―反噬 ハンゼイ―
暗く閉じられた黒の部屋を月の光が僅かに照らしている。
そこに朧はいた。壁に体重を預け、疲れたように肩を上下させながら座り込んでいる。
妖の牙に抉られた横腹からの出血は何とか止めたものの、どうやら血を流しすぎたらしい。目の前が霞み、音は壁を一枚隔てたかのように遠い。体中が冷え切って呼吸をすることすら辛く感じる。
当然と言えば当然だ。大蛇との戦いで疲労があったというのにその状態のまま数十匹の妖と怪我を負いながらも戦ったのだから。本来ならば死んでいても可笑しくはない。
「――…朧様」
聞き慣れた声が何処かから聞こえてくる。
この声は、そう。幼い頃からずっと傍にいた、男のもの。朧が唯一、安心して背を預けられる人の声。
「……た、つ…」
立ち上がろうとして、力が抜ける。止血をしたとはいえ傷が完全に癒えたわけではないのだ。動かなくても酷く痛む傷を負いながら立ち上がろうとしたならば、それ以上の激痛が走るのは当たり前のことである。朧は小さく呻くと右の手で反対の腕を掴んだ。痛みに耐えるように力を入れられた指先が白い肌を傷つける。ぱたぱたと零れ落ちた真紅の血が床を汚した。
「龍…っ、城、は……どう…なった……っ」
途切れ途切れに紡がれた言葉に龍と呼ばれた男は無言で返し、痛みに苦しむ少女を抱えた。月の光に照らされた男の大きな体躯には全身に無駄なく筋肉がついているのがわかる。褐色の肌に光を反射する銀髪が良く映えていた。
男は朧が座り込んでいた部屋の更に奥――月の光さえ届かない暗闇の部屋へと入ってゆく。
その部屋に敷かれた布団へ朧の小さな体を横たえると、男はそこでようやく能面のようだった顔に表情を出した。
「まったく…。あなたはいつも一人で何もかもを背負おうとする。城の心配よりまずはご自分の御体を心配なさってください」
呆れや怒り、安堵の感情が綯い交ぜになって、ため息として外へ出る。これだからこの人から目を離せないんだ。一人にさせてしまうと何を仕出かすかわかったものではない。
痛みで寝付けそうにもない状態の朧を一瞥し、懐に忍ばせてあった睡眠薬を取り出すと、か細い呼吸を繰り返す口元に布で包んであったそれを軽く押し当てる。抵抗する力すらない様子の朧はそのままゆっくりと瞳を閉じ、意識を遠のかせながら考えていた。
――…何故。
何故、龍はあんなにも切なげな色の瞳をしていたのだろう。
今の朧にそれを知る術はない。
********
微かに聞こえた金属と金属がぶつかり合うような音。
その音で目を覚ました朧は横たわったその場所から見える小さな窓の外の景色を見て瞠目した。
あの、大蛇を葬ったときのような赤と鳥のような姿をした妖とそれの攻撃を防いでいる龍の姿が見えたからだ。
慌てて起き上がろうとして腹から全身に激痛が走る。自然と痛みの原因に目が向いて、真新しい包帯に気がついた。
どうやら眠っている間に龍が換えてくれていたらしい。朧が巻いたときよりもずっと丁寧なそれに手を添えたそのとき、外から聞こえた叫び声。
「朧様っ!」
龍が叫んでいるのは自分の名前だ。けれど窓から見えていたはずの龍の姿が見えない。大蛇を葬ったときのように赤い夕焼け空が見えない。何故ならそれは、先程まで龍と攻防を繰り返していた鳥型の妖が朧のいる部屋に――窓に鋭い嘴を向けて風のように飛んできたからだ。その妖が窓いっぱいになるまで近づいていた所為で、何も見えなかったのだ。
今の朧は戦うどころか逃げることすら出来ない。剣は手の届かない場所に置いてあるし、体を起き上がらせるだけで引き裂かれるような痛みが走るのだから。
「くそ…ッ」
窓から影のように妖が滑り込んでくる。動かない朧の体を目掛け剣のように鋭い嘴が迫る。
目と鼻の先。
雷が空を裂くような音がして、妖の体が部屋の壁に叩きつけられた。
右手に青白い線のような光を纏わせて朧が上体を起こし、苦痛に顔を歪める。妖の体が叩きつけられたのは右手の光が関係しているらしい。
「さすがにこれは……きつい、か………っ」
痛みに耐えるように身を丸める。その顔色は、まるで死人のように色が失せていた。
