09
パチリ、という音が聞こえてきそうなほど、唐突にシセルはその瞼を開いた。
血の匂いと、血の匂いと、血の匂い。
そして、中庭の惨状を目にして、彼女はその過程を思い出したのだった。
(また負けた)
泣きながらこちらを覗き込んでいるクロシー。その少し後ろ、ニヤついた顔を隠しもしないで、アウト。
傷の状態を確認するように、右手に力を入れる。動く。次いで左手、右足、左足。まるで損壊など初めからしていなかったかのように、それは過不足なく動いた。
「おいおい。まずはありがとうございます、だろ?」
その尊大な物言いに、シセルは顔をしかめた。
「……ありがとう、ございます」
睨む、というよりは、侮蔑の視線をアウトに向けて、シセルは血を吐くように礼を述べた
損耗のひどい死体のようだったシセルの身体は、今はもうその傷跡さえなく回復していた。
それがアウトの魔法。
自らの血を代償に、奇跡を起こす。
それはこの世界で唯一彼にのみ許された、万能の能力なのであった。
「さて、城の魔物は全部ここに積まれてるようだしな。仕事はおしまい、だな」
そうしてアウトはクロシーへと視線を向ける。
四肢が使い物にならないほど潰れていたシセルを間近でみたせいか、それが砂時計をひっくり返したかのように回復していくさまを見たせいか。とにかくクロシーはボロボロと泣いていた。
アウトの視線の意味に気づき、彼女ビクリと身体を揺する。
バケモノだと、思った。
千の兵士を飲み込んだ魔物の群れ、それをゴミのように始末してみせた鬼。その鬼を一撃で沈めたアウト。
単純な不等号は、やがてアウトの異常性をクロシーに突きつけていた。
怖い、と思う。
今までそのバケモノの袖を握っていた右手。その指の、震えがとまらない。
「契約は無事達成だな。まぁ、ちょっとばっかり城壁が壊れたが、そりゃあ俺のせいじゃねえしな」
「……あぅ」
「誓いは破られることはない。そうだな?」
アウトのその台詞を聞くのは二度目だ。一度目は、ためらうことなく是と頷けた。
なら、二度目は?
そしてクロシーは思い至るのだった。選択肢など、初めから存在していないことに。
「――わたくしは、あなたのものです」
そう言って、クロシーはただ頷いた。
「城を、サンシャインデニーズの誇りを取り戻してくださって、ありがとうございました」
荒れ果てた中庭で、服が、膝が、土に汚れるのも構わずに。クロシーはそのその両膝を
ついて、頭を下げたのだった。
そして、目の前に、足を向けられる。
クロシーは、一瞬、その意味するところがわからなかった。
しかし、はっと思い出す。
誓いの言葉、自分はなんと言ったか。
その行為は、年端もいかぬ少女には、あまりにも酷なものあった。
見上げると、唇の端を吊り上げた靴の主と視線が合った。
彼の眼は無言で言っていた。
――やれ、と。
そのとき少女の脳裏に浮かんだものはなんだったのか。父のことか、母のことか。それは、少女のみが知ることである。
兎に角。
少女は、その靴に、口付けをかわしたのだった。
「おい、負け犬。おまえもやれよ。先輩だろ? ちゃんと手本をみせてやれ」
一連の光景を視界の端に捉えていたシセルは、その言葉がくることを半ば予測していた。
「いやだ」
拒絶の言葉は、考えるよりも先に出ていた。
と。
シセルのその細い首に、突如として首輪が出現した。
繋がれた鎖の先にはアウト。
魔法とは、かくも無駄に使われるものなのであった。
「やれよ。ご主人様をたのしませるのが犬の仕事だろうがよ」
ぐいぐいと引かれる鎖。両手で持ってそれに抵抗するが、まるで叶わない。ズリズリと、
地面を抉りながら徐々にアウトへと近づいていく。
「いやだー」
しかし、止められない。
アウトの足元に引きずられてきたころには、シセルの足元には大きな土の山が出来上がっていた。
「手間のかかる犬だな、おい。『舐めろ』」
それはアウトの奴隷となった者にのみ効力を発揮する、力のある言葉だった。
シセルに埋め込まれた呪いが、奴隷契約に基づき、彼女の自由を縛る。
それは決して逃れることのできない制約であった。
そして、とうとうシセルはあきらめる。
抵抗とは虚しいものだ。最後は、どうあがいてもこうなるというのに。
奴隷に落ちたあの日から、彼女には本当の意味での自由などなかったのだ。
あがいて、もがいて、そして、シセルはその靴にキスをした。
「さてと、今日は疲れたな。お姫様、あんたの寝室にでも案内してくれよ」
いまだ土下座の姿勢を崩さぬクロシーに向けて、アウト。
「おい、負け犬。お仕置きしてやるからさっさと行くぞ」
クロシーにも首輪をつけ、二人を立たせる。クロシーはすんなりと立ちあがったものの、シセルを立たせるには、少し鎖を乱暴に引かねばならなかった。
「寝室は、こちらになります。今も使えるかわかりませんけど……」
俯いたのは、自室の惨状を思ったからか。それとも、これから行われるであろう行為を思ったからか。
「クソ主は本当に節操がないよね。まだ昼間だってのにさ」
「クソだクソだ言った分は、たっぷり可愛がってやるよクソ奴隷」
そして、彼らは城内へと消えていったのだった。