甘い笑顔はもういらない
「そのネックレス、良く似合っているよ。もっともメルティがつけているから美しく見えるのかもしれないけれど」
「ふふっ、ありがとう」
良く晴れた日の放課後。中庭で友だちと喋っていた私は耳をくすぐるような声につい振り向いてしまった。そして、私ではない女性に甘い笑みを向ける婚約者に凍りついた。
でも、私にはかけられたことのない甘い言葉に胸が痛くてたまらなくても、吟遊詩人のようにとめどなく愛にあふれた言葉をささやくオスクルム様の言葉が聞きたくて。耳を傾けてしまう。
「ティエル?」
「……あ、ごめんなさいシャーリー。ぼんやりしてしていたみたい」
友だちに顔をのぞきこまれて私はようやく彼女といたことを思い出して謝った。気の良い彼女は「気にしないで」と言い、オスクルム様の方をちらりと見やってかすかに眉をひそめた。
「今日は本当に気持ちの良い天気だものね。せっかくだからどこか寄って帰らない?」
「ええ」
彼の声をもっと聞いていたいけれど、これ以上聞いていたら泣いてしまいそうで。私は気遣うシャーリーにお礼を言って立ち上がった。
なるべく距離をとって傍を通り過ぎる時。
メルティ様がかわいらしく小首を傾げて微笑み、彼もまたそれに応えるようにとろけるような笑顔を浮かべたのが見えて。私は頭を叩かれたような強い衝撃を感じて逃げ出すようにその場から離れた。
シャーリーは黙って付いて来てくれ、迎えの馬車に乗って2人きりになるとハンカチを差し出してくれた。
「さ、ここなら我慢しなくて良いわよ。思いっきり泣いて吐き出しちゃいなさい」
「ありがとう……」
優しい声に安心して私はこらえていた涙をこぼした。
私はティエル。メロウ伯爵家の1人娘だ。1つ年上のオスクルム・ルヴィド伯爵令息様とは2年前に婚約した。学園を卒業したら我が家に婿入りしてもらう予定だ。
オスクルム様は美しい顔立ちをした優しい青年だ。初めて顔をあわせた時の甘い笑顔に私は一瞬で恋におちた。それからは彼と会うたびに私はいつも幸せで満たされた。
でも、1歳の時間の差は大きい。
去年、私よりも1年先に学園に入学した彼はすっかり華やかな生活に夢中になり、婚約者の私よりもたくさんの友人たちと過ごす方を優先するようになった。
私がどんなに「会いたい」と恋焦がれて連絡しても遠く離れた彼にはその願いは届かず。その距離を縮める方法がわからない私は彼が家を訪れる日を待ちわびた。
そして、彼が楽し気に語る話に彼と過ごす学園生活を思い描いて、その時がくれば彼と一緒に過ごせるのだと夢見た。
その夢は叶わなかった。
オスクルム様は私が入学した時に彼のクラスに転入してきたメルティ・ピレマー男爵令嬢といつも一緒にいる。
メルティ様は光をまとっているような淡い色の髪と瞳、透き通るような白い肌に華奢な身体をしている。まるで天才画家が最高の瞬間をとらえて描いた絵画の少女のように美しい方だ。その圧倒的な美しさは同性の私でも何度見ても心惹かれる。
彼女は「美しいモノを愛する」と豪語する第2王子ネヴィス殿下に気に入られ、友だちの男子生徒たちにいつも囲まれている。オスクルム様もその1人だ。
外国育ちのメルティ様は「これが私の国の親しい友だちとの付き合い方なのよ」と、いつも話し相手を甘い笑顔と言葉で褒めちぎって喜ばせる。
彼女の国では当たり前なのかもしれないけれど。同性ならまだしも異性に対して馴れ馴れしすぎるその振る舞いは、私にとってはまるでパーティーで殿方を誘惑するふしだらな夫人を見ているようで、生理的に受けつけない。
でも、オスクルム様はやんわりたしなめても聞き入れてくれず。「友人付き合いに口を挟まないでくれ」と、不機嫌な顔で言われてからは嫌われるのが怖くて言えなくなってしまった。
その上、ネヴィス殿下が婿入り先のロズヴィータ公爵令嬢に私と同じことを言われ「メルティの振る舞いは彼女の国の文化だ。私は異国の文化を学んでいるのだ」と皆の前で強く叱責したことで、誰も第2王子殿下が認めたメルティ様の異国の振る舞いについて口出しすることができなくなった。
諦めた私はメルティ様の振る舞いに嫌悪を抱きつつも、殿下の言う通り”友だち付き合い”なのだと思うようにした。そして、私なりに精一杯愛をこめてオスクルム様に笑いかけた。
