大吾、参上
摂氏三十度以上。七月下旬、本日は猛暑日となるので気をつけましょうと、ニュースキャスターが言っていた。
確かに大気は手に取れそうなほど暑く絡み付いてきて、呼吸する度に肺が灼ける。あちこちから流れる蝉の声に鼓膜は塞がれて、濃い緑を抱いた青い空が視界を占領する。外を歩く人は少なく、車ばかりが横を過ぎていく。学生はおろか、取引先と連絡を取るサラリーマンの姿すら、どこにも見えなかった。
殺人光線から逃れる為に、みんな屋内に逃げているのだろう。
こんな夏日に外を歩く方が珍しい。
オアシスじみた公園内では、幼児を遊ばせる母親たちや売店の前で井戸端会議をしているおばさんたちがいる。散歩しているお爺さんも、暑そうに額を拭っていた。
――青い風船が飛んでいく。
彼らに等しく真昼の太陽がぎらぎらと降り注ぐ中、賑やかなのにどこか奇妙な静けさに覆われた世界で、青い風船が飛んでいく。
ふわふわと、青に光を反射させて。
夢のような光景だ。青い空と真白の入道雲へ手を伸ばすように、ふわふわと緩やかな風に乗って上昇していく。
「お母さん、僕の風船がぁ」
小学校低学年だろうか。ふとした拍子に手を離してしまったのだろう。男の子が風船を指さしながら大きな瞳に涙を溜めている。
母親は、あらら、と困ったように微笑んでいた。もうただ手を伸ばすだけじゃ届かない場所にあるし、そう思っている間にも風船は空へ空へと昇っていく。
――青い風船が飛んでいく。
こんな熱い陽射しのせいだろう。
いつもなら無視しているだろうに、駆け出していた。
身体は止まらない。熱されたフライパンのような地面の上を、陽炎がもやもやと揺らめく。熱気をかき分けながら走り、俺はぐっと身を屈めて飛んだ。
飛翔する大きな体は、もう届かないだろうと思われた風船の紐を見事に掴み取る。
ずずん、と地面に着地した。
薄く砂塵が舞い上がる。
衝撃に足の裏が痺れたが、風船の紐は手放さない。
振り返れば、唖然とした表情の母子がこちらを見やっていた。
俺は二人に近づいて、ずいっと男の子に風船を突きつける。
ひっ、と母親が小さな悲鳴をあげた。母性本能だろうか。男の子を守るようにサッと抱きしめる。男の子もまた、恐怖に体が硬直しているようで、空を指さしたままカタカタと震えていた。
「……」
思えば、いきなり身長190センチの男が走ってきて風船を掴んだのだ。驚くのも無理はないだろう。
しばし考え込んで、俺はニッとはにかんでみた。
子供は泣いた。
「あ、あっ、ありがとうございます」
慌てた母親が俺から風船を引ったくり、号泣する子供を抱きかかえながら逃走してしまった。
手から風船をひったくられた形でその場に取り残されて、姿が小さくなっていく母子を見送る。突然の反応で、見送る以外他なかったのだ。
「……やだ、子供が泣いてたわよ」
「……子供から風船奪おうとしたんじゃないの」
「……最低」
どこかから、そんな小声ならぬ小声が耳に入る。
こんなにも暑苦しいというのに冷や汗が流れてきた。
俺は居所を失くした自分の拳を握りしめて、そそくさと公園から退散した。
これだから、子供が苦手なのだ。
そう、俺は子供が苦手だ。
嫌いというわけじゃない。赤子は泣くのが仕事だと考えているし、小学生は地域の人々と手を組んで見守るべきだと思っている。
それでも、俺は子供が苦手だった。
俺は生まれつき、顔が怖いのである。強面というのだろう。高身長ということも相まって威圧感のあるこの姿は、歴戦を潜り抜けたヤクザ顔と、高校の友人は批評してくれた。確かにそうかもしれない。街中を歩けば不良どもに因縁をつけられ、自転車で走っていれば警察官に職務質問される。女生徒に告白しようと意気込めば、好いていた子が裏で「あいつ怖いよね。近づきたくない」と笑っていた。また廊下の曲がり角で女生徒と遭遇しただけなのに悲鳴をあげられたこともあった。もちろんそれは、ちゃんと謝罪されるのだが。さすがにお化け屋敷でお化けに驚かれた時はへこんだ。
そのせいだろう。子供は俺を前にすると泣いてしまう。
いつからか、俺は子供を避けるようにして生きてきた。
道を歩いて子供の笑い声が聞こえれば、遠回りになろうが路地裏へと身を投げる。一本道で小学生の集団が迫ってくれば、電柱の裏に巨体を潜めて息を殺した。
俺は子供が好きだ。一時期は保育士になろうと思っていたくらいに。
子供が悲しげに泣く姿を見ると、胸が痛む。
だから、俺は子供が苦手だった。
充分に公園から離れた所で息を吐き、散歩を再開させる。
既に体は汗だくだ。大きく深呼吸して呼吸を整え、自販機にお金を投入する。このまま水分補給を怠っていると、ミイラにでもなってしまいそうだった。
「どうしたもんか」
嘆息して、がこん、と転がってきたお茶を手に取る。
ごくりと飲めば、冷えた感覚が喉を通っていく。身体の芯から生き返っていく心地だった。
だというのに、
「どうしたもんか」
同じ言葉を吐き出してしまう。
先ほどの母子逃走事件もなかなかショックだったが、それよりも頭からこびりついて離れない事柄がひとつある。
先日、教室でのことだ。白い用紙を配りながら、担任はこう言った。
「週明けにこの進路希望を提出すること。大事なことだから、しっかり考えてこいよ」
第一から第三まで、進路希望を書けと担任は言った。
その用紙は、未だに真っ白のまま自宅の机に放置されている。
「進路、か」
近くの石段に腰を置いて、膝を抱えたままぼんやりと空を眺める。
保育士か、と呟く。
のんびり気ままに日常を過ごしてきた俺にとって、決断するというのは難しい問題だった。
頭を冷やそうと散歩に出たら、まさかの猛暑日で余計に脳が焦がされる始末。
このまま白色で提出してしまおうか。
そう考えていた矢先だった。
巫女服だろうか? やたら着飾られた和服の未就学児――おそらく二歳だろう。女の子だ――が、よたよたと頼りない足取りで歩道を歩いている。暑さにやられてしまっているのだろうか、その暑苦しそうな格好のせいだろうか知らないが、その後ろ姿は今にも倒れそうだ。二つに結った栗毛の小さなおさげも、力なくだらりと垂れている。
親はどこにいるんだ。あんな幼子をひとりにして。
俺は周囲に視線を散らす。だが、親の姿はどこにも見当たらない。
もしかして逃げ出してきたのか?
