第四話 皇帝の過去
物心ついた頃には、自分は普通ではないのだと気づいていた。
覇権大国の皇子という身分、際立った美貌、そして英雄の生まれ変わりという立場。
それだけだったならば、父は自分を愛してくれただろうか。
だがそれらに付随していたのは、巫女士がもたらした予言。
『かの皇子は、十八歳になった時に必ずや父帝を殺す』
そんな予言を真に受けて、そして愛した妻の死の責任を求めて、自分を憎んだ父帝。
城で過ごす日々は、上辺だけで自分に媚びる人々と、自分を疎む父帝とその側近という、なんとも真逆なもので、心は早くに凍てついた。
あの城は、ひどく寒かった。
この城の中は、ひどく凍えていた。
「ゼロ」
その中で、唯一人自分を優しく呼んでくれた護衛騎士のランフォードの存在にどれほど救われたか。
そしてアルハルヴァ皇帝の宝剣、エヴァーグレイスは「頭の硬い奴だ」と最初こそ自分を揶揄いながらも、世話焼きの兄のように自分の悩みを聞いた。
この二人の存在がなければ、自分は氷のような人間になっていただろう。
それでも帝国唯一の皇子として、皇太子として、やるべきことは多くあり、そしていつしか背筋が凍るような美しい青年へと成長したゼロに欲と媚びを持って寄ってくる女性は多かった。
その瞳に映るのは大国の皇子という身分、そして絶世の美貌。それだけで、自分自身はなにも映っていない。
だからすっかり失望しきっていた。なにもかもに。
自分が心を許すのはランフォードとエヴァーグレイスだけ。
これからもそれでいいじゃないかと。そう諦めて。
媚びも欲もなく、自分を真っ直ぐに射貫く瞳を初めて見た。
はあ、と重苦しい息が口を吐いた。
『またため息』
傍らで、それを見て揶揄うように言ったのはエヴァーグレイスだ。
ここは皇帝の私室で、室内にはゼロとエヴァーグレイスしかいない。
『どうしたんだよゼロ。いつものお前だったら、国のためになんだってしただろう?』
ソファに腰掛けたゼロの悩みを的確に読んで、そう言ったエヴァーグレイスに胸がわずかに痛む。
『今回に限って、なにを躊躇ってんだよ』
「だが、彼女は異世界の人間だ。
望んでこの世界に来たわけではない」
口にしながら、なんて上滑りする言い訳だと思った。
『そんなのわかってて、召喚の儀式を行ったんだろ?
なにを今更。
ああ、あの嬢ちゃんがお前の美貌に夢中にならなかったからか?』
ゼロの腕の中にある宝剣は、けらけらと笑うように喋る。
『それで罪悪を覚えたのか? 良心の呵責が芽生えたか?』
「…どうだろうな。
私にもよくわからない」
その声には一切嘲笑が含まれていないとわかるから、正直に答えた。
「ただ、彼女の瞳はいつだって真っ直ぐ私を射貫く。
彼女の瞳は、決して欲や媚びで濁らない」
そう、いつだって真っ直ぐに、自分を見るあの目が。
「それが、私は心地よくて、もっと、その瞳を見ていたくて」
いつだって真っ直ぐに自分を案じる、あの声が。表情が、振り切れなくて。
一瞬その場に沈黙が落ちた。このおしゃべりな宝剣には珍しく、絶句しているようだ。
『ゼロ、お前、それ』
擦れた声でエヴァーグレイスがなにか言いかけた時だ。
部屋の扉がノックされ、ランフォードの声が響いた。
「皇帝陛下」
「ランフォード。どうした?
