言葉足らずもほどほどに
昔、道端で抜け殻を拾った。セミでも蛇でもない。骨と肉のある至極健康体の、でも抜け殻としか言いようのない人間を拾った。
抜け殻という言葉を人に適用するときに思い浮かべる、虚脱感なんかとは程遠い奴だったと思う。よく回る頭と飄々とした態度を持っていて、饒舌で活動的。
他人の目があるとき、常にそいつはそんな感じだった。しかし一度生じた2人きりの時間、あいつからは何かが抜け落ちる。
軽快だった語り口は鳴りを潜め、簡単な受け答えとつまりがちに単語を紡ぐだけに留まる。少々オーバーなほどおどけた動作は掻き消え、じっと何かに配慮するように動かなくなる。緩い弧を描いていた唇は薄く閉じられ、きょろきょろと動いていた黒目は濁って何も映さない。
ふとした瞬間、何もかもに関心を失ったかのように気怠げに瞼を落とす。不眠を極めていたあいつはそんなことをしても眠れないのに。
そんな状態であっても、よく動くのは変わらない。自分がやらなければいけないことは淡々と片付けていた。何かをギリギリで保っている精神で、テキパキと手際よく生活する乖離的な人間。
ギリギリで保っていた。人らしく生きていた。結果だけ見ればそうで、でも傍から見ていた俺にはどうしようもなく歪に見えた。必死で繕った外面から覗いたあいつの中身。それを見て俺は言う。
浅木紫乃はとっくのとうに抜け殻だった。あいつが今さら壊れることなんて有り得ない、と。
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家から追い出されて早数時間、凍死目前の私の前に神様が現れた。いっそ清々しいほどの哀れみの目に複雑な心境になりつつ、ありがたく施しを受け取る。
握ったまま開かなくなったと思っていた拳が解凍され、じわじわと体の末端から温められていく。マグカップに入ったコンポタがめちゃくちゃ尊いなにかに思えてきた。
「へぇ、新城くん大学生なんだぁ」
手持ち無沙汰に床に転がっていた学生証を指さしてそう言えばめんどくさそうに話に付き合ってくれた。
さすが、私よりちょっと年上なだけある。面倒見の良い彼に甘え、ずるずると居座り続けた。
成人していると嘘をついた。大丈夫だよ、探してくれるような人は私の周りにはいないから。
事実を伝えて身体のあちこちにある傷をちらつかせれば丸め込まれてくれた。怪我でもなんでも負っとくものだ。
私が消費する分の生活費を納め、学生生活で忙しい彼の一人暮らしを手伝う。それはちょっと泣きそうになるくらい楽しい日々だった。
家に帰ること、警察に相談すること、提案されたいろいろ全てにいやだと言った。傷と厳しいお財布事情と、か弱く見えるらしい私。使えるものは全て使ったとはいえ、どう見ても訳ありな女をよく泊めてくれたものだと思う。彼はどうしようもなくお人好しで良心的で、そして私はタイミングが良かった。多忙な彼の心の隙間に入り込んだ。
玄関に入るなり倒れ込んだとき、お風呂の中で眠って沈みかけたとき、終わらない課題に徹夜で向き合っているとき、あまりの多忙にいらいらして物を蹴り飛ばしたとき、ごく稀に酔いつぶれて帰ってきたとき。
残念ながら家事は全く役に立たなかったが、そういういろいろを手伝った。私が居着いたことに次第に何も言わなくなって、私は日々の楽しさを存分に味わった。積もっていく罪悪感には、騙し騙しやっていくことにして。
こういうことを繰り返して、きっとだめになっていく。わかっていたから1年経って私は彼のそばを離れた。
大学を卒業式して、これから社会に出ていく彼の横に縋り続ける自分はひどく醜く、かっこ悪く思えた。
彼の隣にいて私は幸せだったけど、頑張った彼の輝かしい未来に薄汚い私がいるのは想像できない。隣には居られないと結論付けてしまうと、何だか力が抜けてしまった。
一旦この幸せを知ってしまえば、もうあんな人生で息ができると思えなかった。最初はなかったものなのに、たった一年で随分弱くなったものだ。
新城悠真くんのそばを離れて実家に戻って、徹底的に消えることを選んだ。
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1年近く生活にどっぷり入り込んでいた女が消えても、俺の日常は変わらず回り続けた。忙しくて目新しくて、円滑に日々は過ぎていく。
いなくなった初めは動揺した。書き置きなんかを家で探して、連絡先ひとつ知らなかったことを後悔した。外を歩き回って探して、そしてそれ以上は何もしなかった。
