第三話 猫衣の葛藤
最上階の部屋のバルコニー。
そこに佇んで、広がるオードクロス帝国の街並を眺めていた。
賑やかに見える街を行き交う人々は平和そのものだ。
ただ、視界の隅に引っかかったのは、街からそう離れていない場所にある森。
広大な森の木々の色が緑ならなにも気にしないが、森の木々や葉の色が気味が悪いほどに真っ白だ。だから最初は森だと気づかなかった。
「…なんだろ。あそこ」
猫衣がそう呟いた時だ。きぃ、と部屋とバルコニーを繋ぐ窓が開いた。
「お悩みだねえ、猫衣ちゃん」
バルコニーに足を降ろしたのは梟だ。その顔は笑っているが決して軽薄ではない。
「それやめて」
茶化す時にしかちゃん付けをしない兄だ。だが今回は、茶化すというより猫衣の気を紛らわすためなのだろう。
「だって、悩むしかないでしょう?」
その上で、梟の話に乗っかった。この兄は妹を気遣っていることを悟られるのが苦手だから。
「民があんなに喜ぶってことは、この国にはなにか事情があるのよ。
なのに、諦めるなんて」
それに、そう、諦めるとゼロは言ったけれど、本当にそれでいいの?
街は賑わっているけれど、それがなんの心配もない豊かな国の風景には見えなくて。
「皇帝はああ言うけど、どうしたらいいんだろう。
ここで帰ったら、いや、帰る方法があるのかもわからないけど」
「帰ったら、あの皇帝たちとは二度と会えないね」
その言葉に猫衣はぐっと言葉に詰まる。
出会ったばかりの時、あまりな対応に思わず叩いてしまったけれど、自分は決してゼロのことが嫌いではないのだ。
「………ちょっと話してくる」
「はいはい」
長考した後、背を向けてバルコニーから室内に戻った妹を見送って、梟は猫衣の眺めていた街並みと純白の森を見る。
最上階とは言うが、ある階から上のことをそう呼んでいるらしい。
梟たちのいる階は最上階から四階下のフロアだ。
ゼロの言う「最上階」は一番上から六階下までの区域。
ここはゼロとランフォード、そして一依たち気心の知れた近衛騎士しか入れないらしい。
「さて、どうするかな」
猫衣は散々悩んで、皇帝の私室の前まで来ていた。
ここまで来たけどなにをするの?
だからその、話よ。話をするのよ。そう、話を。
話をして、どうするんだろう。
そう悩んだけど、結論が出ないため扉の前で棒立ちになっていた時だ。
『だからよぉ~、まどろっこしいんだよお前のやり方は』
不意に室内から響いてきた男の声にびくりと肩が跳ねた。
ゼロの声ではない。
ゼロの声は凜とした涼やかな響きの少し高めの声だが、先ほど聞こえた男の声は低く、どこかなにかを通して響いたような音だった。
例えるなら、マイクを通し、そこにノイズをかけたような、そんな機械的な。
「そう言うな」
『言いたくなるってんだよ。
口説くならちゃんと口説け。
国の存亡の危機だろうが』
次いで聞こえた声はゼロのものだ。
ゼロが、その不思議な声の持ち主と会話をしている。
「どうかな」
ふっと、どこか弱さを垣間見せるようなゼロの声音にどきりとした。
まるでなにもかもどうでもいいと、諦めてしまうかのような声に聞こえたから。
「アルハルヴァ皇帝とアンテノーラ様の目指した国は失われても、オードクロス帝国は残るかもしれないが」
誰と話してる? 近衛騎士の誰か?
にしてはずいぶんと気安い。
『それが嫌だから戦ってんだろ。なあゼロよぉ』
軽薄な響きの声がそう言って、一瞬の沈黙の後に、
『お前もそう思わねえか? お嬢ちゃん』
そうこちらに向けて言ったので呼吸が止まった。
ゼロの声も止まって、足音がこちらに近づいてくる。扉が開いた。
「…いたのか」
そう零したゼロの表情は怒っておらず、むしろ気づかなかった自分の失態を恥じるような表情だった。
「…ごめん、なさい。立ち聞きしちゃって」
「いや、構わない。…私に用事があったのだろう?
