08
ゲティパスには、その手招きの意味がまったく理解できなかった。
鬼の横を歩いていた人間。おそらく時の姫君の従僕なのだろう、とゲティパスは思っていた。
そんなただの人間が――主人が敗北した今になって――逃走以外のなにをするというのか。
「おいおい従僕。俺は今おまえの主人のおかげでスゲー気分がいいんだ。見逃してやるから嬉ションたらしながら無様に逃げろよ」
「そりゃあ偶然だな。俺も今、スゲー気分が悪いんだ。アホが無様に負けたせいでな」
「わかってねえなあ。テメエみてえなゴミとなんざ戦う気もおきねえんだよ」
「ますます奇遇だな。俺もまったく戦う気なんざおきねえや」
鬼はその習性ゆえに、弱者を酷く蔑ろに扱う。
弱者。それはつまり、戦闘民族である彼らを満足させることのできぬ者、彼らの前に立つべき資格を有さない者たちのことであり。……そしてまた、彼ら鬼は、そんな脆弱な存在を顧みることは決してない。
強さだけが価値の全てであるとする彼らは、その価値の認められぬものは、歯牙にもかけないのだ。
鬼という存在は決して殺戮者でないし、また一方的な虐殺を愛するわけでもない。
彼らはただ、闘争を好む種なのである。
それゆえに、ゲティパスはアウトになんら思うところがなかった。
こうして、繰り返しあからさまな挑発をされている今でさえ、ゲティパスは何も感じていない。
そのある種滑稽とも映る情景を、クロシーは死んだような心持ちで見ていた。
鬼は、逃げろと言っている。逃げてもいいと、言ってくれている。
それなのになぜ、彼はこうも挑発を繰り返すのか。
彼女の希望は、とうの昔に、ゲティパスの足元でボロ雑巾よりも酷い状態になっている。
いくら鬼の生命力があるとはいえ、あれではもう助からないだろう――クロシーは嫌に落ち着いた心境で、そう判断していた。
だというのに。
なぜこの男はこうも強気でいられるのか。
「いいからかかって来いよ。それが鬼なんだろ? 魔物」
あまりに執拗な挑発に、さすがの鬼族も煩わしさを感じたらしい。
舌打ちして、ゲティパスは棍棒を握りしめた。
吼える犬を黙らせるには、棍棒が一番早い。彼は武骨で長大な棍棒を、ある種の威厳とともに振りかぶった。
「さようなら、だぜ。人間」
「ああ。さようなら、だ」
アウトは自らの右手を鬼に向けて突き出した。
――瞬間、その掌から、膨大な熱量を伴った光の柱が放たれた。
その熱光波は、ゲティパスの胸を貫き、さらにその背後の城壁を消し飛ばした。
「あぁ……?」
ゲティパスの脳は、何が起こったのか理解することができなかった。
古に謳われる戦神の、剛健極まりない肉体を髣髴とさせるような、ゲティパスの見事な胸筋。それが、まったく防御という役割を果たすことなく、消え去っていた。
ゲティパスの胸板には、アウトの側からであれば、背後の景色まで見渡せるほどの、薄暗い、子供の頭ほどもあるような大穴が出現していた。
「あ……ぐ、あ…………」
二歩、三歩。
そして、彼は四歩歩くことができなかった。
糸の切れた操り人形のごとくに、一切の防御姿勢をとることが叶わず、ゲティスパは倒れ伏す。
そのときやっと、思い出したかのように、彼の胸の大穴から血があふれ出した。
ゆっくりと、散歩に出かけるような歩調で、アウトはその死につつある巨体に近づいていく。
「俺の能力の説明、聞きてえだろ?」
ゲティパスの苦痛に歪む顔を、まるで見たくないとでも言うように、その右足でもって踏みつける。
「が、ぁあ、あ……」
ゲティパスは思う。なるほど、そんなものは聞きたくない。聞く必要はない。
もはや自分はここまでなのだから。
「まあそう嫌がらずに聞けよ。こうして能力を過信した鬼をぶち殺す瞬間に、タネを明かすのが最高に気持ちイイんだからよ」
なるほど、こいつは最低の気分だ。
鉄の臭いに咽せ、血の塊を吐き出しつつ、ゲティパスはようやくそれを理解した。
「魔法だよ魔法。俺は魔法使いなんだ。信じるか?」
ゲティパスはもちろん信じない。
魔法など存在するはずがないからだ。
そんなものが、もしこの世界に存在したのなら、鬼はこれほど孤独にはならなかっただろう。
ゲティパスは、アウトの意図を計りかねて顔をしかめる。
「信じねえだろうな。まあ、そりゃあそうだ」
頭蓋を圧迫する足、それに徐々に力を込めながら。
「魔法を使う能力。簡単だろ? それが俺の能力だ。体内の血を消費するっていうクソだるい制限はあるがな」
言って、アウトはゲティパスの頭部を踏み潰した。堅牢な頭蓋も、そのなかの儚げな軟組織も、みな一緒くたに爆ぜて、石畳に凄惨な模様を描いた。
瞬間、短い悲鳴をあげてクロシーが顔を逸らした。少女には、刺激が強すぎたらしい。
「なんだ全然気持ちよくないな。やっぱ魔物の考えることはわかんねーや」
そしてアウトはその視線を、ピクリとも動かないシセルへと向ける。
「まったくボロ負けしやがって」
貧血になっちまうぞ。
もはや生きているのかすら定かではないシセルを眺めて、アウトはそうひとりごちた。