた。
「ギュル……」
「何してるの!」
それは誰だったのか。耳にしたのはリアちゃんではなく、見知らぬ女の人だった。勢いよく手を引かれる。その力で私は走らされた。私がいたであろう位置に、ガキィンと火花が散っていた。危なかったのだとようやく理解した。
「こっち!」
「え?」
「紗希!?」
リアちゃんの声が背後から聞こえる。私は引っ張られることにおとなしく従ってしまう。手に感じる力はけっこう強く、私が抗うことは容易ではなかった。この状況についていけなかったこともあると思う。
「ッ……!」
私を引く女の人が長い通路の壁を押す。すると壁は押し進められ、口が開いた。すぐ先に階段が見えた。
「ここに」
「あ、で、でもまだ……」
リアちゃんを置いてきたままだと伝える。が、有無を言わさず押し込められてしまった。そしてそのまま隠し扉は重く閉ざれてしまう。
「え? まだ他にもいたの?」
「今からでも行かないと」
私は急いで戻ろうと壁を押す。入った途端に閉じたこの扉を再び開かなければいけない。しかし、どれだけ力を出しても何も起きなかった。
「無理よ。こちら側からは開けられない」
「……そんな、リアちゃん、リアちゃん!」
彼女を呼んだ。力いっぱい叩く。ビクともせず、扉は冷たく固く閉ざされたままだった。向こうからは何も聞こえない。それは何を意味するのか見当がつきそうにない。実態は見えなかったが、何かが確実にいたんだ。正気がなかった人を殺し、志水さんも殺した何かが。
「もしかして金髪の娘のこと? あの娘もメリーたちと一緒でしょ」
「違う! 友達だから!」
背にしていた女の人を睨む。区別できたことには多少驚く。けど、同じ魔界の住人かもしれないけど、私にとっては絶対的な違いがあった。同じように思われたくないと強く思う。
「そう。まあ私には関係ないわね」
全く意に介していない様子だ。彼女は古びた拙い服を引きづるようにして、階段へ向かう。そもそも服とは呼べない。まるで適当な布を上から被ったような服装だった。長い黒髪も、汚れていて少し痛んでいた。
私はどうすればいいか困惑しながらも、開ける手段を思案する。彼女が階段の手前でピタリと足を止めた。
「いつまでここにいるつもり? 開かないのだから回った方が効率的よ」
「あ……」
開かないのではここにいても仕方がない。私は階段への道を選んだ。リアちゃんが無事であることを祈る。また合流出来ることを強く、強く望んだ。そして急いで駆ける。
「私は茉莉って名前。残念だけどそれしか覚えてないの。貴方は?」
「神崎、紗希です」
「そう。私もね。連れてこられた一人よ。さっき殺された男と同じ。けっこう前からいるんだけどね」
随分と冷淡に言いのける。人が死んだのをこの人も見たはずなのに、何も気にしてないのだろうか。私の考えを読んだように、彼女は、茉莉は言った。
「ここにいたらね。人の死なんてすぐ慣れてしまうわよ」
茉莉は嘲るように笑った。本当に何も感じていないのだろう。でも、ならどうして私を助けたのだろうか。下手すれば自分の命さえ危うかったはずなのに。そこまで彼女は読み取ることはなかった。
茉莉と共に階段を登り始める。激しい呼吸も、打つ心臓も気にせず、最速で駆け上がった。