入るといい」
ゼロは優しい声でそう言うと、猫衣を室内に招いた。
室内にあるのはしつらえの立派な本棚に一杯の書物と、絨毯の敷かれた上に置かれた白色に輝く美しいテーブル、その左右に並ぶアンティークもののソファに、その奥に立派な机と椅子。壁に飾られた絵画は見事な筆致で、天井にも天使を描いたかのような絵がある。
「なにか飲むか?」
ゼロが机の上に置かれたポッドを手に取ったので、頷きそうになって困った。
「いや、………そういうのって皇帝陛下自らするものなの?」
「この状況下だからな。
ハーブティーを淹れる。待っていろ」
「はあ」
なんだか気が抜けてしまって、そう言うしかない。
立って待っているのもゼロが気に病みそうに思えて、ソファに腰掛けた。
「というか、今、誰と話を」
『俺様とだろうなぁ』
室内にはゼロの姿しかなかった。じゃあ先ほどの男の声は誰だ?
そう思った猫衣は、すぐそばから聞こえたその声に硬直する。
「…え」
今、どこから声がした?
軽妙な声は、やはり機械的な響きだ。
『ここだ。ここ。目の前』
声に従って視線を動かし、あるものにぶつかって猫衣は息を呑んだ。
声の聞こえる場所にあるもの、それは煌びやかな装飾の大振りの──剣。
「剣!?」
『そうだ。よう初めまして?
アンテノーラの生まれ変わりの嬢ちゃん』
改めて直視してみれば、確かにその声は目の前の大剣から聞こえる。
どこか不思議な響きの機械的な声が、人間のものではないという証左のようだ。
「剣が喋った!?」
『おう喋る喋る。俺様はアルハルヴァ皇帝の宝剣だからなあ』
「こら、エヴァーグレイス。いじめるな」
ひっくり返った声を上げた猫衣に剣が得意げに笑い、ハーブティーの入ったカップを手にゼロが窘めた。
ゼロは猫衣の前にカップを置くと、猫衣の向かいに腰を下ろす。
『いじめてねえよ。脅かしただけだ』
「似たようなものだろう」
ため息を吐いたゼロは、猫衣の物言いたげな視線に気づいたのか笑ってくれた。
「彼はエヴァーグレイス。
アルハルヴァ皇帝の宝剣だ。
それ故、普通の剣とは少々異なっていてな」
「少々で片付けていいの…?」
「私にとってはこれが普通だから…」
「はあ」
普通、なのだろうか。剣が喋っているのに。
いやでも、ラノベでは割と喋る剣ってよくあるかも。
そう現実逃避気味に考えた時だ。
『で、嬢ちゃんはゼロと結婚したいのか? したくないのか?』
この剣──エヴァーグレイスという名らしい──に言われて飲もうとしたハーブティーを零すところだった。
「エヴァーグレイス。そういうことを聞くな。
彼女が困る」
『困ることかねえ』
「そうだろう。なあ?」
ゼロの中では猫衣が困ることは決定事項のようだ。
それはそれでなんだか腹が立つのだが、困っているのは事実だ。
なんだろう。この不可解な感情は。
「え、あ、まあ」
『ふうん? そう?』
ぎこちなく答えた猫衣に、エヴァーグレイスはわざとらしい口調だ。
ゼロがそれに眉を寄せた。
「なにか言いたげだな」
『本当に困ってるなら「嫌だ」って即答しそうなものだがな』
そう言われて呼吸が止まった。
そう、だ。本当に困っていたから最初は嫌だと即答出来た。
じゃあ今、どうして同じことが出来ない?
『嬢ちゃんよ。一応言っておく』
先ほどまでの軽妙な響きを捨てて、真剣な声音でエヴァーグレイスが言う。
『嫌なら嫌って言っちまえ。ゼロは嬢ちゃんには理解出来ない重たいもんを背負ってるんだ。アンテノーラの生まれ変わりってだけの嬢ちゃんが一緒に背負うこたぁない。
そうだろ? 嬢ちゃん』
どうして、迷うんだろう。
ゼロが、「面白い」と笑ったから? 自分を気遣って「諦める」と言ったから?
