4:交差Ⅳ
時間をかけてしまったが、ようやく女をベッドに運ぶことが出来た。慣れないことをして少し息を切らせるが問題はここからだ。血を止めないといけない。水とタオル、救急箱を急いで用意する。だが、狭山に医療の知識はない。せいぜい漫画とかからそれっぽいものを用意しただけだ。
「何をしてる」
「え、いや……どうしたらいいのか分かんなくて……」
横になる女から酷く冷たい視線が注がれた。先程偉そうに口にしていたのに、この体たらくかとでも言いたげである。
「とりあえず……」
女は助けられようとしている身の上を理解していたのか。文句は口にしなかった。このまま死ぬわけにもいなかい。痛みに耐えながら、今出来るであろう対処を、狭山に事細かに指示を出す。瀕死の者が応急処置を促すという、妙な光景が出来上がっていた。
「……これで何とか持つと思う」
「そう。良かった。ありがとう」
「……何で助けたお前が礼を言うんだ」
言われて狭山は確かにと笑う。しかし狭山だけなら何も出来なかっただろう。間違ってはいないと狭山は思った。
「何か欲しいものある?」
「水……」
「分かった。すぐ取ってくるよ」
狭山が席を外して、コップに水を汲んできた。女を呼ぶが、いつの間にか女は眠ってしまったようだ。本当に大丈夫なのか心配になったが、落ち着いた寝息であるので問題なさそうだった。見れば、額に汗をかいている。黒い前髪をよけて、新しいタオルで汗を拭った。
さて、どうしたもんか。運んだ時だろうが、屋上から続いているであろう、部屋に垂れた赤い血の跡を見て狭山はボヤく。今になって不安になってきたのか。
「女の人を連れ込んじゃったぞ」
明朝、女が目を覚ます。一瞬、見知らぬ部屋に自分がいたことに驚いたあと、昨夜を思い出す。人間に助けられたのだ。
「そういえばあいつは……」
人間がいないことを知ると、不安が押し寄せる。まさか眠ってしまっている間に、仲間を連れて来るのではないか。こうしてはいられない。女は跳ね起きると、残る痛みに顔を歪ませつつも、脱出を試みる。扉を開けて飛び出したところに、昨夜の人間が顔を見せた。
「あ、起きたんだ」
「……っ」
出会い頭であることにも驚いたが、まさか見張りだったりするのかと強張る。しかし狭山にそんな意図はない。
狭山が手にしていたのはホカホカと湯気が出て、食欲をそそる朝食であった。
「お腹空いてない?」
「……それ食べれるのか?」
確かに腹は空いていたが、女は人間の食べ物など食べたことがない。人間では食欲を刺激しても、この女も同じようにはいかないようだ。初めて目にするものに警戒していた。狭山のほうは、自分なりにうまく出来たと思っていた分、女の思わぬ反応に、些かショックを受ける。
「美味しくなさそうかな」
「……いや、見たことないだけだが」
「え? そうなの?」
女は狭山より少し背が高いくらいだ。前髪が長く、右目あたりが隠れてしまっている。着ている物はコスプレなのか、忍び装束みたいで確かに妙ではあるが、風貌は日本人に見える。年齢も佐山と変わらないか少し上くらいに思える。
だというのに、米と味噌汁。焼き魚と煮物が少しと、至ってシンプルな朝食を見たことがないと言う。狭山も妙に感じたが、怪我のことも含めて何かしら事情があるのかもしれない。気にはなったが、追求はしないことにした。
「ところで、どうかしたの?」
部屋を出てきたことに対する質問だ。根掘り葉掘り尋ねることは憚れたが、これくらいなら訊いてもいいだろうと狭山は判断した。
「いや……別に」
女は辛うじて答える。逃げるつもりだったとも言えない。今の万全でない状態ということもあるし、目の前の人間を信用してない故である。
「何か欲しいものがあるなら言ってくれればいいから。とりあえずこれ食べてみてよ」
「……」
狭山の善意に圧されると、女は渋々部屋に引き返した。女が再び、ベッドまで戻る。狭山は、朝食が乗ったお盆をテーブルに置いた後、ベッドの淵に寄せた。
「……これで食べるのか?」
用意された朝食を目の前に、女は疑問を口にする。二本の箸だ。どうやら使い方が分からないらしく、両手で一本ずつ手にしていた。
「使ったことない?」
「……そうだな」
日本の文化そのものが初めてなのかもしれない。狭山は待っててと言って部屋を後にする。数秒程で戻ってくると、スプーンを持っていた。
「これで掬えば食べやすいと思う」
狭山からスプーンを受け取ると、女はそれでも訝しげな表情だった。こうやって掬うんだと狭山がやって見せて、ようやく女は得心が行ったようだ。同じように煮物を掬って口に運んだ。
「どうかな?」
もぐもぐと咀嚼する女を見て、狭山は尋ねる。誰かに食べてもらうのは初めてではないが、やはり少し緊張していた。
「……おいしい、と思う」
「そ、良かった」
満面な笑顔を見せる狭山。女は妙な気分に浸る。本来喰らうはずの人間に助けられ、喰らうはずの人間のものを食べている。しかも、それがけっこう食べられるのだから。
「これ僕の自信作なんだよね。毎回味が微妙に変わるんだけど、今回はうまく出来たんだ。あ、魚分けてあげる」
「う、うん……」
女はもやもやとした気分だった。人間のものなど不味いに決まっている。そう思っていたのに。いつの間にか食べることになってしまい、ついおいしいと、口にしてしまった。それがこの人間の気を良くしたのか。嬉しそうにして、食べやすいように気を遣う。
結局、初めて食した人間の食事を、女は綺麗に平らげてしまった。