でも、彼はメルティ様だけ甘く笑いかけていて。なぜ彼女よりもずっと本気の愛をこめて笑顔を向けているのに、私にはそうしてくれないのかと嫉妬と悲しみに心が傷ついていく。こらえきれなくなるとシャーリーの前で本音を吐き出している。
「いつも付き合ってくれてありがとう、シャーリー。泣いたらすっきりしたわ。このハンカチもありがとう。いつもかわいい」
「どういたしまして。私もいろんな動物を知れるし、刺繍の腕がめきめき上がっているわ」
「ふふっ、それは良かった。みんな大事にするね」
シャーリーはいつも肌触りの良いやわらかいハンカチにかわいい動物の刺繍を施して、私に贈ってくれる。
冷たい涙で溶けた心がざらついても、私を気づかってくれる人がいる優しさに癒される。
「そうそう、ティエルはそうやって笑うととってもかわいいわ。まったく、かわいい婚約者よりも高価な化粧品で作った顔が良いだなんて。ルヴィド様は見る目がないわね」
「作った顔?」
「ええ、そうよ。彼女、あのきれいな顔を作るために、遠い母国から特別な品を取り寄せているのですって。
確かにきれいでうらやましいけれど、そこまで美容にこだわっているなんてちょっと怖いわ」
シャーリーは呆れたように肩をすくめたけれど、私は少しだけ期待した。
――きれいになったら、オスクルム様は私を見てくれるかしら。
「暗い話はこれぐらいにしましょう。良かったら家に寄っていかない? お母様が新しいぬいぐるみを作ったの」
「まあ、本当に? ぜひお邪魔したいわ」
シャーリーの家族は物作りが趣味だ。
夫人はふわふわした動物のぬいぐるみを作るのが好きで、新作が出るたびに見せてもらっている。
すっかり明るい気持ちになった私は励ましてくれた友だちに笑った。
*****
「今度会う日はどこに行きましょうか。お天気も良いですし、王立公園にバラを見に行きましょうか。劇を観に行くのも良いですわね」
「どこでも良いよ。君が決めてくれ」
「じゃあ、王立公園が良いですわ。シャーリーに聞いたらバラのアイスクリームが売っているのですって。どんな味がするのでしょうね」
「そうだね。たぶん、バラのジャムみたいに甘いんじゃないかな」
オスクルム様はちらりと懐中時計に視線を落とした。上の空の彼の気を惹こうと私はシャーリーと練習したとびきりの笑顔を作った。
「ふふっ、きれいなバラを見ながらアイスクリームを食べるなんて。何だかおとぎ話の世界に入ったようですわね」
「そうだね。楽しみにしているよ」
オスクルム様はまた視線を落とす。話が続かなくなった私もつられて見て、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「時計、新しい物にされたのですか?」
オスクルム様は私が誕生日に贈った懐中時計を使っていた。今日は違う物だ。
話のきっかけになればと聞いただけだったけれど、オスクルム様はなぜか警戒をにじませる。
「ああ。あれは大事な物だからね。傷をつけたくないからしまっておいて、普段はこっちを使っているんだ」
「そうなのですね」
いつものように穏やかに笑う彼の目はなぜか冷たい。その露骨な嫌悪に浮かれていた心が凍りついていく。
それからは話も続かず、やがてオスクルム様は「用事があるから」とそそくさと帰って行った。
残された私はまだ熱いカップに触れた。
懐中時計は家族やシャーリーに相談にのってもらいながら作った自信作だ。彼もまた喜んで私と会う時には必ず着けてきてくれてとてもうれしかった。
――でも、今のオスクルム様にとっては、入学する前に忙しくても1週間に1度は会おうと約束したとおり私に会いに来ることも、贈った物を身に着けることも面倒なことなのかしら。
心がじくじくと痛むのを感じて気を紛らわせるためにカップに口をつけると熱さで唇が焼けて涙がにじむ。その痛みに心に溜まったドロドロした感情が溢れ出る。
私はシャーリーに付き合ってもらってきれいに着飾ってかわいい笑顔も練習したのに。彼はメルティ様の心も理性もドロドロにとろかしてしまうような甘くきれいな笑顔しか目に入らないのだろうか。
――だったら、私だってあんなはしたない人に媚びを売るオスクルム様なんか嫌い。どんなにがんばっても私を見てくれない彼なんて大嫌い。
どこからか自分の嫌悪と軽蔑のこもった冷たい声が聞こえてきて、私は慌てて頭を振って負の感情を振り払った。
