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夏の異変

 チャイムが鳴り響く。

 扇風機は首を鳴らしながら、温風を室内に撒き散らす。

 寝ぼけ眼で顔をずずずと横に向け、デジタル時計を見やった。時刻は八時を回っている。

 また、チャイムが鳴った。

 微睡から徐々に覚醒して、上半身を起き上がらせる。母を呼ぼうと思ったが、既に仕事場へ行っているのだろうと考え直した。

 何だかとても疲れていたし、頭の芯が痺れているような気がする。

 それもそうだ。昨晩、俺は遅くまで進路について悩んでいたのだから。

 こんなに悩むのは受験以来で、元々あまり使わない頭を酷使してしまうと寝起きが悪くなってしまうのだ。

 保育士を諦めるか、否か。

 未だに答えは出せていない。

 またまたチャイムが鳴る。

 布団の上で一、二分ほど体を充電させて、のそりと立ち上がった。

「はいはい、今行きます」

 遮光カーテンの合間から、強い陽射しが入り込んでくる。

 どうやら、今日もまた夏は元気なようだった。


「……なんだ、これは」

 あまりの出来事に驚愕というか、呆然としてしまう。

 ぐしゃぐしゃになった髪に手を入れて、がりがりと髪を毟った。

 チャイムが鳴る玄関を開けた先に、人は誰もいなかった。

 その代わり、玄関の前に大量のお菓子――ほぼチョコレートだろう――が山積みされていたのだ。

 強烈な甘い匂いが鼻孔を突いてくる。さらに太陽光に晒されたその山は、半分ほど融解しかけていた。

 このままでは、蟻の餌食になるがオチだろう。

 悪戯にしては手が込み過ぎている。かといって、配達された物とは思えなかった。

 道路へ首を伸ばして左右確認する。母方祖父の遺産である古民家に母と二人暮らししているのだが、開けた玄関から先の道路は一方通行となっている為、隠れる場所はどこにもない。

 近所のお爺ちゃんがひとり、呑気に日向ぼっこしているだけだ。佐々木老人だ。

「佐々木のお爺さん」

 声をかけると、老人は小刻みに震えながら柔和な笑みをこちらに向けてきた。

「おや、おはよう大吾くん」

「おはようございます」

 挨拶も簡単に済ませて、俺は俺の家を誰か訪ねてきたか聞いてみた。

「うーん……あー……」

 老人は空に顔をあげて、小首を傾げる。

「見なかったと思うけどねえ。どうしたんだい?」

「そうですか」目撃者はないということらしい「妙な質問をしてすいませんでした」

「いえいえ」

「それでは良い一日を」

 犯人捜しは後回しだ。

 会話を早々に切り上げた俺は、このチョコレートの山を処理する為に奮闘することにした。食べ物をゴミ袋に入れてしまうというのは心苦しいが、こういう状況なれば仕方ない。何より母が帰宅した時にこの惨劇を見れば激怒してしまうだろう。

 手や顔がチョコだらけになりながらも糖分の山をゴミ袋に入れて、玄関先を丁寧に水洗いしていく。

 その最中、俺は不思議な物を見つけたのだ。

「これは……」

 玩具の指輪、だろう。俺の太い指には嵌りそうにもない小さな指輪だ。

 乳幼児が好みそうな、赤く輝く宝石が太陽に照らされてきらめている。犯人が残した物だろうか。ならば、犯人は子連れということになるのだろう。まさか幼児がこんな真似するわけあるまい。

 水でチョコを洗い落として、証拠を回収する。

 作業が全て終わる頃には、昼はもう過ぎてしまっていた。


 その後も散々であった。

 道を歩けば玩具が置かれてある。それも一度や二度ではない。まるでこちらを先回りしているかのように、ぽつんと玩具が配置されているのだ。その玩具もまた規則性のある物ではなく、ファーストフードのサービス品からフランス人形など多岐に渡る。おそらく俺が見つける前に誰かに拾われた物もあるだろう。

