5:名前Ⅸ
紗希は責めた。自分を。
何をやっているんだろう私は。そんな自責の念だった。ただ待ってるだけじゃ駄目なんだ。そう思っているはずだった。
けれど結果はどうか。心の奥底で、リアちゃんが助けてくれると思っていたんじゃないか。それだけは違うと思いたい。
紗希は自分が本当はどれだけ恐怖しているのか思い知る。普通の人間ならば致し方ない。クランツを含めた執行者が例外中の例外であり、魔界の住人に比べれば人間など脆弱な存在だ。
いや、だからこそもがく。何より紗希はこれ以上リリアの傷付くところを見たくなかった。その思いが、この時ばかりは恐怖を僅かに上回った。
「ウゴクナ」
吸い込まれそうな口々を魑魅魍魎は動かす。紗希は自分に言い聞かせる。臆すな。私でも勝てる。リアちゃんがそう言ったんだから。
「……して」
「……ナニ?」
「離してって言ってるの!?」
追い詰められて絞り出した気迫は、魑魅魍魎を相手にするには充分だった。
「ぅ、ぅあわぁぁあ……!?」
ドスの効いた声は途端になくなり、妙に高い叫びを上げながら、魑魅魍魎たちは一目散に散らばった。まさに蜘蛛の子のように散った。
身動きを封じられるほど、あれだけいた小さな鬼たちは何処かへと去ってしまう。予想以上にあっさりとしたものだが、紗希は呆けている場合ではない。
「そうだ。優子。大丈夫?」
急いで駆け寄る。膨張した魑魅魍魎に隠れて見えなかったため不安がある。だが特に問題は見られない。これでも目を覚まさないのが逆に問題だと言えるが、状況を考えればやはり都合が良い。次に紗希は身を翻し、リリアの安否を気にかけた。
「ごめんリアちゃん! 大丈……!?」
紗希は飛び出すようにして叫んだわけだが、すぐに自分の発言を後悔した。大丈夫なわけがないのは、リリアの肩を見れば一目瞭然だった。
それほどに肩の傷は酷く大きく、また二人の拮抗を崩す要因としても大きかった。
リリアは必死に避ける。猫になればスピードが上がるが、四足で駆けることになる。損傷した右前足では、それも見込めない。ズキッと頭に響く痛みが集中力を欠く。
肩の損傷が酷いのは、相手が口裂けだったためだ。尋常じゃないその大きな口は、小さなリリアの肩を覆うほどであり、右肩全体が痛みが走っている。
「……ハァ、ハァ」
容赦のない怒涛の攻撃が続く。近付き過ぎれば、今度こそ確実に肩を、いや下手すれば腕ごと持って行かれてしまう。ただ、距離を取って離れたところで、伸びる髪が襲う。離れ過ぎるなんてことになれば、理性のない彼女は、直接殺しやすい紗希を狙うだろう。
リリアはその極限状態で、紗希の無事を確認すると少しだけ笑うことができた。ならあとは、目の前の口裂け一人だと自分を奮い立たせる。
リリアは再び後ろを取った。そのまま風を撃てばいい。それですぐに終わる。そのはずが、リリアは攻撃に移ることは出来なかった。
「あ……ぅあ…………」
「ぁは、あはははあはあははあはははっははあはは!?」
本能による戦闘は、単なる猪突猛進ではない。戦うことを望んでいない彼女は、どうしても理性で制止をかける。戸惑ってしまう。言わばそれのみがなくなるようなもので、戦闘スキルはむしろ遠慮がなくなる分卓越していた。
そして今、ただ単純に攻めるだけではないことが証明された。もし彼女が、真っ直ぐな攻めだけを考えているならとても出来ない芸当である。仮に、いつものように躊躇していたのなら不可能な動きだった。
一度目に背後を取られた時は全く動けなかったが、二度目に後ろを取られると、彼女は硬質化した髪を後ろに伸ばしてリリアを仕留めたのだ。
一番即座に、有効な攻撃を今度はやってのけた。リリアの動きが鈍くなったのも要因だろうが、反撃に転じたのは、リリアの動きを予測した結果だと言える。
「……ぁ……ぅ……ぅあ、あぁああぁぁああ!」
一度捕らえた獲物を逃がすような愚かな真似はしない。素早い獲物ならなおのこと。
一瞬の隙が全てを決する瀬戸際だ。彼女はぐるんと首を回し、一本の髪で貫いたリリアを確認する。裂けた口がこの上なくつり上がった。そして、一斉に網羅した髪が、かくんと軌道をうねり、リリアに襲いかかった。
瞬間、風の刃を含んだ突風が巻き起こる。リリアの風爆だった。髪は全て吹き飛ばされ、腹を貫いたのも同様である。言ってみれば、乱暴に引き抜いたようなものだ。その根元である彼女は距離を取らされる。予想出来なかったためか、着地もままならなかった。
「っ……、はぁっ、ぅあっ……」
「リアちゃん!」
殺される一歩手前で何とか凌いだリリアだが、もう限界だ。鮮血に染まる体は痛々しく、何故まだ立てるのか、何故まだ戦えるのか不思議なくらいだ。
「っ、はぁ、……はぁ」
運が悪いのは、今の風爆で仕留め切れなかったことだ。彼女もまた立ち上がる。風爆を近距離で喰らったために損傷はあるが、切断した武器、「髪」もすぐに再生していた。
両者の軍配は素人目にも分かる。リリアに余力があるわけがない。紗希にだって分かる。このままではリリアは死んでしまうだろう。リリアの血に濡れる姿は、紗希に色濃く印象付けた。確信と言ってもいい。逃げるしかない。紗希はその考えに至って、リリアに訴えた。