――そんなことない。オスクルム様は優しい人だもの。いつかは戻ってきてくれるわ。
でも、いくら否定してもその嫌な痛みは忘れられなくて。私はハンカチでまぶたをぬぐうと、待ってくれているシャーリーのところに逃げた。
*****
「ティエル、あなたに見てもらいたい物があるのだけれど。時間がある時に家に来てもらっても良いかしら?」
「ええ、わかったわ。今から行ってもいい?」
どことなく歯切れの悪い口調で話しかけてきたシャーリーに不思議に思いながらうなずく。
シャーリーの家の応接室のソファに座ると彼女は沈んだ声で話し出す。
「兄様は最近ギルドのバザーに夢中でね。毎回顔を出しては何か買ってきているの」
「まあ、そうなの。お父様もブローチを集めているの。聞いたら喜びそうだわ」
ギルドが開くバザーは商人たちが集まって外国から取り寄せた珍しい品や貴族や裕福な平民から買い取った品を売っている。
お父様も最近ブローチを集めるのに夢中で、アンティーク品を探してバザーにも積極的に足を運んでいる。シャーリーの1つ年上のお兄様ことトーヴァル様とは気が合いそうだ。
「ふふ、そうなのね。うちの兄様は時計が好きなのよ、お互いに話が弾みそうね。……それなのだけれど。兄様が持っている懐中時計が、その、あなたがルヴィド様に贈った物に少し似ている気がして。気のせいだとは思うのだけれど、念のために確認してもらえないかしら」
「ええ、もちろんよ」
シャーリーが合図をするとメイドが布に包まれた物を持ってくる。そっとテーブルに広げると中からはきれいに磨かれた懐中時計が出てきた。
――オスクルム様に贈った懐中時計だった。
「これ、私がオスクルム様に贈った懐中時計だわ。でも、どうしてバザーに……?」
「まさか本当にそうだったのね……。なぜギルドのバザーに出ていたのかはわからないけれど。どこかで落とした物が運悪く心ない誰かに拾われて、お店に売られたのかもしれないわね」
シャーリーは理由を考えてくれたけれど、心の中の私は冷たい声で「ありえない」と否定する。
本当に大事にしている物ならばなくしたことに気づいた時点で探しているだろう。そして、貴族から落とし物の届け出があったならばギルドや商人たちの間で品の情報が出回り、見つかった時点で手元に戻っているはず。
何よりも、と次々と疑いが生まれる心に凍りつくような風が吹きすさぶ。
数日前に会った彼は懐中時計のことを聞いた時に、大事にしたいから代わりの物を使っていると言っていた。
――彼はなぜ私に嘘をついたのだろう。
あの時の警戒するような冷たい目を思い出すと涙がにじんできた。
――彼は私に何かを隠している。そして、それは私にとって良くないことなのだわ。
「ティエル? 大丈夫?」
「……オスクルム様は『大事にしまっている』なんて嘘を、ついて……」
言葉にすると涙があふれる。シャーリーは黙って隣に来て抱きしめてくれて私は「どうして」と声を上げて泣いた。
*****
あれから私は泣きつかれてぐったりしてしまい、心配したシャーリーたちの好意で泊まることになった。
一家全員にまるで親戚の家に行ったように温かく接してもらって。うれしいけれど子どもみたいに甘やかされて恥ずかしい。
でも、おかげで翌朝にはすっきりした気分になって、懐中時計のことも冷静に向きあえるようになった。
トーヴァル様に話を聞きに行くと、心配そうな顔をしつつも知っていることを教えてくれた。
「この懐中時計は僕の友人が売っていたんだ。確か、知り合いの商人から買い取ったと言っていたと思う」
「いつ頃見つけたのですか?」
「2週間前だよ。ちょうど良い品物が手に入ったと呼ばれたんだ」
2週間も前にバザーで売っていたということはもっと前になくなったのだろう。
その間、私はオスクルム様と何回も話をしている。
彼があっさりと贈った時計を手放した上に、私に平然と隠していたことに心が冷え切っていく。
「そうだったのですね。いろんな方の手に渡っても皆に大事にされていたようで、ほっとしましたわ」
「大事にするのは当然だよ。この時計は作り手の優しさがこもった良い品だからね。
僕も見た瞬間に一目惚れしてその場で買ったんだ。実際に使ってみると、盤面はデザインが良いから昼も夜もはっきりと見えるし、針はいつも正確に時を刻んでいるし、本当に頼りになるよ。
