4:交差Ⅴ
「いくつか訊いていい?」
完食した後、頃合いを見計らった狭山が言う。女も当然だと思えた。人間からすればやはり、自分は異物に違いない。尋問してもおかしくは……。
「名前まだ訊いてなかったけど、何て名前?」
「……赤………と呼ばれてる」
女はさらに、何かを続けて言い掛けた節があった。しかし、言葉を切って口を噤むと、それ以上言うつもりはないらしい。なら、それでも構わないかと狭山は思う。
「じゃあ赤ちゃんで……」
「それはやめろ」
明るく口にした狭山の襟が、瞬時に掴まれる。あまりの手の早さに狭山は硬直した。何かまずかったのか。まるで紗希の拳のようだと思い出す。
「そう呼ばれるのは嫌いだ。馬鹿にされてるみたいだ」
「可愛いと思うけど」
「……か、可愛くない」
赤と名乗る女は戸惑う。可愛いなどと言われたことなど今までない。しかも人間にだ。いや、赤にとって、人間とこんな風に会話することがあるなど思ってもみなかった。
「えと、じゃあ赤さんで」
「まぁ、それなら」
「僕は狭山啓介って言うんだ。よろしく」
社交性が高い狭山だが、赤からすれば馴れ馴れしいと映る。数秒迷った後、赤は狭山から視線を外して言う。
「……よろしくなどしない」
「あはは……」
つれない様子の赤に、狭山は乾いた笑いを零す。気を取り直すと、続けて質問を投げ掛けた。
「あと、どうして昨日はあんなところに……」
当然の質問だな。と、赤は思った。話の流れから、この人間は執行者と通じているわけでもなさそうだ。魔界のことなど知らない一般人だろう。わざわざ自分を助けて何のつもりだと勘ぐったものの、杞憂だったようだ。
「別に……、ただ怪我をしたから何処かに潜むつもりだっただけだ」
まさか人間に見つかる羽目になるとは思わない。本来なら屋上でやり過ごすつもりだった。まさか不調のせいで、飛距離を見誤ったことまで言えるはずがない。そんなことはつゆ知らず、狭山からは酷く能天気な言葉が出てきた。
「じゃあ、それまでいたらいいよ。部屋は余ってるし」
「は?」
「乗りかかった船って奴かな。一応助けたつもりなのに、その状態で追い出すわけにもいかないし」
応急処置程度に、手当てされた赤の状態を指して狭山は言う。赤は隠すことも忘れて驚く。魔界のことを知らないからだろうか。こんな得体の知れない自分を置いておくと言ったのか。初めてだった。こんな人間を目にするのは。赤はふっと笑った後に確信した。
こいつ、馬鹿だ。
呆れてしまったが、赤にとってこの状況は悪くない。不意をつかれての負傷だったが、此処で可能な限り休めるのは好都合だった。
「あと一応もう一つだけ。その怪我はどうして? 昨日言ってた仲間って言葉も気になるけど」
「……知らない方がいい。お前には関係ないことだ」
「そういうわけにもいかないよ。誰かに追われてるとかかもしれないし」
赤は考える。馬鹿には違いないが頭が悪いわけではないらしい。その可能性を考慮をした上で居てもいいと発言したようである。いや、余計タチが悪いだろう。わざわざ損を選ぶ馬鹿だということだ。
「余計な気遣いはいらない。動けるようになったらすぐに出て行く」
「それこそ余計な気遣いだよ。別に厄介払いしたいわけじゃないんだから。ただ、何か手を貸せることはないかと思ったからだよ」
赤は耳を疑う。何だこいつ。ここまで来ると、単なる馬鹿と片付けていいものか迷う。狭山の思考が読めず、馬鹿な振りをしているだけにも赤の目には映った。だから、赤は口にした。
「お前。狭山と言ったか」
「うん」
「お前は、魔界を知っているか」
「まかい?」
問われた狭山は、ただ赤の言葉を繰り返す。
「なら、処刑人って呼ばれる奴を聞いたことはあるか?」
「え~と、死刑とかやってた人?」
赤は狭山の反応を見極めようと目を細める。しかし、狭山の反応はいささか鈍いものだった。動揺は見られない。誤魔化している動きもない。やはり、何も知らないようだ。
「知らないならいい。お前には充分手は貸してもらっている。ある程度傷が癒えるまで置いてもらえるんだ。これ以上は望まない」
「そう。なら良かった。また何かあったら気軽に言って」
「……あ、あぁ」
妙な人間がいたものだな。赤が今まで認識していた人間とは、狭山は大分印象が違っている。赤は、不思議な気分に浸っていた。うまく、言葉には出来ないが。
身の振り方を話し終えた頃、何処からか、音楽が鳴っていた。一瞬赤が強張ってしまうが、狭山は苦笑いながら席を立つ。
「うわっちゃ。やっぱり来た。ちょっとまずいかも」
「……何の音だ?」
「携帯だよ」
「携帯?」
「ちょっと待ってて」
そう言うと、狭山は部屋を出て行く。そのうち音楽は止んでいた。すぐに戻ってきた狭山の手には、携帯が握られていた。赤にも見覚えはある。昨夜屋上で、狭山が握っていたものだ。
「それが携帯か」
「そうだよ。見たことない?」
「ないな。何に使うんだ?」
「電話とかメールとか。遠くにいる人との連絡手段だよ」
「連絡……」
魔界のことを知らず、執行者と繋がっていることはなさそうに思える。とはいえ、人間の仲間はいるだろう。緩んでいたわけではないが、連絡という言葉で、赤は警戒を強めた。その様子は狭山にも見て取れる。狭山は笑いながら否定した。
「安心して。別に誰かを呼んだりしないし、赤さんのことを誰かに言ったりもしてない。今のは僕が呼び出されてただけだよ」
「呼び出し?」
「学校の友達にね。良い奴だけど結構真面目でさ。連絡してなかったからカンカンだろうね」
狭山は携帯に表示される時間を確認する。十時五十三分だった。