「…皇帝、陛下はどう思うの?」
そう、どこか縋るようにゼロに尋ねたのは、もしかしたら逃げだったのかもしれない。
ゼロはひどく整った顔にかすかに驚きをにじませた後に、寂しげに苦笑する。
「…そうだな。私も、そう思う」
そう、確かに彼は頷いたのだ。
皇帝の私室を飛び出すように出て、猫衣は広いフロアをひたすら歩いていた。
部屋に戻る気もない。自室に戻ったら梟に当たってしまう。
なにそれ。なにそれ。なにそれ。
最初の威勢の良さはどこに行ったの。
そりゃあ私は三次元のイケメンはお断りよ。
だからって国の民の危機なんだろうに、私の気持ちを慮ってる場合?
「なによ、馬鹿」
「なにがですかな」
「うわっ」
足を止めてぼそっと詰った瞬間、頭上から渋い声が聞こえて飛び上がるほど驚いた。
まるで周囲に気を配れていなかったが、目の前にはあのゼロの護衛騎士が立っている。
「ら、ランフォードさん」
「これは失礼しました。突然声をおかけして」
「い、いいえ、大丈夫です」
ランフォードとしても普通に声を掛けたつもりが、猫衣が予想外に驚いたものだから心配している様子だった。
「なにかありましたか?」
「え」
「顔色が良くない」
そう、気遣う。気遣われるたびに、なんだか寂しくなる。
ゼロもだ。自分を気遣って、遠ざけて、それでなにか解決するの?
蚊帳の外にするなら、どうして召還したの。
そう八つ当たりめいた感情で思う。
「…梟から、聞いたんです」
けれどそれはそのまま言葉にはならず、代わりに出て来たのは兄から聞いた話。
一つでも多く知りたい、あの皇帝の断片。
「ランフォードさんは皇帝陛下の親代わりだったって」
「はい。恐れ多くも」
「皇帝陛下は、どんな人なんですか?」
ランフォードは四十代くらいに見える。なら、ゼロが本当に幼い頃からそばに仕えていたのだろう。
猫衣に聞かれてかすかに目を瞬いたランフォードは、ふっと微笑んで唇を開いた。
「…ご立派な方です」
そう、ひどく優しく、誇らしげな表情で。
「民のため、国のために尽くそうとなさる、誠実な方です」
「じゃあ」
口を開いたのに、喉に声が引っかかる。
これを、言ってしまうのがなぜか怖い。
「じゃあ、あなたを諦めると仰いましたか?」
「わかるんですかっ!?」
喉の奥で息絶えようとした言葉を継いだのはランフォードだった。
彼はわかりきった様子で頷く。
「親代わりですから。これでも。
あの方の言いそうなことなら」
「だって、どうするんですか。
民へのお披露目までしちゃったのに」
だってあんなに民が喜んでいた。
その対象が自分だという実感はまだ湧かないけれど、それでもその事実を嘘にしてしまったら、ゼロはどうなるんだろう。
「それなのですが、どうもきな臭い」
だがランフォードは表情を引き締めると、小声でそう囁いた。
「あなたを皇妃に望む者の仕業とは、考えにくいのですよ」
「…そ、れは、私が、危ないということですか」
声が擦れる。命の危機なんて、元の世界で感じたことがなかった。
だからまだどこか、非現実的に思えた。
「それもあります」
「それも…?」
「一つ、恐れ多くも親代わりとして言わせてください」
ランフォードは静かに、懇々と訴えるような響きで言葉にした。
「皇帝陛下は、お寂しい方です。
幼い頃よりお命を狙われ、私だけに心を許して生きて来られた。
母君を生まれてすぐ亡くされ、父君は…」
「…父君、は?」
声を途切れさせたランフォードに、思わず聞いてしまった。
多分、聞かないほうが良いとわかっていたことだったのに。
「先代皇帝は、皇帝陛下に情がなかったって」
なぜ、聞いたのだろう。尋ねてしまったのだろう。
自分でもわからないのに、知りたかった。
あの皇帝のことを、一つでも多く知りたかった。
ランフォードは言いよどんだ後に、意を決したように口を開く。
「…先代皇帝は、…皇帝陛下のお命を狙いました。
返り討ちにする形で、先代皇帝を殺したのが、…陛下」
その事実に息を呑む。
そんな、ひどいことってない。
親に殺されそうになって、結果親を殺してしまうなんて。
思わず自身の口を両手で押さえた猫衣を見下ろし、ランフォードは悲しげに微笑む。
「陛下は親殺しの罪を背負っていらっしゃる。
あなたは、そんな方の妻となれますか?」
それは、その言葉とは裏腹に、ゼロへの深い慈愛がにじんでいた。