何よりこの手にしっくりなじむ艶やかな感触が好きでね、大事な場の前ではこの子を撫でると心が落ち着くんだ。素晴らしいお守りだよ」
「そ、そんなに喜んでもらえて良かったですわ……」
目を輝かせて褒めちぎるトーヴァル様に何だか照れくさくなる。
この時計は私も一から考えて作った思い入れのある物だ。彼のように大切に使ってくれる方のところにいって本当に良かった。
そこで私はもう時計が本来の持ち主のオスクルム様の物ではないと思っていることに気がついて、少しだけ後ろめたさを感じた。トーヴァルもそう思ったのか寂しげに笑う。
「実を言うと、すごく良い時計だから元の持ち主も探しているんじゃないかなと不安だったんだ。持ち主が見つかって良かったよ。この懐中時計はきれいに磨いて返すね。申し訳ないけれど、もう少しだけ待っていてもらっていいかな?」
「いいえ、その時計はどうかトーヴァル様が持っていてください。私の婚約者様は自分の意思で手放したようですし、その時計だってきちんと大事にしてくれる方に使われた方が幸せですもの」
どういう経緯でギルドのバザーで売られることになったのかはわからないけれど、トーヴァル様はきちんと手続きをして買ったのだし、一応は持ち主だったオスクルム様は代わりの時計を使っていて、状況を考えると探しているようでもない。
このまま私が黙っていれば”大事にしまっている”ことになるだろう。それならば、気に入ってくれた方が大事に使ってほしい。
トーヴァル様は申し訳なさそうな顔をしていたが私は一生懸命説得し、最終的に王立公園のバラのアイスクリームをおごってもらうことで手を打った。
「こんな素敵な懐中時計がティエル嬢が作った物だったなんて、驚いたなあ。これだからバザーは面白い。ありがとう、これからもお守りにするよ」
「私こそ、そんなに喜んでもらった上に大事にしてくださって本当にありがとうございます。シャーリーのお気に入りのアイスクリーム、楽しみにしていますね!」
「僕もだよ。その日までスイーツを食べるのを我慢しておこう」
トーヴァル様のふにゃりとした笑顔に私も心が温かくなった。
家に帰ると私は心配して待っていた両親にこれまでのことを話した。
お父様はすぐに懐中時計が売られた経緯を調べてくれた。
そして、オスクルム様が1月前に貸金を営む商店に時計を預けてお金を借りたものの期限までに借りたお金を返せず、懐中時計が店に買われたことを突き止めた。
それを聞いて完全にオスクルム様への情と信頼が消えた。
「お金が欲しいからと、怪しげな店にやすやすと貴重な物を売り渡す人物は信頼できません。お父様、婚約をとりやめてください」
「ああ、おまえがそう言うのならば。すぐに手続きを進めよう」
オスクルム様は結婚して当主となる私を支えてもらう予定だった。私に黙って大事な物や情報を簡単に外部にもらす危険性がある人物と結婚して、我が家を危険にさらすわけにはいかない。
気遣うお父様にうなずくと当主の顔になって指示を出す。
――さようなら、オスクルム様。愛していました。
私はオスクルム様の笑顔に別れを告げて、彼の有責で婚約を破棄した。
*****
「19時にディナーだ。その後の部屋の手配も忘れるなよ」
「かしこまりました。すぐに手配します」
顔を見ないように深々と頭を下げると、殿下はふんと鼻を鳴らして去っていく。今日はまあまあ機嫌が良いようだ。無意識にほっとしてそんな自分が嫌になる。
私、オスクルムはルヴィド伯爵家の次男だった。過去形なのは家から絶縁されたから。
卒業までは最低限の生活資金をもらって学園に通わせてもらえるが、それまでに自分で生きる手段を見つけなければいけない。
少し前まではティエル・メロウ伯爵令嬢に婿入りする予定だった。
1つ年下の彼女は大切に育てられたことがわかる優しく愛情深い少女だった。恋人のような愛情は持てないが、自分を慕ってくるかわいい妹のような彼女と仲の良い家族になれれば良いと思っていた。
そんな穏やかだが少し物足りない日々を送っていた時、私はメルティ・ピレマー男爵令嬢と出逢い、本物の恋愛と喜びを知った。
メルティは笑えば世界が輝き、喋れば甘くかぐわしい香りが満ちる。いるだけで心がとりこになる美しく魅力的な少女だ。