彼女が自分に関して語ることはほとんどなかった。1度酒で酔っているとき、家族に関してのことで泣いていたがそれきりだ。よほど恥じたのかそれ以来酒を飲む姿は見ていない。
あれだけ嫌悪を示しておきながら実家に帰るイメージはつかなかったし、春で新生活が始まる時期だというのもある。成人しているという彼女が一人で生きていける目処でもついたのだろう。
なにか挨拶、相談があってもよかったのではと思うが、突飛な彼女のことだ。常識的な対応を望む方が間違っている。1年同居しておいて、俺があいつの行動心理を読めたことがあっただろうか。
知識を蓄えて、経験を積んで、社会の歯車として申し分なく働き、人と関わっていく。なんの問題もない日々で、でも少し足りない空白をあの女は残していった。時が経てば忘れる程度の傷を置き土産に、俺の人生からたった1年で退場していった。
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真冬、冷たい湯船に沈みながら考える。
1年に及ぶ奇妙な同居生活。悠真くんは終ぞ私に触れてくることはなかった。
すっ転んだところに善意で伸ばされた手にすら過剰反応を示す私への配慮か、よっぽど好みじゃなかったのかはわからないけど、まぁ前者だろう。
あぁ、でも、1度だけあった。
あまり得意でない上に好きでもないお酒。酔いつぶれた悠真くんを送り届けてくれた大学生たちの、あまりに楽しげな様子に興味が湧いた。ある日の深夜に、年齢への後ろめたさから電気を消して、人目をはばかるように飲んだ。アルコールは私に心地良い酔いなどくれず、そしてただひたすら感情のコントロールを掻き乱していってしまった。
普段全く思い出さない家族のことを思い浮かべた。それは搾取の日々を思い出すことと同義だった。
実の母に育てられた幼少期。機嫌の波の激しい母だったが、どんなにひどい言葉を浴びても手をあげられることだけはなかった。大きい物音に怯えても、落ち着いた彼女に涙ながらに抱きしめられればすぐに忘れた。だけど母は私を置いて蒸発した。戻ってきて抱きしめてくれさえすれば忘れられたのに、忘れることさえさせてくれないまま永遠に私の前から消えた。
その母の弟夫婦と、祖母に生かされた思春期。移り住んだ田舎の大きな家を、彼らのために整える日々のはじまり。そこで私は初めて暴力に出会った。
殴られると骨に響くし、蹴られると1回1回が意識が飛びそうに痛い。いびりというのかイジメというのか、なにかよく分からない不満のはけ口に徹していた。最低な人生だと思っていたがそこからさらに転がり落ちるのだから、人生何があるか本当にわからない。
祖母が死に弟夫婦が離婚した。私は叔父と二人きりで都会の汚くて小さなアパートに移り住んだ。
この日々の詳細なところは思い出せない。記憶が飛び飛びで、多分それをはっきり認識すれば私は死ぬ。
ただひとつ言えるのは、ボロいアパートでよかったということ。壁が薄くないときっともっと早くに私は殺されていただろう。
私が必死に上げた叫び声に、怪訝に思った大家がインターホンを鳴らしてくれた。一瞬緩んだ拘束の手を押しのけて、私は禁止されていた外に出た。反抗的な行動を、外の人を巻き込んでしたのは初めてだった。
激昂した叔父に、そんなに出たいなら出ろと深夜に追い出されてさ迷って、そこで、私は救いをもらった。
今に追いついた回想に、私は情緒をぐちゃぐちゃにされた。栓が外れたように泣いて、そのとき初めて彼が私に触れた。
冷たくて固い指先が私の眦を拭う。なおも止まらない涙を袖口で拾って、ずっとそうしていた。
始終無言で、それ以上の触れ合いはない。慰めてもらっておきながら、彼のことを不器用だと思った。
言葉による慰めはない。住む場所と穏やかな時間と、労わるように私に触れる冷たい指先が、ぼんやりとした灯りのようだと思った。紛れもなく、ろくでもなさすぎる私の人生で優しく光る一時だった。
真っ暗な浴室で冷水に浸かっている今でさえそう思うのだから、本当に。なんて優しい時間をくれる人だったんだろう。
人生で1番幸せな時に浸って、私は。
わたし、は、
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蒸発してから二年、再会した女は死んでいた。
