5:名前Ⅳ
明るくなると、彼女は再び模索を始める。とはいえ、本当は悩んでいた。少年を助けるためには誰か別の子を差し出さなくてはならない。
だが、そんなことはもうしないはずだった。一度は決意したはずだ。また自分は犯してしまうのか。でもそうしなければ、少年は、あの子はきっと助からない。
ふと、子供を見かける。答えも出ないままに彼女は動こうとする。が、それだけで少年の無垢な笑顔がちらついた。
「っ……」
駄目だ。とても出来そうにない。だがやらなければあの子が危うい。彼女はどうすれば正しいのか、自分がやるべきことは何なのか。
分からない。答えが出ない。
結局、彼女はこの日も何も出来ないままに終わった。
苦悩する日々が続くかに思われた。少年を盾にされてまだ五日となる前に、彼女は再び男の元へと訪れることにした。
「くくっ、何しに来たんだ?」
男はさっそく問う。口角をつり上げるその表情から、分かり切っていることは明白だった。けれど彼女は律儀に答える。忠誠している表れを見せるために。
「私を……使って下さい」
「それは、どういう解釈をすればいいんだ?」
「そのままです。私が被験体になります」
苦汁の決断だった。考える時間もたいしてないなか、余計な犠牲者を出さず、少年を助ける方法はこれしか見い出せなかった。
「……ああ。被験体か。そういえば忘れていたな」
だがどうしたことか、男の発言は酷くいい加減なものだ。彼女が仕えてから今までになかっただけに、大きな疑問となる。
「お前に伝えるのを忘れていた。あれはもういい。もう済んだ」
「なら。あの子を早く解放……」
以前は早く差し出せと迫ったというのに、急遽態度を翻す男にはやはり理解し難いところがある。だがもういいというならば、願ってもないことだ。
しかし、そううまくはいかない。この男に狙いをつけられたときから分かっていたはずだった。この世界に、希望などありはしないと。
―そして彼女は疑った。
少年の解放を急かす言葉を吐くのを止めるほどに。目を疑った。その目に映る光景を、現実を疑った。
男は笑う。眼鏡を押し上げ、細いその眼光を覗かせ、より鋭くいやらしくつり上げた口を動かした。
「もう……終わったからな」
「……や、ああぁ、あぁあぁ、あぁあああぁぁあああぁぁあぁぁ!?」
手術台の上に転がっているのは……。
悲惨な姿へと変わり果てたのは……。
「綺麗な声は分かるから、多分綺麗なんだよ」
「あああぁあああぁぁあ!?」
駆ける。約束したはずだ。手は出さないと。それを。それを……。こいつは……。
かつて自分がこんな体になったのは、目の前の奴の仕業だと分かったあの頃のように、いやそれ以上に、彼女は殺意を露わにした。
「くはは」
気付いたときには、彼女は血を吐いていた。男を殺すだけなら、彼女でも造作ない。だがいつの間に用意したのか知らないが、黒い影のような「こいつ」が邪魔をする。
男には一太刀も、浴びせることすら出来なかった。
「よくやったカゲツ」
「もったいないお言葉」
「っ……ぐ……」
「さて、口裂け。危うく飼い犬に手を噛まれるとこだったがな。被験者が届くのが遅いのがいけないんだよ。目の前に良い素材があるから、我慢が出来なかったじゃないか」
男は悠然と彼女に近付く。壁際で寄りかかる彼女をよく見ようと腰を落とした。
「だが考えてみれば、お前を留めておくのに何もガキ一人に拘る必要もない。そうだろう? より犠牲が増えるかもしれないんだからな」
朦朧とする頭で、彼女は理解する。最初は薬を盾に、次に少年を、そして今は、男のもとを離れるというなら、少年のような被験者を限りなく使役するという脅迫。状況は変わった。仮に殺そうと躍起になったところで、守護すべき者が今はいる。
逃げられない。
彼女が辿り着いた答えはそんな陳腐なものだった。
ならば従う。いや、従うと見せかける。殺す隙が出来るまで。必ず機会があることを信じよう。
選んだ道は何処までも荊の道だった。
時に従い、犠牲を出さぬように計らい、殺す隙を窺った。
そして今、やっと、最後になるかもしれない好機が訪れた。
魔界中が恐れうるだろう処刑人が目を付けたのだ。いや正確には違う。殺すべき男自身が動いたのだ。最大の障害ともいえる処刑人を滅するために。彼女にとっての好機はそれから始まったと言えた。