私は困っていたメルティをたまたま助けたことをきっかけに親しくなり、彼女の友だちとしていつも一緒にいるようになった。そして、彼女を助けるたびに甘くとろけるような笑顔に心が満たされていった。
しかし、その幸せは強欲な第2王子ネヴィス殿下がメルティに目をつけてから、必死に努力しなければ手に入らないものになってしまった。
「この世すべての美しいモノを愛でるのが自分の喜びだ」と豪語するネヴィス殿下は「生まれ持った美を磨くことが自分の生きがい」だと語るメルティの最高のパトロンとなった。そして、その底なしとも思えるほどの財力を惜しみなくメルティに注ぎこんだ。
未完の石像が彫刻家に手入れされてその美しさを露わにしていくように。日に日に女神のように美しくなっていくメルティはその人々の心をとりこにする極上の笑みを恩人の殿下にだけ向けるようになった。
メルティの笑みが向けられなくなってから私はひどい心の飢えに苦しみ、彼女の笑みをわずかでも得る方法を死に物狂いで考えた。
そして、思いついた。
――殿下がメルティに笑みを向けられているのは財力を使って彼女の願いを叶えているから。だったら、自分もそうすればいいと。
噂によると、ロズヴィータ公爵令嬢は婿になるネヴィル殿下に言われるまま生活資金を渡しているらしい。
ティエルは急用だと頼めば用意してくれるだろうが、メロウ伯爵に知られるリスクをおかしたくない。
少し考えた私は「急なお金が必要になった学生が使っている」と友だちに教えてもらった店に誕生日にティエルに贈られた懐中時計を持って行った。
預けた時計は想像以上に良い金額がついた。期限内に返せるかどうか一瞬不安がよぎったが、もしそうなったら自分の手持ちの物を売ればいいと流した。
そして、手に入れたすべてのお金でメルティの瞳の色の宝石をあしらった煌びやかなネックレスを購入し、彼女に贈った。
中庭で会った彼女は幸福に満ちた笑みを浮かべ、その五感すべてが甘くとろけるような感覚に私も久しぶりに幸せを感じた。
その幸せはあっという間に消えた。
ある日、メルティに会うことで頭がいっぱいだった私はティエルに別の懐中時計をつけているところを見られ、やっと預けた懐中時計のことを思い出した。
とっさにごまかしてその日のうちに買い戻しに行くも店主はとっくに売れてこの店にはないと言うばかりで、手がかりすら教えてくれない。
ぞんざいな対応に腹が立ったがなくなってしまった物は仕方ない。幸い、素直なティエルは私の言うことは何でも信じる。次に会った時に「修理ができないぐらいにひどく壊してしまい、申し訳なくて言い出せなかった」とでも言えば丸め込めるだろう。そう楽観的に考えた。
しかし、数日後。激怒した父上に呼び出された私は、メロウ伯爵家に私の有責で婚約破棄されたと聞かされた。
驚く私に父上はメロウ伯爵が目を通すようにと渡してきたというぶ厚い調査書の束を投げつけてきた。
そこには私が学園で婚約者のティエルを放ってメルティとずっと一緒に過ごしていること、ティエルの贈り物の懐中時計を密かに売り払ったお金でメルティに高価なネックレスを買って貢いだことが詳細に書かれていた。
そして、末尾には「婿入りする身でありながら、自分の欲望のために私を簡単に裏切る者は信頼できない」とティエルの字で書かれていた。
私はこんなのは誤解だと訴えたが父上はまったくとりあってくれず、卒業するまでは面倒を見るが、今をもって絶縁すると蔑みを浮かべた顔で宣言した。
それからは私の生活は一変した。
どこから漏れたのか。私が絶縁された話は学園中に広まっていて、それまで付き合いのあった多くの友だちやクラスメイト達には距離を置かれた。
誤解を解くためにティエルに会いに行くも、友人だという女子生徒に「あなたを慕っていた婚約者からの贈り物よりも大事な男爵令嬢と過ごしたらいいでしょう」と容赦なく追い払われ、クラスメイト達に肌に痛みを感じるぐらいの強い視線を浴びせられた。
どこにも居場所がなくなったように感じてさまよう私に救いの手を差し伸べてくれたのは、皮肉にもネヴィス殿下だった。
友人が多い私はその伝手を使って、メルティが欲する美容品の情報や物のありかを調べて助けていた。ネヴィス殿下は私を自分の側近として迎え入れる代わりに、婚約者のロズヴィータ公爵令嬢に気づかれないように自分とメルティのデートを助けるように命じてきた。