入っていい」
ゼロの返事に、扉が開いてランフォードがこちらに歩いてきた。
「隣国の王女殿下が、今国境まで来ていると手紙が。
おそらくアンテノーラ様の生まれ変わりの召還に成功したと知ったのでしょう」
「送り返せ」
「会うおつもりはないようですね」
そう苦笑するランフォードも、ゼロが会うとは微塵も思っていない様子だった。
ランフォードとて、親代わりに育てたゼロの容姿しか見ていない女を好ましくは思わないだろう。
「当然だ。私の容姿と皇帝という肩書きしか見ていない女、誰が会いたいものか。
それに、…今この国に来て、なにかあったらどうする。
それこそ国際問題だ」
「…そうですね。わかりました。そのように連絡を」
答えて背を向けたランフォードを見上げて、ソファから立ち上がるとその背中に手を当てる。ランフォードの足が止まった。
「ランフォード」
そう名を呼んで、その広い背中に頬を寄せる。
「私は冷たいか」
「…どうされましたか? 陛下」
「そうじゃない」
縋る。幼子が親にするように、そっと。
「そうじゃない。もっと、昔のように呼べ」
その声ににじんだ切なさに気づいたのか、ランフォードはわずかに迷った後、困ったように笑ってこちらを振り向いた。
そのときには、こちらを見下ろすまなざしは護衛騎士のものではなく、父親のそれになっていた。
「…どうした、ゼロ」
そう、慈しむ声で名を呼んで、そっと大きな手で頭を撫でる。
「私は、冷酷か」
それに甘えて、弱音が口を吐く。
「いいや、皇帝として当然の振る舞いだ。
お前はなにも間違ったことはしていない。
隣国の王女殿下の身を、危険にさらすことは出来ない」
「私が、本当はその王女が死のうがどうでもいいと思っていてもか」
「ああ。
だってその王女は、お前のことを真っ直ぐに見つめてはくれないだろう?」
ランフォードは迷わずそう返す。それが事実だからだ。
「いつだって、お前の周りの女がお前を真っ直ぐに見つめることはなかった。
テイラーは、ああ、あれは若干例外だが、あれはあれで生まれが特殊だからな…」
不意に例外に気づいてランフォードは困った表情になったが、それも一瞬だ。
「それにテイラーは、媚びこそないがお前を皇帝以外の存在としては見ないだろうからな。
そうだ。だから、猫衣殿だけなんだ。
お前を、ただのゼロとして真っ直ぐ射貫いたのは」
親としてずっとゼロを見ていた。だからこそ、ゼロの思いをすぐに理解出来る。
彼だけが。
「そうだろう? ゼロ。
だからお前は迷っている。
いつも、民のために自分の感情すら殺すお前が、自分の感情を殺しきれない」
「私は」
「ゼロ。いいんだ。
たまには、ただの男になったっていい」
迷うゼロの心を見透かして、ランフォードは優しく微笑む。
「お前が本当に望むことを」
「出来ない」
そのまま、その優しさに甘えてしまえればよかっただろう。
けれど、それがゼロには出来なかった。
「そんなこと、出来ようもない」
か細い声でも、必死に否定する。拒絶する。
「私は、ゼロ・アイズ・スノーサハラ。
この国の皇帝だ。
民の命を預かる私が、自分の感情だけで生きていいはずがないんだ。
たとえ、どんなに」
喉が詰まる。胸にせり上がった熱い感情に。
「どんなに」
それ以上を、決して口にしてはいけないのに。
「なあ、ランフォード」
不意にふ、と自嘲を浮かべて、窓の外に視線を投げてゼロは笑った。
「この国を平和にして、全てが終わった時に、そこに彼女はいると思うか?」
「それは」
お前はいない。きっと、いない。
「全てが終わった時、きっと」
寂しげに、わかりきった事実のようにゼロは告げる。
「私の隣に、彼女がいることはないんだ」
そう、永別を口にするように。
ランフォードと別れた後、猫衣と梟の部屋に行くとそこには猫衣一人だけだった。
「梟は」
「一依さんと街を散歩ですって。
あの二人、馬が合うみたい」
「そうか。ミス・テイラーは特に誰にも関心を示さなかったが」
ゼロは意外そうに目を瞬く。
街に行っているのは問題ではあるが、貴族たちも猫衣のおまけのように召還された梟をおそらく認識していないだろうし、大きな問題ではないだろう。
「ミス・テイラー? 部下をそんな呼び方してるの?」
猫衣はゼロの呼称を聞いて、ベッドに腰掛けたまま尋ねる。
「ああ、ミス・テイラーは東の大陸の公爵家の生まれでな、東の大陸のさる王室に嫁ぐことが決まっているとの噂だ」
「噂」
「そう、噂。だが本人が特に否定していないから、そういった話はあるのだろう。
そのご令嬢が、この大陸になぜ来て護衛騎士などやる気になったのか不明な部分はあるが、少なくともこの帝国と私に害意も好意もないからな。
そういう意味で重用しているよ」
一依は確かに特異な存在ではあるが、ゼロに対して深い関心も持っていない。
あの目は、自分を真っ直ぐに見つめたりはしない。
だから、ああ、そうだ。今のように、いつだって。
自分を真っ直ぐ見つめるのは、彼女だけで。
「ふうん」
思案に沈みかけたゼロの意識を引っ張ったのは、やけに低い猫衣の声だった。
「猫衣?」
「なに?」
「なに、ということはないが、急に不機嫌になっていないか?」
なにか怒らせることを言ったか?とゼロは困惑する。
「なってない」
「なっているだろう」
「なってないったら」
猫衣は頑なに否定するが、その態度こそが答えだ。
「猫衣。
すまない。私は、なにか言葉を間違えただろうか。
こういうことに、私は疎くてだな。
気分を害するようなことを言っていたなら、悪いと」
おろおろと謝ったゼロの様子を見上げて、猫衣は目をまん丸にする。
そういう表情をすると、名前の通り猫のようだ。
「あなたって、そうやってすぐに反省するのね」
そう、意外そうに呟く。
「それは、そうだろう。自分の間違いを認められない人間が国を治めるべきではない」
「そうじゃないわよ。こんな異世界の小娘に対してまで、いろいろ気にして気遣って」
「それは、当然だろう。
私の勝手でこんなことになっている」
猫衣が異世界の人間だから、気遣わなくていいという道理はない。
ゼロの言葉に猫衣はベッドから立ち上がってこちらに向き直る。
「あなたの勝手じゃないでしょう?
