07
ぐしゃり、と肉が潰れる音。
シセルは自身の左腕を見やって、その顔を歪ませた。
二の腕から下が、完全に潰れている。その激痛が、シセルの行動をワンテンポ鈍らせた。そして、それは致命的な速度差を生む。
左腕を潰した一撃。右から左になぎ払われたその勢い、そのままにゲティパスは一回転した。
遠心力を加え、さらに破壊力を増した一撃がシセルを襲う。
間に合わない。舌打ちする間もなく、シセルは半回転して右腕を盾にした。
手にしたナイフは、ガラスのように砕けた。ナイフを潰し、腕を潰し、なおとまらない棍棒は、シセルの肺を抉りこむ。
まるで蹴鞠の鞠ように、シセルの身体は宙を舞った。
彼女は、すでに半壊していた城壁に突っ込んで、爆音を響かせる。
崩れる瓦礫の中、それでも意識を保って、シセルは追想した。
なぜ、時が止まらなかったのか――と。
「そりゃあそうだ。俺たちは鬼だからな」
「そうだね。私たちは鬼だ」
殺し合いは、そうして始まった。
棍棒を――準備運動でもするかのように軽く――振り回しながら、歩み来るゲティパス。
腰から二本のナイフを抜き、逆手で構えるシセル。
鬼に特有の能力であり、彼らの最大の武器であるところの魔眼は、初見の相手に対しては、ほぼ絶対ともいえるアドバンテージを持つ。
なぜなら、魔眼は個体によって発現する能力が全く違うため、その能力を予測するのが極めて難しいのだ。
故に、名が売れた鬼というのは、そういったアドバンテージを得られない。
時の姫君などと呼ばれ、もはや時を止める能力が有名になってしまっているシセルは、そういった意味では鬼の中では大きなハンデを背負っているということになる。
それもまた戦いのひとつ。それを事前に知っているということを、ゲティパスはなんら姑息なことだとは考えない。
不利になると分かりきっているのに、有名になるほうが悪いのだ。それはおおむね、鬼達に共通した見解であった。
「悪いけど、きっとあなたは勝てないよ」
自らの能力への絶対の自信。それがあるが故に、シセルは事もなげにそう呟いた。
そして彼女は時を止める。
容赦などなく。ただ時の止まった世界で、ゆっくりと確実に相手を絶命させるために。
私の能力を知っていながら、私の前に立つほうが悪いのだ。彼女はそう思って、
「――!?」
しかし、ゲティパスは笑った。
そう、彼は笑ったのだ。
時の、止まった世界で。
その双眸を、血の色に輝かせて。
「何も不思議なことじゃあない。そういうこともある。こういうこともできる。だから俺たちは鬼なんじゃあないか」
そう言って、ゲティパスはその棍棒を振りかぶった。
驚愕し、一瞬の隙を見せたシセルは、それを避けることができなかった。左腕を犠牲にする覚悟で、防御する。
――結果は、無残なものだった。
両腕を砕かれ、潰され。足が折れ、肺が一つ、潰れている。
頭を掴まれ、まるでボロ雑巾のように、シセルは瓦礫の山から持ち上げられた。
ミシミシと音を立てて、シセルの頭蓋が軋む。
「――あ、ぐぅ……ッ」
「時の姫君の最後だな。あっけない。有名人ほど早く死ぬ。悲しいもんだなあ」
それは、シセルに向けた言葉か。または、これから有名になるであろうという確信を持った、自身への言葉か。
何にしろ、ゲティパスは嘆くように、そう呟いたのだった。
「オレの能力の説明、聞くか?」
敗者を哀れむように。指にはさらに力をこめて。
「ぎぅ――ぁう……ぅ……」
もはや視力の怪しくなった瞳で、それでもシセルはゲティパスを睨み付けた。
その勝ち誇った顔に、唾を吐きかける。
そんなものはいらない、とばかりに。
「まあ聞けよ。こうして能力を過信した鬼をぶち殺す瞬間に、タネを明かすのが最高に気持ちイイんだからよ」
吐きかけられた唾液を拭いもせず。ゲティパスはその右腕で、シセルの身体を城壁へと叩きつけた。
ゲティパスはそのまま、――シセルの体で城壁を削り取ろうとでもするかのように、彼女の体に渾身の力を加えながら、進む。
ゆっくりと、しかし、万力のように力をこめて。
「10秒だ」
歩いた端から、城壁が崩れていく。シセルは城壁に半ば埋まったような状態で、なおもその身体を持って城壁を崩していかざるを得ない。
彼女はもはや、うめき声さえ上げることはなかった。
「たったの10秒だ」
やがて城壁は行き止まり、ゲティパスの歩みも止まった。
血にまみれたシセルの身体を、ゲティパスはぞんざいに投げ捨てる。
「相手の能力を10秒無力化する。それがオレの能力だ。おまえは、時を止めて10秒逃げ回ればよかったんだよ」
残念だったな。
恍惚の表情を浮かべて、ゲティパスはシセルの背を踏みつける。
「有名人は大変だな。いい勉強になるぜ。オレもこれからは気をつけないとな! ははははは!」
何度も、何度も、何度も、何度も。ゲティパスは執拗に踏みつける。もはや、シセルは呼吸をしているのかすら怪しい状態であった。
ゲティパスはまさに、勝利の美酒に酔いしれていた。
と。
「おい、魔物。忘れてるようだから言ってやるが、それは俺のだ。勝手に壊すなよ」
その酔いを醒ます、無粋な声。
眼前の、そのあまりといえばあまりの光景に青ざめて、震えるしかない少女を左手に。
それはなんでもない、ごくありきたりな出来事であるかのように。
「残念だが、お前は無名のままだ」
そう言って、アウトは鬼に手招きをしてみせた。
 