「朧様! ……あとは私がやります、朧様はそのまま、絶対に動かないでください!」
妖と戦っていたときとは比べ物にならないほど落ち着きをなくした龍が叫ぶように言う。それほどに朧の状態は危険なのだ。じわりじわりと真白の包帯に滲む赤が濃くなるにつれ朧の意識は遠く、どこかへ飛んでいきそうになる。その度に朧は自らの手首に爪を立て、その痛みで今にも途切れそうな意識を保っていた。
「朧様…っ」
壁に叩きつけられ動かなくなった妖を手にしていた剣で貫き殺した龍が、常に穏やかなその瞳に明らかな焦りの色を滲ませ走り寄ってくる。
血の滴る細い手首を小さく震える手のひらで痛いほど強く掴んで、龍は。
迷子になってしまった幼子のような表情で。
焦りと哀しみと苦しみと切なさとたった一つの絶対の誓いをその瞳に綯い交ぜにして。
手にした剣で、朧の胸を貫いた。
********
満月が輝く静かな夜だった。
まだ十にもなっていないであろう少女が、妖と呼ばれる人間に危害を加える異形のものに殺されかけていた青年の前に現れたのは。
―――しゃん。
自らの背丈よりも大きい剣を何の苦も無く操るその少女は何の躊躇もなく、剣を振りかぶった。
「――もう、お眠り」
妖を倒し葬ることを役目とする妖葬師しかできないはずのそれ。妖の躰を、魂を昇華させるその術。子供特有の甲高い声が妖を眠りにつかせる為の言葉を紡ぐ。大人びた表情をした少女は青年を一瞥し、困ったように眉根を寄せた。
子供というには無邪気さの欠片もなく。大人というにはその姿はとても幼く。
「お前……何だ?」
人というにはあまりにも美しく。妖というにはあまりにもかけ離れていて。
まるで――まぼろし。
「朧。私は、朧だ。――お前は、名が無いのか」
少女の言う通りだった。青年には名前というものがなく、帰る家も待つ家族すら存在しなかった。
青年にとってそれは当たり前のことだったし、名前がなくとも何の苦労もなかったから必要を感じたことすらない。
「――ならお前は今から龍だ。私の名から月を取ったこの字が、お前の名だ」
がりがりと剣の鞘で均された地面に文字を描く。月明かりに照らされたそれは、まるでその字自体が輝きを持っているかのように光り輝き、とても眩しかったのを憶えている。驚いたようにその字を見つめ続ける青年を――龍を見た朧がとても穏やかに笑んだのを憶えている。憶えている。憶えている。
まるで昨日のことのように、あの夜のことは全て思い出すことができる。
雲の数から、虫の鳴き声まで、全て。
あの日のあの夜からあの人は龍の全てだった。全てをかけて守らなければならない人だった。
――それが覆されたのは、ほんの少し前。
たった一人の、名をくれたあの人以上に大切な存在ができたのは。
全てをかけて守りたいと思った。この人の為ならば自分は幾らでも傷つくことができると、そう思った。
たった一人の、大切な大切な女性だった。
だから。
――――だから。
********
口元から零れた紅い血は色を失くした朧の顔に良く映えた。
「…………ッ」
声にならない叫びが喉を迫りあがる熱さに途切れる。血を吐いて倒れた朧に笑みを浮かべ、龍は立っていた。
口元だけを笑みの形に歪ませ、瞳を苦しみと哀しみで揺らしながら、龍は立っていた。涙は――出ない。出るはずもない。何度も何度も夢の中でここまでの流れを繰り返してきたのだ。絶対に失敗しないように、絶対に涙を零さないように、絶対に――大切なものを守る為に。
「こうするしか、なかった。こうするしかなかったのです。こうするしか、捕えられたあの人を救う術がなかったんだッ!!!」
龍は泣き叫ぶように沈み始めた夕陽の中で吠えた。
懺悔するように、後悔を振り払うように。苦しかった。哀しかった。夢の中で枯れ果てたはずの涙が零れそうになる。
ああ。早く行かなければ。あの、血で汚れきった城に大切な大切なあの人が捕えられている。自分の助けを待っている。
龍は朧に背を向け、歩き出した。
もう二度と戻ることのできない道を、歩み始めたのだ。