5:名前Ⅵ
「この……」
いくら私でも我慢ならない。この人は何を言っているんだ。絶対に、許せない。
「落ち着け」
悔しい。もし私にも、特別な力があったなら一発くらい殴れたのに。そう思ってしまうほど頭に来ていた私の目の前に、ギルが手を割り込ませた。
「紗希が躍起にならなくても、こいつはもう終わりだ。そこの女にも裏切られ、今こいつに味方はいない。逃がすつもりもねぇ」
そう言ってギルは、背中に背負ったままだった優子を私に任せた。邪魔だからなとゆっくりと降ろす。優子は随分と深く眠っていて、幸せそうにも見える。
「く……」
一方男は苦々しく顔を歪める。図星なのか。とにかく追い詰められている事実に変わりはなかった。
「私も、許す気はない」
「ま、右に同じく」
リアちゃんもスカルさんも、いつでも戦えるといった風に構える。
「っ……はぁ……終わり……です。……ここまで……ですね……」
「終わり……? 俺が終わりだと? この俺が!? 俺を……このエルゴールを舐めるなぁ!」
「……!?」
エルゴールは弾けたように動く。右手に注射器を所持し、そばにいた看護士の首筋に向けた。
「全員動くなぁ!」
「……くっ……ぅ」
状況が急変する。エルゴールは彼女を人質として楯にした。どうすると悩むであろう場面で、ギルは実に冷静に述べた。
「馬鹿かお前。自分のコマだったやつを楯にしてどうするつもりだ?」
ギルには全く躊躇する気はない。いつでも構わずエルゴールを殺す気だった。どうしてそうなんだろう。ギルを止めようと、私が制止する言葉を口にするより先に、エルゴールは叫んだ。
「……くはは、別に人質じゃあない。俺が持っているこれも、殺すための毒なんかじゃないんだよ!」
そして、何の躊躇いもなく、エルゴールは彼女の首筋に、注射器の針を差し込んだ。
「かっ……ぁ……」
「さぁ! こいつらを殺せ!」
打たれた彼女は不自然なほど痙攣を起こす。エルゴールは何をした? 何を打ち込んだ?
「厄介な。恐らくは増強剤か何か。理性ある彼女では自分には従わないと。……本当の化け物にする気ですカ」
「中々の洞察力だ。相変わらずといったところかな、スカルヘッド君。俺が今まで暴走を抑える薬を提供していたんだ。ならその逆も、ご覧の通りだ」
「ぅあぁあ……あぁ」
苦しみ方が尋常じゃない。彼女は嘔吐を始め、のたうち回る。必死に何かに耐えるように、自分で腕を引き裂く。流れ出る血など構わない。
「早めに叩けば問題ないだろう」
ギルは誰よりも早く動いた。自制をかけて戦っている彼女は無視してエルゴールを狙う。だがギルの必殺ともいえる手腕はエルゴールには届かなかった。
「……!?」
「主は殺らせん」
いったい何処に潜んでいたというのか、ギルを真横から吹き飛ばし、そいつは現れた。
「ちっ……。何だこいつは」
不意打ちを受けたわけだが、ギルは問題ないように、受け身を取ってすぐに立ち上がる。その質問に答えるように、エルゴールが得意気に口を割った。
「くく、俺が作った最高傑作だ」
そいつは、今まで目にしたどの魔界の住人よりも不気味な存在と言えた。まず何より生きているのが怪しい。輪郭は不安定でゆらゆらと揺れている。かろうじて四肢が成り立っていることは分かる。あとはもう、黒い塊としか言いようがなかった。
「あぁぁぁ!」
「ぐっ……」
「ギル!」
そして動き出す。いや、動いたのは看護士の方だった。ギルの顔を掴んだらしく、そのまま床に叩き伏せる。
「くは、くはははは! そうだ口裂け。こいつらを殺すのがお前の役目だ。それがお前に課する最後の仕事だ!」
「主」
「ん? ああ行くか」
エルゴールは黒い塊から試験管のようなものを受け取る。何やら気味の悪い色をした試験管だ。
「マズイっ!」
と、スカルさんが何かを察してメスを取り出す。それをエルゴールに向けて投擲した。だがあっさりと黒い塊に遮られしまう。
「何処までも鋭いなスカルヘッド君。流石だが少々遅かったようだ。じきにイベントを見せてやるぞ」
その様子と言動で私でも理解出来る。
「まさかあれが……」
「……そうデス。培養したウイルスデスヨ」
スカルさんは直接駆け出した。暴走する彼女を無視してエルゴールまで一直線に向かう。けどそれでも、黒い塊はエルゴールのところまで行かせない。いったい何をしたのか分からないが、スカルさんは押し戻された。
「っ……」
「くはは、さらばだ諸君。最後は俺の勝ちだと決まっている」
「聞こえなかったみたいだからもう一回言ってあげる。許すつもりも、逃がすつもりもない」
「……!?」
隙をついてリアちゃんはくぐり抜けた。一瞬でエルゴールの懐へ入り込む。そして腕を振るった。いや、そう思わせたものの、寸でのところで振り抜けていない。
「俺ももう一度言おう。主はやらせん」
リアちゃんの腕は黒い奴から伸びた鞭のようなものが絡み、その動きを制限した。ぐんっとリアちゃんは引っ張られて私たちの方へ飛ばされてしまう。
「っと」
「紗希。ありがとう」
「どういたしまして」
うまく出来るか不安だったけど、何とか私はリアちゃんをキャッチすることに成功したようだ。リアちゃん自身は申し訳なさそうにお礼を言う。もちろんそんな申し訳なく思う必要なんかない。
「主。今のうちに」
「そうだな」
そうこうしているうちに、エルゴールたちは逃げる算段を企てる。ギルが理性をなくした彼女を弾いていち早く向かうが、黒いモノは部屋に安置された机やら器具やらを投げて障害を作る。
ギルがそんな程度でやられるわけはないのだが、逃げる時間稼ぎには有効だった。ギルが目隠しになった机を粉々にして視界が開けたときには、エルゴールたちは、背後にあった壁を破壊して外へ逃げ出ていた。
「俺は追うぞ」
「あっ、ぁあ!」
ゆっくりと彼女が立ち上がる。完全に暴走していた。
「紗希は私が守るから問題ない」
「えぇ、すぐに追いつきますヨ」
そしてギルは私を見据えた。あくまでもそう感じただけなんだけど、お前はどうなんだと言われている気がした。
「大丈夫だから。ギルお願い」
「あぁ。任せろ」
それだけ確認すると、ギルはすぐさま駆け出した。ギルなら多分大丈夫だと思う。私たちも彼女を止めなければいけない。
「あぁぁぁああ!?」
待ったはない。ギルの代わりに手短な標的を見つけると、彼女は躊躇なく襲ってきた。