「……新手の刺客だろうか」

 日課の散歩を行いながら、俺は顎に手を当てた。

 何かのメッセージなのは間違いないだろう。

 しかし、このような金に糸目もつけないようなやり方を行うなど、相手は底なしの資金力を保持しているのだろうか。

 いくら考えようとも、俺の煤けた脳では全容が掴めない。


 誰もが口を開けて酸素を乞うような、気怠い夢のような夏。

 喉の奥へ灼けた大気は流れていって、じゅわっと肺へとろけていく。

 内側から焦がされる、静かな夏。

 それは本当に、街は昼間だのに深海にでも沈んでしまったと勘違いしてしまうくらい静かで。

 世界は真白の陽光に照らされて、スモークでも焚いたように足元は白んでいる。

 意識を保とうと思っても無駄だ。

 あまりの暑さに頭蓋を押え込まれてしまって、誰もが頭を垂らしてしまう。

 人々が腐乱死体のように、何かを求めて彷徨う白日。

 稀にすれ違う人がいたとしても、振り返り見ればどこにもいない。

 この夏は異常だと、誰も言えない。あまりの暑さに口にすることが出来なかった。


 ――と、和服の幼児が、歩道の真ん中に立っていた。


 それは見覚えのある少女。

 陽炎のように揺らぐ夏の幻。

 否。

 彼女は、そこにいた。

「なんで、いつもひとりなんだ」

 少女は笑んで、恥ずかしげに手を後ろに回している。

「■■■■■」

 聞き覚えのない言葉だった。

 異国の言葉だろうか。確かなのは、英語ではない、という事だけだった。

「お母さんは、どこ行ったんだ?」

「■■■?」

 少女は首を傾げる。

「■■、■■■■■」

 そう口を尖らせて、彼女は小さな指を空へ、真上へと向けた。

 釣られる形で、抵抗はあったものの、俺は視線をあげてしまう。

 降りしきる陽光は強くて、手を翳して目を細めないと空は見えない。見ることは出来ない。

 綿菓子じみた入道雲が青を背景に鎮座している。

 そして、それは徐々に真ん中から切り裂かれていく。

 巨人が扉をこじ開けていくような緩やかさで。

 入道雲の奥に潜んでいたのは『目』だった。

 巨大な『目』だ。おそらく東京タワーよりも大きいだろう。

 それはじぃっと、大空から全てを見下ろしている。

 あれも夏の幻――幻覚なのだろうか。

「■■■!」

 だらけた人差し指が、誰かにギュッと握られる。

 顔を俯かせると、俺の指を両手で握る幼子がいた。小さな双眸が曇りなく俺を射抜いてくる。

 彼女はニコニコと微笑んでいた。何が嬉しいのだろう。それは知らないが、思えば俺は誰かにこんな笑顔を向けられた覚えはない――そう思ったせいだろう。

 俺は彼女の指を握り返していた。

「■」

 幼女は俺の指を何度か引っ張る。

「どうしたんだ」

 そう言うと、視界が翳った。

 何となしに上を見やり、絶句する。巨大な目から巨人の腕と見紛うほどの野太い触手が、俺らの上空で蠢いていた。

「なっ……」

「■■」

 言葉を失った俺の指を、彼女は何度も何度も引っ張った。

 その間にも触手は緩慢とした速さで俺らへと迫ってくる。

 比例して意識が覚醒していく。霞んでいた視界が炭酸水でも被ったかのように、サァッと広がっていく。

 これはなんだ。

 危ない。

 危ない所じゃない。

 その触手が何か、目的は何なのか。そんな細かい事を考える前に、俺は幼女を小脇に抱えて走り出していた。

 駆けながら上空を睨みやる。

 人の速度なんて大したことはない。百メートルも走れば速度も落ちてしまうのだ。巨大な物体と追いかけっこなど、無駄に等しいだろう。その証拠に、触手はあっという間に俺の真上へと到達する。

「■!」

 俺の小脇で幼女が叫ぶ。

「すまんが静かにしていてくれ!」

 反射的に声を荒げてしまう。

 これは何かがおかしい。

 この世界に異変が起きている。

 すれ違う人々がいるのだが、誰も真上に存在する触手に気付いていないのだ。幼女を小脇に抱えることを咎める人物すらいない。

 いったいどういう事なんだ!

「ぬっ!?」

 足が空を切る感覚に囚われる。

 それだけじゃない。もう片方の足も地面から離れているではないか。

「何のまやかしか、これは……!」

 俺の体が宙に浮いている。

 体育や助っ人として参加した柔道でも浮かされたことのない俺が、両足含めた全身、ふわふわと浮いているではないか。

 これでは小脇に抱えた子供を守れない。

「くぅ!」

 自分の胸の内に幼女を抱きとめる。

 事態の急変ぶりに脳が追いつかないが、これはどうも命に危機に瀕されていると判断したのだ。

 何が何だかわからんが、この女の子だけは……!

 ギリッと奥歯を噛み締める。

 身体は空へ落ち続ける。もう建物の二階を超えて、一軒家の頭は容易に望める位置だ。

 だというのに、俺の姿を見て悲鳴をあげる声ひとつない。

 何がどうなっているんだ。

 身を捩じろうが全身に力を込めようが、浮いている肉体は重力に逆らって柔らかな速度のまま空へ落下する。

 触手が近い。

 くそったれ。

 そんな風に毒づきながら、俺の意識は夏の白に染まっていった。

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