通された病室で、浅木紫乃は窓の外を眺めていた。ベットに腰掛けていて、顔はこちらからは見えない。あの時から随分伸びた髪が病院着を着た肩から流れているのを見つめる。
握りしめた手のひらに爪がくい込んでいくのをどこか遠くで感じる。今すぐ問い詰めたかったのを、医者が告げた彼女の現状と、大家から聞いた彼女についての話がストップをかけた。
実家に戻った紫乃は、叔父にボコボコにされたのだと気の良さそうな大家は語った。曖昧な表現に濁したのは、死にそうな顔をしていた俺への気遣いだろう。
行動するのが遅かった。申し訳ないと謝られたが、俺に言われたって困る。本人に言ってくれ。紫乃に言えよ。なぁ。
人の気配を察知して、ゆっくりと女が振り向く。見慣れた顔立ちだが、何かが違うような気もする。二年という時間の経過によるものか、それとも。
「あ、れ」
「看護師さんじゃ、ないの?」
――違う、とわかった。顔も声も全部同じだけど。
「違うよ」
防衛機制だとか、幼児退行だとか、二重人格だとか。
心が壊れたんだと、誰かが言っていた。
何を思って実家に帰ったのか、俺は分からない。なぁ、あのとき是が非でもお前を探し出して引き止めればよかった。
「昔、お前と一緒に住んでたんだ」
忙殺されて余裕が無い俺に、たぶん人生で1番疲れていた時期の俺が生きるのを手伝ってくれた、お前を見殺しにせず済んだのに。
「新城悠真っていうんだけど、覚えてる?」
家事はしなかったし場所は取るし、介抱するとき以外は基本だらけていた。抜け殻みたいに生気がないときはぞっとしたし。
「しんじょう、ゆうま」
洗面所に置いたお前の化粧水、まだ捨てれてないよ。他にもいろいろ、目につくところに放置したまま。
「初耳……、だけど、今、覚えたよ?」
過去なんて、尋ねたことはない。でも狭いソファの隣に腰掛けたとき、髪に付いた糸くずを取ろうとしたとき、彼女は決まって身体を固くした。だから触れなかった。でも今は。お前が、違うって言うんなら。
伸ばした手に、何も反応しない。シーツの上に投げ出された手を握った。小さい。小さくて温かい。
「生きてる」
言葉にしてしまえば脆かった。崩れる、としか言いようのないほどに全身から力が抜けた。手を握ったまま、床にへたり込む。
触れてほしくないのだと、近づいてきて欲しくないのだと思っていた。たしかにそれは事実だったんだろうが、理解のあるふりをして俺は何も行動なかっただけだ。やりようはあったはずなのに。 お前は一人で死んで、抜け殻に新しい人格が宿った。
表情も話し方も、全部違うよ。お前じゃないよ。何も覚えていない。知らないんだ、あの一年間のこと、俺の事。聞けない。永遠に知ることができなくなったことがたくさん残った。
なぁ、なんで出ていったんだ?
「あ、の」
どれだけ動揺していようと、その声で呼びかけられれば顔を上げた。いつだって俺を宥めすかし、労わってきたまぎれもない、彼女の声。
「名前、を、呼んでみて、くれません、か」
たどたどしく紡がれる言葉の意味を咀嚼する。なんでと思った。なんで今。
お前はもう違うというのに。
「紫乃」
お前がお前であったとき、呼んだことのなかった名前。壊れて消えてしまってから呼んだ。なんで呼ばなかったかなんて深い理由はない。ただ、あいつが俺のことを名前で呼んだことがなかったから。
「紫乃、」
後手に回って、勝手にびびって、だから俺は。
「あ、ぁあ」
握りこんだ手が、俺の手を柔らかく握り返した。優しい力加減に、喉の奥で息を呑む。
「わかる、わかる、よ。」
優しく頭を抱き込まれた。触れられたのは、初めてだった。
「なんにも、わからなかったけど、これだけは」
頭の上から、優しい声音が降ってくる。作った声ではない、これほど穏やかなトーンも初めてだった。
「私じゃない、わたしを、紫乃、って」
うれしいよ。ありがとう、「悠真くん」。
細くて薄い身体を掻き抱く。なぁ、やっぱり俺たち変だったよな。あのときまだ未成年だったらしいじゃん。俺やばかったって。
お前が死んでから、お前じゃない人間を紫乃と呼んだ。紫乃じゃないお前に名前を呼ばれた。触れ合うのも偽りなく話すのも、何もかも遅すぎたけど、それでも。
柔らくて温かい。温度のある生きた人間。
砕けたお前の欠片が、紫乃の何処かにまだ残っているのなら。見殺しにした俺を赦してくれるというのなら、今度こそ、きっと。
「紫乃」
お前に付けられた、この終ぞ消えなかった傷跡をもって、もっと上手く愛してみせるから。その新しい笑い方で、どうか笑ってほしい。




