反―反逆 ハンギャク―
辺りは全て炎の赤で埋め尽くされていた。
赤の中心にいるのは二つの頭を持つ大蛇と、今はもう炎の海となってしまったこの町の長である。
二つ頭の大蛇は片方の頭の瞳の色が赤く、もう片方の頭の瞳が青かった。だが、青いはずの右目は長剣が突き刺さり真っ赤な血を溢れさせ、成人男性を軽く飲み込めてしまいそうなほどに大きな口は真紅の炎を吹き出し、長い胴体を鞭のようにしならせながら、怒り狂ったように暴れていた。
激しく風を斬る音。
「……ぐっ…!?」
勢いよく振るい上げられた大蛇の尾を全身に叩きつけられた彼はありえない方向に体を曲げて、そのまま地面を抉るようにぶつかった。
大蛇の体の中で最も細い部分だとはいえ、それでも大木程度の大きさは軽く超えているのだ。満身創痍で立ち上がることさえ精一杯であった彼でなくとも、そんなものを喰らってしまえば普通の人間なのであれば、ひとたまりもない。
「く…そっ……あん、な…妖に……ッ…!」
霞んだ視界に映る赤を見て、彼は涙を流した。
あんな妖に大切な家族や友人、それにこの町の住人達を皆殺しにされて、それなのに自分は青い右目一つを潰すことしか出来なかった。それが悔しい。あの人たちの仇をとれない自分の弱さが酷く憎い。そして今自分がその妖に殺されかけていることが辛い。自分は無力なのだと認めてしまうのが、何より怖い。
「…ぅ…」
音が聴こえない。体中の感覚が無い。ただぼんやりと、憎い大蛇の尾が自分の体を貫こうと振り下ろされているのが見える。
悔しい悔しい悔しい悔しい。憎くて憎くて仕方ない。
―――しゃん。
鈴が鳴るような小さな音。
音が聴こえないはずの彼の耳に届いた、脳裏に響く澄んだ音。彼は荒れていた心が落ち着くのを感じた。
―――しゃん。
彼が最期に見たものは、月のような光を纏いながら大蛇の尾を斬り捨てた、黒髪の少女だった。
********
長い黒髪を靡かせながら、少女は歩いていた。
王の為にと無駄に金を注ぎ込まれた豪華絢爛な城には似合わないぼろきれのような羽織、見た目より動きやすさを重視した服装の少女は横を通る者達に顔を顰められているのに気付いているのかいないのか、ただひたすらに無表情のまま歩を進める。
そして、この城の中でも特に豪華に飾られている部屋の前で立ち止まった。
「妖葬師の朧です」
分厚い扉に阻まれてくぐもった声が部屋に入るよう命じる。朧と名乗った少女は命じられたように静かに部屋へと入った。
部屋にいたのはこの部屋の主であるこの国の王と、そして王の身の回りの世話を命じられている少女、朧と同じ妖葬師の頂点に立つ男の三人だ。
「貴様のような奴が王に何用だ」
苛立ちを隠そうともしない男が朧を睨みつける。それを平然と見返した朧は王へと視線を向けた。
「王。お伺いしたいことがございます」
静かに、けれども良く通る声で言う。少女に酒を注がせていた王は一瞬朧へと目を向けたが、すぐに酒の入った器に視線を移した。
「先程、城下の町の一つが大蛇の妖に襲われ壊滅しました。その大蛇には頭が二つ…一つが赤目、一つが青目のものでした」
「それがなんだというんだ!町が壊滅したのは貴様が鈍いからだろう!そんなことをわざわざ言いにきたのか!?」
ぎゃんぎゃんと頭の悪い犬のように吠える男に多少顔を顰めながら、朧は続きを話す。
「――その大蛇は何者かに操られていたようなのです」
ようやっと真剣に話を聞く気になったのか、王は朧を目に捉えた。
「何か心当たりはございませんか、王」
「ほう。お前は私を疑っていると、そういうことか?」
口元に笑みを浮かべた王は隣にいた少女に酒の入った器を渡す。
「いえ、別にそういう訳ではありません。ただ、その大蛇の左の赤目に王族しか使うことの許されない妖の操縦術の痕跡を見つけたものですから」
真っ直ぐに王を見据えるその瞳は鋭く、それだけで人を殺せてしまいそうだった。
そして見据える先にいる王もまた、人の魂を抜いてしまえそうなほどに暗い瞳をしていた。
「私には兄弟がいない。妻もいなければもちろん子供もいない。両親――前王と王妃は妖に襲われ死んだ」
「そうだ。あなた以外に王の名を持つ者はいない」
広く煌びやかな王室の温度が一気に下がる。そんな錯覚を起こしそうになるほどに両者を取り巻く殺気が研ぎ澄まされてゆく。
あまりの恐怖に瞬き一つ出来なくなってしまった少女は力の入らなくなった手から酒の入った器を落とす。妖葬師の男は情けないことに口から泡を吹いて失神していた。