私はメルティを金と権力で縛りつけている傲慢で強欲な殿下に従うことに屈辱を感じたが、今は耐え忍ぶ時だと受け入れた。そして、殿下に愛想笑いを振りまくメルティを盗み見て、屈辱と不幸にじくじくと痛む心を慰めた。
ネヴィス殿下は自分の態度のせいで仲が冷え切っているロズヴィータ公爵令嬢への当てつけで、誰もが見惚れる美しいメルティを脅して囲おうとしている。
自分の生まれ持った美を完成させるという夢を叶えようと努力するメルティは、そのために必要な金銭を得るためにパトロンの殿下に従うふりをしているだけだ。
私が彼女のために心からの愛と労力を捧げつづけていれば、いつかメルティは私にだけあの甘くとろける笑顔と愛を向けてくれる。
その日を夢見て、私は殿下とメルティのひそやかな逢瀬をじっと見守った。
*****
宿の部屋の中を落ち着きなく歩き回っていたネヴィス殿下は、やって来たメルティを見るなり満面の笑みを浮かべた。
「メル、今日は一段と美しいな。まるで夜の妖精のようだ」
「ふふふ、ありがとう。今夜は特別な時間になるから最高のおしゃれをしてきたの」
「そうか。まあ、私としては素の姿が最高だが、その前の姿から楽しむのも悪くないな。……おまえは外で待っていろ。誰も通すなよ」
下卑た笑いを浮かべたネヴィス殿下は、まるで花嫁のように全身を磨きあげ殿下が贈った純白のドレスをまとったメルティを部屋に迎え入れ、私に扉の外に立っているように命じた。
私はこれから金で脅すしか能のない男が愛しの女性に触れることに頭が煮えたぎったが、メルティの健気な努力を無駄にしてはいけないとぐっとこらえて外に出た。少し離れた壁にもたれかかる。
この宿は人目を忍ぶ秘密の恋人たちが利用する場所だ。特に、この最上階の部屋は1部屋しかなく、他の客と出くわさないように入口も別になっている。うたた寝でもしていればあっという間に終わっているだろう。
目を閉じるとあっという間に睡魔が襲ってくる。うとうととしているとどこか遠くで何かがぶつかるような音が聞こえた気がした。
しかし、ここにいるのは自分たちだけのはずだ。気のせいだとまぶたを開かずに再び意識を眠りに落とそうとすると、ドアノブががちゃりと耳障りな音を立てた。
そこでようやく嫌な予感がして私はおそるおそるドアをノックした。しかし、返事はなく代わりにノブが激しく揺さぶられる。私は念のために声をかけた。
「殿下、お呼びですか? 確認のために少しだけ開けますよ。中は見ませんのでご安心を」
嫌がらせのためにわざわざ自分を呼びつけるような男のことだ。どうせいつもの悪趣味な振る舞いだろうと警戒しながらドアを少しだけ開けると、耳障りな悲鳴と共にドアが勢いよく開かれ裸の男が飛び出してきた。
思わず避けると男は床に倒れ込んで顔を掻きむしって何事か喚きちらす。そこでようやくネヴィス殿下だとわかって驚く。
「殿下? いったいどうしたのです!? メルティは無事なのか!?」
問い詰めても彼は顔を押さえて床を転げまわるばかりで。嫌な予感がした私は中に飛び込んだ。
部屋に入ると甘い香水に混じって胃をちくちくと刺激するような臭いが充満していた。吐き気をこらえながら進むと、部屋の奥にレースのカーテンがかけられた巨大なベッドが置かれていた。
「メルティ……?」
頭の中で本能がこれ以上近づいてはいけないと訴えるも、私は愛しい女性を助けるためにベッドに近づいてレースのカーテンを開けた。
そして、透き通るような真っ白な肌がところどころ赤くただれ、苦悶の表情でシーツに倒れ伏した彼女の醜くおぞましい姿に嘔吐した。
胃が空っぽになってもまだこみ上げる吐き気をこらえながら部屋の外に出た。何があったのか殿下を問い詰めようとして、その私を見上げる赤くただれた顔を見て悲鳴を上げた。
慌てて人を呼びに行こうとすると殿下に呼び止められる。
「待て、誰にも、言うな……」
「そんなことできるわけないでしょう! 人を呼んできますっ、メルティを……」
助けると言いかけ、彼女の変わり果てた姿を思い出して吐き気がこみ上げてくる。顔を歪めると、悪夢に出てくるようなおぞましい顔をした殿下は憎悪に目を光らせた。
「あの女、私に毒、を。こんなみっともない姿、知られる、わけに、は、いかない。部屋の、魔道具、で、城の、者を」
「メルティが毒を!? ありえないっ。これは不運な事故ですっ。とにかく、人を呼んできます!!」