国の危機なら、あなたの自分勝手ではないはずよ。違う?」
「それは」
その通りだ、と思ったから即答出来なくて、口ごもったゼロを見て猫衣はなんだか仕方ないなあ、というように笑みを零した。
まるで、ただの同い年の青年に対するような表情だ。
「本当に、変な人」
そう言って、可笑しそうに笑う、顔。
ああ、これだ。自分を何者だとか、まるで気にしない振る舞い、態度、視線。
これが、いつだって心地よくて、安らいで。その瞳に見つめられると嬉しくて。
「たとえ話をしてもいいか」
「なに?」
「もしも、私が猫衣の世界の住人だったら」
「あなたみたいな目立つ人、こっちの世界にいたら大騒ぎよ」
肩をすくめた猫衣の言葉に出鼻をくじかれながら、必死で言いたいことを頭の中でまとめる。いつもの冷静な自分らしくなく、思考がすぐに迷子になりそうだ。
言いたいことなら沢山あるのに、なにを言ったら彼女が笑ってくれるのか、そんな簡単なことがわからない。
「ともかく、いたら、だな」
咳払いをして、仕切り直す。真っ直ぐ背筋を伸ばして見つめた。
「猫衣は、私の友人になってくれただろうか」
「なにそれ」
かなりの勇気を振り絞ったのに、猫衣は目をぱちくりとさせて呆気にとられる。
「そ、そうだな。すまない。おかしなことを」
急激に恥ずかしくなって、馬鹿なことを言ったと撤回しようとしたのに。
「あなたが普通に友人になって欲しいって言うなら、なったわよ。
おかしなことを言うのね」
「は」
そう、なんてことはないように返されて、呼吸が止まる。
「いきなり結婚とか言うからびっくりするんでしょ。
友達から始まるなら私だって拒絶したりしないわよ。
お互いをよく知った上でなら、結婚の話だってまあ、話は変わるんじゃ」
言いながら気恥ずかしくなったのか猫衣の頬が少し赤くなる。
それを見たら、甘酸っぱい感情で胸がいっぱいになって、気づいたら笑っていた。
「ふっ、ふふふふ」
「どうしたの?」
「いや、参った」
そんなことを、一切の欲も媚びも打算もなく、言う女性を初めて目にした。
普通に出会って、友達になって、そうして恋をするなら、当たり前のことなのだと。
「猫衣、どうしよう」
そう、心底参ったように吐露する。
「私は、猫衣にずっとここにいて欲しい」
無理だと、わかっているのに。
その頃、城下街の道を歩きながら、梟は顎に手を当てて悩んでいた。
「うーん」
なんだろう。すごく、すごく違和感がある。
「梟。そろそろ戻りましょう。
なにかあったら大変です」
護衛騎士としてそばにいる一依の声に、くすりと笑って彼女を見上げる。
「そう言いながらついてきてくれるくせに」
「それは、心配ですから」
そう答える一依の言葉に嘘はないのだろう。
でも、隠していることがある。
「じゃあ質問、この帝国の危機ってなに?」
その言葉に、一依が息を呑んだ。
「見るからに平和で活気がある。
危機に瀕しているようには見えない。
なのに猫衣を呼ぶほどの危機がある。
どういうこと?」
「それは」
「教えて」
視線が交わる。梟の瞳の真剣さに気づいて、一依はしばらく黙っていたがやがて諦めたようにため息を吐いた。
「…そうですね。もう潮時です。
陛下には、不安にさせるからなるべく伏せろと言われて来ましたが」
そう白旗を揚げると、真っ直ぐ梟を見下ろして口を開いた。
「実は、この国は」
だが言い終わる前に響いたのは、耳をつんざくような破壊音と、人々の悲鳴だった。