男のように失神出来たなら、どれほど楽だっただろう。少女は壊れた人形のように立ち尽くす。
「そうさ。―――両親は、俺が殺した。こうして操った妖どもでなあっ!!」
狂ったように嗤いながら、襲われる朧と少女を観賞する。
「それは……それは、何の為に!」
襲ってくる妖を手ごろな場所にあった花瓶で殴りつける。
「何の為?可笑しなことを訊く。そんなもの―――私が愉しむ為に決まっているだろう!?」
朧は胸の内が冷えてくるのを感じた。
こんな王の為に、あの町の人々は死んでいったのだ。こんな王に操られて、妖たちは怨まれながら死んだのだ。
「ああ、ならば遠慮する必要はないな。私は貴様を殺す。この命に代えてもだ」
面白い、そう嗤った王は王室から去っていった。勢いよく閉められた扉の音が妖の呻きと重なり掻き消える。きっとどれかの妖を通じて朧たちの様子を窺っているのだろう。
「…ひっ……!」
少女の怯えた声。見れば少女の体を目掛けて鋭い牙を剥いている妖がいた。
別に、腰に差している剣で斬りつけても良かった。けれどそんなことをしてしまえば少女は今以上に恐ろしい思いをすることになるだろう。それだけはどうしても嫌だった。これ以上この少女が怖がることも、妖が憎まれることも、朧は嫌だったのだ。
「っ…その机の下に隠れていろ! 何があっても目は開けるな!」
少女を庇い腹に食い込んだ牙を自らの肉を千切らせるようにして逃れた朧は少女が机の下に隠れたのを見て、剣を抜いた。
怪我人とは思えない身の軽さで妖の攻撃を避け、少女だとは思えないほどに速く、重い剣を操る。
ばたばたと腹から赤い血を滴らせながら朧は舞うように動く。赤い血がまるで桜の花びらのようだった。
―――しゃん。
不釣合いなほどに澄んだ音を最後にその戦いは終わった。
荒い息のまま少女の隠れている机へと向かうと手を伸ばす。
「……っ、怪我、は――」
「い…や……いやッ! 触らないで! この、化け物っ!!」
がたがたと震える両手で、この机の上に置いてあった果物のたくさん入った籠にあったのであろう小刀を朧に向けると、少女は威嚇するように叫ぶ。
朧の伸ばしかけた手が痙攣したように一度震え、力無く下ろされる。
少女には、自分を守る為に戦った朧がまるで、血に飢える化け物のように見えてしまったのだ。赤い花びらを舞わせながら踊るように妖を倒していった朧に、恐怖を抱いてしまった。少女たちに危害を加えようとした王よりも恐ろしく、美しく――だからこそ何よりも恐ろしい。
「これ以上近づくなら、この刀で…あんたを殺すわ……!」
妖の血で汚れた顔に貼りついた髪が影となって表情はわからなかったが、何も言わず朧は少女に背を向けた。
近くにあった窓から外に飛び降り夜闇に紛れ血に塗れたその姿を隠し、人目につかない場所に逃げるのだ。
********
―――しゃん。
澄んだ音が大蛇の耳に届いた頃にはもう大木ほどの太さとそれ以上の硬度を持つ尾が斬り落とされていた。
尾を斬り落とされた痛みからなのか、怒りからなのか、地鳴りのように呻き声を上げた青目の大蛇は炎の息を吐く。それと同時に朧の足が地を蹴った。まるで獲物を見つけた獣のような速さだ。
「さあ、これでもう終わりにしよう」
そう言って跳躍する。城くらいの高さはある青目の頭の上へと降り立った朧は月の光に反射する白刃をその顎に食い込ませ、風のように薙ぐ。
町を覆う炎と同じ色をした血を撒き散らしながら、大蛇は空に向かって遠吠えをした。
―――しゃん。
鍔鳴りの音がして、二つ頭の大蛇は崩れ落ちる。
暴れていた青目の頭とは違い、ぴくりとも動かなかった赤目の頭はその左目の真ん中にぽっかりと穴が開いたように人間の目があった。
「……これで、八つ目」
これは、呪いだ。操縦術という名の、呪い。
王族が妖を操り天下を取ろうとした際に生み出した忌まわしき呪い。呪いをかけられた妖は体の一部が動かなくなる。今回の大蛇の場合、それが赤目の頭であった。
切なげに表情を歪めた少女は大蛇に差し出すように細い手のひらを翳す。
淡い光を指先に作り出し、大蛇の体に触れる。
「――もう、お眠り」
光が弾けるように大蛇を包み込み、大蛇のその体をも光へと変える。それはまるで天の川のように夜空を駆け上り、蝋燭の火を消すように消えた。
空から零れた雫が辺り一面を真っ赤に染め上げていた炎を鎮めてゆく。
柔らかな月の光と散らばりながら輝く星々が空から零れる雫をまるで光の欠片のように見せていた。