とにかく人に気づかれる前にここを離れ、殿下の手当てをしなければ。
部屋に入って連絡魔道具を見つけ出すと、私はベッドからなるべく距離をとって連絡した。
幸い、すぐに人が来て殿下を運んでいった。そして彼らに「今夜のことは誰にも言わないように」と命じられ、私は彼らに見張られながら寮に送り届けられた。
*****
部屋に帰るなり気絶するように眠りこんだ翌朝、部屋に入ってきた寮の監督生に叩き起こされた。その口うるさくもいつもと同じ朝の光景に、あれは悪夢だったのではないかと期待した。
しかし、クラスメイトたちが殿下とメルティがしばらく休むらしいと噂しているのを聞いて、あれは現実だったのだと心が沈んだ。
幸い、周りの関心は2人に向いていて、私のことは忘れられている。
けれど、あの夜何があったのか、2人はあの後どうなったのか。
何よりも、自業自得とはいえ王族を命の危険にさらしたことにどんな厳しい罰が下るのか。不安と恐怖で神経がすり減っていく。
そして、あの悪夢の夜から1週間が経った日。
私はネヴィス殿下に呼ばれて、良く殿下がメルティと出かけていたカフェの個室に呼び出された。
中に入ると、メイドと従者に囲まれてなぜかロズヴィータ公爵令嬢が座っていた。驚く私と目が合うと彼女は優雅に微笑んだ。
「ごきげんよう。今日は例の件についてあなたに話があって呼びました。楽にしてくださいな」
警戒しながら椅子に座るとロズヴィータ公爵令嬢はおっとりと話し出す。
「気がかりでしょうから、まずはあの日起こったことを説明しましょうか。
あの夜、ネヴィス殿下は友人のピレマー男爵令嬢に誘われて、個室で2人きりで過ごしていました。しかし、不運にも殿下の身を守る防御魔道具がピレマー嬢の毒を跳ね返し、彼女は亡くなりました。
ああ、殿下は無事ですわ。もっとも元の顔には戻れそうもありませんが」
「そ、そんなことはありえません!! メルティは普通の男爵令嬢ですし、親しくしている殿下に危害を加える理由はありませんっ。王族に毒をもるなどそんな恐ろしいこと、するはずがありません!!」
婚約者のロズヴィータ公爵令嬢には言えないがメルティが一番のパトロンを殺すなんてありえない。それに、万が一にでも毒を扱うような危険人物を王族と2人きりで会わせるように手引きしたと疑われたら、自分も破滅だ。
必死で反論するとロズヴィータ公爵令嬢は優しく微笑む。
「ええ、わかっていますわ。ピレマー嬢にとってネヴィス殿下は良き理解者であり支援者でした。殺すなどありえません。ですから、あの日のことはただの不幸な事故ですわ」
「不幸な事故……?」
ロズヴィータ公爵令嬢は相変わらず優し気に微笑んでいたが、なぜかその美しい笑顔に背筋が粟立つ。彼女は軽やかに告げた。
「ピレマー嬢はご自身の理想の美貌を作るために、日ごろから自分が生まれ育った国から化粧品を取り寄せて使っていました。しかし、その成分は生まれた時から慣れ親しんだ彼女にとっては有益な薬でも、耐性のない我が国の人々にとっては身体を蝕む猛毒になる物だったのです。
殿下はあの日、最高の化粧品で最上の肉体を作りあげた彼女と身体を重ねた。
けれども、彼女にとっては至高の美しさを引き出す化粧品は、殿下にとっては美貌と命を蝕む甘美な毒だった。
殿下を守る魔道具は彼が気づかずに体内にとりこんでしまった毒を跳ね返した。そして、長い年月をかけて毒になじんだ彼女も何倍にも濃縮された毒には耐えれず命を落としたのです。
ね、すべては不運な事故だったのです」
「あ、ああ……」
記憶の中の輝くようなメルティの笑顔があの夜の苦痛に歪んだおぞましい顔に塗り替えられていく。
私は頭を振って必死に本来の彼女の顔を取り戻そうとしたが、ロズヴィータ公爵令嬢は心に染み入るような甘い声で続ける。
「ふふふ、そんなに悲しむことはありませんわ。殿下は常日頃から『ピレマー嬢の国の文化を知り、その美を愛でるのが自分の使命だ』とおっしゃっていましたもの。
その言葉の通り、ご自身の個人資産のすべてを投げうって自ら見いだしたピレマー嬢の美を極限まで磨きぬき、完成した美を堪能したのです。殿下も本望を遂げられて満足していることでしょう」
その満足げな笑みにやっと気づく。
――まさか、最初からロズヴィータ公爵令嬢に仕組まれていたのか!?
