5:名前ⅩⅠ
リリアが限界にきているのは確かであった。だがそれでもまだ朽ちるわけにはいかない。今まさに紗希が殺される危険に見舞われている。ならば、たとえ意識が朦朧とするほどであっても、リリアは此処で立ち上がらなくてはならない。
「……紗希っ」
逃げないでいるその背中に向かって、リリアは絞り出した。逃げられないのではなく、逃げようとする素振りすらないことに、リリアが叱咤したのである。
「……っく、うぅ……」
紗希は何も言えず、恐怖も含むためか泣くだけだ。そして……。
「ありがとぅ、ございます……」
耳にしたのはそんなお礼の言葉。不釣り合いな発言に紗希とリリアは耳を疑う。
「おかげで……正気に戻れ、ました……」
「……ぁ」
紗希が気の抜けた声をあげる。切り詰めた空気がようやく和らいだ。
「……すみません。私が正気を失ったばっかりに」
「……あ、いえ」
彼女は律儀に謝った。紗希も彼女のせいじゃないことはもう、よく分かっている。だからこそ、無事だったからこそ、もう気にしないでほしい口にした。危うく殺かれかけたのにもかかわらずに。
「………」
催眠の状態になっていたとはいえ、リリアにも看護師の経緯は分かる。だが紗希のように、うまく納得は出来ていなかった。実際にギリギリの状態だったのもあるし、魔界で生きてきたことを考えると当然だった。
「紗希……さんでしたか。私が今から言うものを取ってきてもらえますか?」
「え……はい」
立っているのが億劫だったのか。彼女は崩れたように腰を落とす。心配になる紗希に対して彼女は申し出た。
「何を……する気」
リリアは警戒していた。正気に戻ったとはいえ、まだ敵である可能性は消えていない。疑いの目を向けるリリアに、裂けた口で、彼女は優しく微笑み返した。
「大丈夫です。私は……元々看護師だったので」
それはまだ、人間として生活を送っていたときのこと。エルゴールに目をつけられるよりも、もっと前のことだった。
紗希に伝えたのは、医療道具各種。それも多量だった。素人である紗希にも分かりやすい咀嚼した説明だ。彼女は、紗希から病院の部屋に安置されていた医療道具を手にすると、自分よりもリリアの処置を行った。
複雑な心境ながら、リリアは黙って治療を受けた。何がリリアを大人しくさせたのか。リリアにとって感じるものがあったのかもしれない。
医療に携わったといっても、医師ではない。せいぜい応急処置を少し上回る程度に過ぎない。だがそれでも、リリアの状態を改善させるには十分過ぎるくらいだった。
「あとはあなたなら、安静にしてるだけで大丈夫ですよ」
「あ、ありがとうございます」
リリアに代わり、紗希がお礼を言った。と同時に、彼女の体も、先程より血に滲んでいることが伺えた。
けれど彼女は、自分で出来る範囲すら処置を試みない。紗希は気になって尋ねる。
「……あの、次は貴方が……」
だが、彼女は首を横に振る。
「……このままでいいです。もう、疲れましたから」
「……え!?」
「自分の体は自分が一番分かるなんて、よく言ったものです。……今私が正気でいられるのは、ただの小康状態に過ぎません」
「……で、でも、治す方法だって……」
「……仮にあったとしても、私は……私は、たくさんの人をこの手にかけました。だから……」
「……っ。だから、このまま死にたいってことですかっ!」
紗希の怒声が飛ぶ。
「それも、仕方なかったんじゃないんですか。今のあなたを見れば、それくらい分かります。それに、犠牲になった人を悔やむなら、何か出来ることがあるはずです。死にたいなんて……そんなっ……」
紗希にも分かるはずだった。
今目の前の彼女は、単純に死にたいわけじゃない。ただ償いきれないと分かってはいるものの、償いに近いことをしたかった。それを今、生を手放すこととしている。そんなものは償いなんかじゃないと言いたい紗希だが、うまく言葉を見付けられない。
「……そう、ですね」
けれど、紗希が本当に伝えたかったこと、真意は確かに伝わっていた。
「こんなの、逃げてるだけかもしれない……」
そう呟いた時、彼女の体が崩れ始める。
「……体がっ」
「すいません。でもやっぱり、遅すぎたみたいです」
「……っ。こんなの……」
元々人間である彼女は、魔界の住人とは違い、肉体の崩壊は起こさない。けれど、長すぎた。彼女の肉体は、人間としての限界を、とっくに越えていたのだ。
「泣いて、くれてるんですか。こんな……私のためにっ……」
紗希は確かに涙を流す。それは言葉に出来ない憤りか。それとも死に直面しての悲しみか。いや、おそらく両方だろう。付け足すならば、何も出来ない自分の無力さに嘆いている結果かもしれない。
「紗希さん……。ありがとうございます……」
「……せめて、せめて名前を、教えてもらって……いいですか……」
「……私は、私の名前は……、桔梗です。それだけ、覚えています……」
「……桔梗、さん……。良い、名前ですね……」
そうだ。私の名前……。
静かに。
目に涙を溢れさせて。
彼女、いや桔梗は思い出していた。
「ききょう? 良い名前だね」
かつてそう言ってくれた少年がいた。
そしてこの身になってから名前を呼んでくれる二人目が……、今目の前にいる。とても赤の他人には見せられないだろう、泣き顔をして。
もっと早くに会いたかったかもしれない。そうすれば、いろんな話ができたかもしれない。
「紗希さん。あなたは、悔いのないように、生きてください……」
「……はい」
最後に見せた桔梗の笑顔は、満面のものだった。その一瞬だけは、裂けた口じゃなく、あれは、あれこそが、桔梗の……。
―本当の笑顔に他ならなかった。