5:名前Ⅲ
少年も、友達は少なくまた病院に通う必要があるため一人だった。親はどうしたのか聞いてみたが、触れられたくないのかはぐらかされる。少年は目は見えないけれど、彼女を知覚することは容易に出来た。
「お姉ちゃんは何て名前なの?」
「私……? 私は……」
ふと少年が尋ねた。名前。彼女は自分の名前など久しく使っていなかった。人間と、こんな風にまともに会話したのも久しぶりだ。彼女を従える男も口裂けとしか呼ばなかったから。
「私の名前は……■■■■■」
「■■■? 良い名前だね」
「……うん」
「お姉ちゃん。また泣いてるの?」
「泣いてないよ……」
見えていないのに気付かれるなんて、何だか悔しいと彼女は堪える。少年もそれ以上追求はしなかった。子供なりに気を遣ったようだ。
代わりに、少年は学校のことを聞かせた。学校の話を聞かせてもらえる。それは、彼女が考えもしなかったことだ。
何もかも諦めていた彼女は、以前なら有り得たことが今は何よりも嬉しい。彼女にとって心地好い時間が過ぎていった。
それから彼女と少年は、たびたび病院で会い、気兼ねなく話をするようになる。少年は大袈裟な調子で話を膨らませる。本当か疑わしい箇所も見受けられたが、そんなことは問題ではなかった。彼女にしてみれば、少年の大袈裟な話のほうが楽しめる。また彼女も、少し昔、まだ人間であったときのことを思い返して少年に聞かせた。彼女にとっても少年にとっても、かけがえのない時間であった。
「……くくっ」
少年と会うことが何回かあって、彼女は病院が寝静まる頃に呼び出された。
「子供の件はまだかかるか?」
用件は予測通りだ。いまだに献上していないのだから、催促が来ることは分かっていた。けれど彼女に焦りはない。もうこの男につかえるのはやめようと考えていた。少年と会ってから、彼女は人を襲っていない。襲おうとも思わない。
今はもう、暗く沈んでいた心は消えていて、安らかにさえ感じるほどだ。
「私はもう、貴方には仕えません」
彼女ははっきりと口にした。迷いはない。
「……それはどういうことだ?」
男は当然ながら問う。口にする言葉自体は軽いが、調子は随分と重くのしかかる。だが、彼女はそんなプレッシャーに屈することはない。
「そのままの意味です。もう私は人を殺したくありません」
「あぁああぁぁあ!?」
男は急に立ち上がる。
そして、机に並べてあった雑貨類を次々に落としていく。書類は舞い、ノート型のパソコンもガシャンと落ちる。整理された机上、及び周辺は乱雑となる。
その突然な発狂にも彼女は冷静に眺めていた。
「何故だ! 何故お前は今頃そんなことを言う。今までどれだけ殺してきたと思ってる! 今更帳消しに出来ると思っているのか!」
「思っていません。けれど私は、もうこれ以上犠牲者を出すよりはいいと……」
「なら薬は! お前は俺が作る薬がなければ生きていけない体なんだぞ!」
男は切り札を持ち出す。彼女が抜け出せないように束縛の鎖をちらつかせた。だが彼女はなおも落ち着いていた。
「薬は……いりません。私はたくさんの人たちをこの手にかけました。なのに、私だけが生きているなんて……。そんなの、まかり通るわけが……」
「……く、くくっ、くははは……」
男は急に声に出して笑う。本当にこの男は感情の起伏が突然で理解出来ないところがある。
「くはははははは……はははははっはははははは!?」
だが今回のはさらに異常だ。何故笑うことがある。何故笑うことを止めない。さすがに彼女も不気味に感じたときに、男は紡いだ。彼女にとって、これ以上ない最悪の言葉を。
「あのガキに何か吹き込まれたか?」
「……っ」
その時、彼女の世界が反転した。この男に恐れるものは何もないと臨んだ彼女は一瞬で消え去る。呼吸の仕方を忘れたように胸が苦しくなり、声を出そうにもうまく出せない。
「くく、俺が何も気づいていないと思ったか。念のために手を打っておいて良かった」
「あの子に何をっ」
「くくっ、さっきとは打って変わって冷静じゃなくなったな」
「何をしたと聞いている!」
彼女はこの時、忠誠を誓わされて初めて敬語を止めた。心に余裕などない。焦りしかなかった。
「うるさいぞ。別にまだ何もしていない。少し眠らせてるだけだ。だがまぁ、お前が止めたいというなら仕方ないな」
男は随分と恍惚で逃げ道を塞ぐ。単刀直入ではないが、婉曲な表現ですらない。男は言う。少年の命は保証しないと。
ギリッと彼女は食いしばる。選択の余地があるわけがない。
「……わかり、ました。私はこれからも……貴方に従います」
「くくっ、分かればいい」
「だから、あの子を自由に……」
「いや駄目だな。俺が言ったようにガキを連れてこい。そのまま逃げられたら困るからな」
「そんな……」
彼女は納得がいかない。話は終わりだとみなす男に食い下がろうとするが、邪魔が入る。
「話は終わったはずだ。もう出ていけ」
いったいこいつは誰だ。
いや何だ。
二メートル近い影が彼女を妨げる。ざわざわと輪郭が不確かで普通じゃない。すぐに魔界の住人だと分かるが、彼女にとってそんなことはどうでもいい。
「邪魔をしないでもらえますか」
そう言って押しのけようとしたところ、彼女は逆に吹き飛ばされてしまう。
「かはっ」
何が起こったのか分からない。ただ腹部に衝撃を受けて、背に壁が当たるまで後退させられたことが分かった。
だがそれだけで、自ずと解答がはじき出される。「こいつ」には勝てない。彼女がそんな絶望の淵に立たされたとき、後押しするように男が言葉を発した。
「それ以上何か不満があるならあのガキを殺すぞ?」
そう言われては、彼女に言えることはもう何もなかった。ただ、大人しく引き下がるわけにもいかない。
「なら、あの子には手を出さないと約束してください」
「ああ、いいだろう」
男は随分あっさりと承諾した。殺すことが目的ではないからだろう。彼女もそれだけを確認すると、足早にその場を後にした。