思えば彼女はネヴィス殿下が欲しがるままに大金を与え、メルティとの付き合いも一度注意しただけで放っていた。
ロズヴィータ公爵家と王家の仲が冷え切っているのは有名だ。
彼女もまた嫌いな婚約者に無関心なだけだと思っていたが、それがメルティを利用して致命的な過ちを起こさせ、王命で押し付けられた厄介者との婚約を解消するために仕組まれたものだとしたら。
身の危険を感じて立ち上がろうとするも、いつの間にか従者が後ろに立っていて、動けないように肩を押さえられる。私は今さらながら罠にかかったことに気づいて身体が震えた。
「だいぶ遅いですがぎりぎり合格点を上げましょう。
さて、長くなりましたが本題に入りましょうか。
あの宿は我が家が経営する物件です。あなた方3人が来た時から起きたことは我が家の者がすべて見守っていました。
ですので、あの夜のできごとは我が家の者と王家、あなたしか知りません。
そして、王家はネヴィス第2王子殿下にとって大変不名誉な事故をもみ消してほしいと望み、我が家もいくつかの条件と引き換えに承知しました。
……ですが、そこで困ったことが起こりましたの」
ロズヴィータ公爵令嬢は悩ましげに眉をひそめた。
「ネヴィス殿下を溺愛している王妃様は、殿下がその自慢の美貌に生涯癒えない怪我を負われて落ち込んでいることに大層心を痛められていましてね。
殿下をそのような目に遭わせたピレマー男爵令嬢と家はもちろん、本来ならば関わることもない身分の不埒者を引き合わせた者も処罰すると意気込んでおられますの。
今、従者を始めとした身近な者たちは、王妃様の怒りを向けられないようにと、皆震え上がって身を隠していますのよ。そのうち交友関係も調べ上げられるでしょうね」
「わ、私は違います。殿下に命じられて動いていただけです!!」
私が必死に首を振るとロズヴィータ公爵令嬢はにっこりと笑った。
「ええ、把握しています。安心してくださいな。私はあなたを助けに来たのです」
「た、助けに?」
「ええ。調べたところ、あなたは交友関係が広く相手の意を汲んで動くのが得意だとか。確かに、あの気難しい殿下に気に入られるその働きぶりと忍耐力は素晴らしいですわ。
ですから、私もあなたを我が家の暗部に誘いに来ました。もし、引き受けてくれるのならば、我が家が後ろ盾になってあなたとルヴィド伯爵家を王妃様から守りますわ」
微笑んだロズヴィータ公爵令嬢はメイドから受け取った魔術誓約書をテーブルに置いた。
彼女の誘いを受ければ、王妃の理不尽な怒りを免れる代わりに一生公爵家の裏の仕事に使われる。
断れば、私と家族は殿下に危害を加えた者を手助けしたとして罰される。
――ああ、どうしてこんなことになったんだ。私はただメルティの笑顔が見たかっただけなのに。
心を奮い立たせようとメルティの笑顔を思い出そうとしても、輝かしい思い出はすべてあの夜の汚らわしい記憶に塗りつぶされてしまった。
自分らしく生きる幸せな未来を永遠に失った後悔とこれから常にある死の恐怖に心折れた私は、甘い毒を含んだ笑顔を浮かべる公爵令嬢に与えられたわずかな希望にすがりついた。
*****
王立公園は色とりどりのバラが咲いていた。
定番の白や赤、珍しい紫やチョコレート色。香水のような甘さや植物の瑞々しさを感じさせる爽やかな香り。
私はトーヴァル様と並んで可憐な名前がつけられたバラたち1つ1つをゆっくり見て回る。
「このバラ、形も色もアイスにそっくり。名前も似ているしこの花をモチーフにしているのかしら」
「そうだね。食べたらあの甘酸っぱい味がするのかな」
「ふふふ、そうだったらうれしいですわ。紅茶に浮かべたらきれいだし、おいしそう」
トーヴァル様のおっとりした笑顔につられて私も笑う。1つ年上の男性にこう言ったら失礼かもしれないけれど、天然な彼の目の付けどころは斬新でいつも楽しい。
それに私が笑えるようになったのもトーヴァル様のおかげだ。
オスクルム様と婚約破棄してから3ヶ月が経つ。
自分から別れを告げたのに、学園でメルティ様と一緒にいる幸せな姿を見るたびに心が傷ついた。
そして、殿下とメルティ様が2人一緒にいる時に不運にも火事に巻き込まれ、彼女は亡くなったと聞いた時。
気の毒に思う反面、未だに忘れられないオスクルム様のメルティ様に向ける甘やかで卑しい笑顔を見ずに済むと、ほっとした自分が嫌になった。
そんなある日、トーヴァル様は落ち込む私を約束通りバラ園に連れて行ってくれ、こう言った。
「今までバラというと赤やピンク色をしていて甘い香りがする花だと思っていたけれど。こうして見ると色も形も香りも1つ1つ違って、どの花もきれいだね。
特にこのバラ。黄色くて猫の頭ぐらい大きいなんて、バラというよりシャクヤクみたいだ。面白いな」
――ああ、そうなのね。私にとっては大きくて重たい花びらをきれいに咲かせたたくましいバラは、あなたにはそう見えるのね。
「どっちが大きいかな?」子どものようにニコニコ笑って花と自分の顔を並べるトーヴァル様に、私はオスクルム様に無視されて傷ついた心が癒えるのを感じた。そして「トーヴァル様の方が大きくて目立ちますわ。私はどうかしら?」笑いながら一緒に並んだ。
それからは時々トーヴァル様と出かけている。彼の笑顔にはだんだんと甘さが出てきて、自分でも恥ずかしいぐらいドキドキする。
今日も私は甘い笑顔を浮かべる彼にありったけの甘さをこめて笑顔を返す。お日様のような彼が大好きだとたっぷりの愛をこめて。