ざわりとした、毛が逆立つような嫌な感覚が背筋に走っていく。
自然と腰が浮いた。
幼児に信号機や車道という概念は理解できていないのだろう。その子はふらふらと、熱気に流されていくように車道へ身を寄せていく。
気付いた時には、身を投げ出していた。先ほどの母子とか、嫌味とか、全部頭の中から吹っ飛んでいる。よろよろと車道へ向かう幼児。買ったばかりのお茶も地面に捨てて、全力で体を前へ押し出していく。
夢中だった。
和服の幼児が、とうとう車道へ出てしまう。待ってましたと言わんばかりに、車が奥から迫りくる。
「ちょっと待った!」
幼児は身を竦めて、こちらへ振り返る。単に驚いただけだろう。その大きな瞳が、俺を見やった。
運転手は幼児が見えていないのか、速度を緩めることなく幼児へ車を走らせていく。
間に合うか?
おそらくギリギリだ。
俺は歯を食いしばって、鼻息を振り絞り、全身全霊を込めて地面を強く蹴り出す。
それは一瞬だった。ぼんやりとしていた女の子を抱え込む形で、その小さな体を掬い上げる。
クラクションと、アスファルトを削る甲高い音が鳴り響いた。
強烈な熱が、俺の全身を擦っていく。
頭は真っ白になっていた。
「馬鹿野郎! 気をつけろ!」
そんな罵声を背中に浴びせられて、再び車は発進していく。――そんな音が聞こえた。
破裂しそうな心音。状況がまだ理解出来ていない。
たぶん、俺は助かったのだろう。
「ニーニ」
俺の胸内から、そんな可愛らしい声が流れてくる。
「ニーニ」
見やると、しっとりと額まで汗ばんでいる幼子が、こちらに微笑んでいた。
いひひ、と笑っている。
その笑顔に、思わずこちらも微笑んでしまった。
俺は和服の幼女を抱いて、車道から歩道へ戻っていく。
安全な場所でその子を下ろして、俺はしっかりと問いただした。
「君、お母さんは?」
「ん?」
と、幼女は首を傾げる。
「えっと、お母さ――」と、俺はここで気付く。
彼女の目は、綺麗な碧眼だった。
もしかして、彼女は外国人の子供なのだろうか。思えば、その栗毛も日本人の物とは思えないほど艶やかな色をしていた。
しばし黙考して、ううん、と喉を鳴らす。
「マ、ママドコ?」
眉をひそめて英語風日本語で再度問うも、彼女はキャッキャッと喜ぶばかりである。
やっぱり子供の笑顔って可愛らしいものだ。見ているだけで、こちらも笑みをこぼしてしまう。
いやいや、と首を横に振った。
まずいな、とひとりごちる。
この様子では、母親のことや、どうしてここにいるのか聞き出すことは不可能だろう。いくら周囲を見やろうが、外国人の母親はおろか、人の姿さえも見えやしない。ここで俺が探し回るよりも、交番を訊ねて幼女を預けるが正しい判断か。そうだ、俺はこの子の名前すらもわからなかった。
「名前、何かな? 俺、いや、マイネームイズ、城岳大吾……じゃなくて。ダイゴ・ジョーガク」
と言いながら幼女に目を向けると――消えていた。
そこには誰もいない。
「ちょっ」
愕然とした。子供は一瞬でも隙を見せると消失するという噂は本当だったのだ。
その後、あまりにも大声で探し回ったので近所の奥様方に呼ばれた警察に補導されてしまったのだが、結局はいくら訴えても警察官は和服幼児の存在を信じてくれることはなく、またあの小さな女の子も見つかることはなかった。
問題は、その翌日に発生したのである。
気長に更新していこうと思います