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ドアマット令嬢と始まりの魔法

第一部:『透明』な令嬢


磨き上げられたマホガニーのテーブルは、鏡のように天井の豪奢なシャンデリアの光を映し返していた。銀食器の触れ合う澄んだ音、香ばしい焼きたてのパンの香り、そして壁にかけられた歴代当主の肖像画の静かな視線。クラウゼル侯爵家の朝食は、いつだって完璧な調和の中にあった。ただ一点、カタリナ・フォン・クラウゼルという存在を除いては。


「――それで父様、先日お話しした東方交易の関税の件ですが、やはり王家は強硬な姿勢を崩さないおつもりでしょうか」


絹のように滑らかな声でそう言ったのは、カタリナの姉イザベラだった。陽光を弾くプラチナブロンドの髪、自信に満ちたサファイアの瞳。彼女が発言するだけで、食卓の空気は華やぎ、そして引き締まる。


「うむ。財務卿も頭を抱えておったわ。だが、これも第二王子であるユリウス殿下の意向が強く働いていると聞く。イザベラ、お前ならば殿下を説得できるのではないか?」


父であるクラウゼル侯爵が、バターを塗ったパンを口に運びながら期待に満ちた眼差しを長女に向ける。彼の視界に、その隣に座る次女の姿は入っていない。


「ええ、父様。次の観劇の折にでも、それとなくお話してみますわ。ユリウス様も、国益を損なうことはお望みでないはずですもの」


優雅に微笑むイザベラに、侯爵は満足げに頷いた。母もまた、「まあ、さすがはイザベラね。あなたならきっと大丈夫よ」と嬉しそうに相槌を打つ。


家族の会話は、国の政治経済、そして次の夜会でイザベラが着るべきドレスのデザインへと淀みなく流れていく。まるでそこに、カタリナという人間が存在しないかのように。彼女は美しい絵画の中に紛れ込んでしまった、取るに足らない染みのような存在だった。


(あの、私も…)


先日読んだ書物に、関税に関する興味深い記述があったのを思い出し、カタリナは蚊の鳴くような声で口を開いた。


「あの、父様……その件でしたら、古い文献に隣国との協定で……」


「ああ、そうだイザベラ。夜会で着るドレスだが、先日帝国から取り寄せた『夜空の絹』を使わせよう。お前の美しい髪には、きっとあの深い藍色が映えるだろう」


カタリナの言葉は、父の声にかき消された。いや、そもそも聞こえてすらいないのだ。彼女の声だけが、この食卓の調和を乱す不協和音として、誰の耳にも届くことなく霧散していく。いつものことだった。


給仕が静かな足取りで、紅茶を注ぎに回る。父に、母に、そしてイザベラに。恭しくカップが満たされていく。そしてカタリナの番は、いつも一番最後。まるで「ついで」のように、あるいは義務として仕方なく注がれる紅茶。湯気の立たなくなったぬるい液体が、カタリナの心を映しているようだった。


彼女は俯き、ただ静かにスプーンでスープを口に運ぶ。味はしない。食事は生命を維持するための作業でしかなく、会話は自分以外の人間が奏でる音楽を聞く時間だった。この家で彼女は『透明』だった。そこにいても誰にも認識されない。その事実に、もう涙すら湧かなかった。冷めていく紅茶の水面に映る自分の顔は、ひどく曖昧で色褪せて見えた。


味のしない食事を終え、カタリナは誰に挨拶するでもなく静かに席を立った。彼女が部屋に戻ろうと、その場からいなくなろうと、家族の楽しげな会話が途切れることはない。それが、ここでの彼女の立ち位置だった。


陽光がステンドグラスを通り抜け、床の絨毯に七色の模様を描いている。塵一つない、磨き上げられた長い廊下。カタリナは壁に寄り添うように足音を殺して歩く。自分の存在を少しでも希薄にするために。この家で波風を立てずに生きるには、息を潜め影になるのが一番だった。


廊下の角を曲がろうとした時、侍女たちのひそひそとした話し声が耳に届き、カタリナは思わず足を止めた。柱の影に隠れるように身を寄せると、悪意という名の細い針のような言葉たちが、彼女の鼓膜を突き刺した。


「ご覧になった? 今朝の食事の時も、カタリナ様はまるで置物のようだったわ」


「本当に。才色兼備でいらっしゃるイザベラ様とは、同じご両親から生まれたとは到底思えないわね。一体どこで間違ってしまわれたのかしら」


「王子様とのご婚約だって、あれは本来イザベラ様へのお話だったのを、イザベラ様が『妹にも何か誇れるものを』と殿下にお願いしてくださったからだそうよ。イザベラ様の威光がなければ、あり得なかったことだわ」


心臓が冷たい水に浸されたように、じわりと冷えていく。知っていた。そんな噂は、ずっと前から耳にしていた。だが、こうしてはっきりと他人の口から語られると、その言葉は現実の重みを持って、カタリナの全身にのしかかってくる。


「いつも俯いてばかりで、見ているこちらが息が詰まるわ。もっと堂々とされればよろしいのに」


「無理よ、あの方には。侯爵様も奥様も、もう何も期待なさっていないもの。ただユリウス殿下のご機嫌を損ねないことだけを祈っているのよ」


ああ、そうなのだ。私は家族にとって「ユリウス殿下のご機嫌を損ねるかもしれない厄介事」でしかない。姉の慈悲によって与えられた婚約。それだけが、私の唯一の価値。


侍女たちの足音が遠ざかっていく。カタリナはしばらく柱の影で動けなかった。涙は出なかった。あまりに長い間、同じような言葉を浴びせられ続け、心の涙腺はとうに枯れ果ててしまっていた。彼女は何も言わず、ただ来た道を引き返し、自室へと向かう足を速めた。窓の外の庭園では、色とりどりの花が咲き誇っている。その鮮やかな色彩が、モノクロームになった彼女の世界を、ひどく残酷に際立たせていた。


週に一度の王宮への訪問。それはカタリナにとって、裁判所へ引き立てられる罪人のような心境にさせる憂鬱な義務だった。婚約者であるユリウス第二王子への儀礼的な挨拶。たったそれだけのことなのに、王宮へ向かう馬車の揺れは、彼女の胃をギリギリと締め付けた。


王宮の一室、ユリウスの執務室は、彼の性格をそのまま表したかのように豪華でありながら、冷たく威圧的な空気に満ちていた。カタリナが侍従に案内されて入室し、カーテシーと共に挨拶をしても、ユリウスは山積みの書類に目を通したまま、顔を上げることすらなかった。ただ、羽根ペンの走るカリカリという音だけが、部屋の静寂を支配している。


カタリナは、父から託されたクラウゼル侯爵家の定期報告書を胸に抱えたまま立ち尽くす。何か話すべきだろうか。天候のことでも? しかし、何を話しても、この氷のような沈黙を破れるとは思えなかった。


永遠にも思える時間が過ぎた後、ユリウスは溜息と共にようやくペンを置いた。だが、その視線はカタリナではなく、窓の外に向けられている。


「……用件はなんだ」


まるで道端の石にでも話しかけるような、感情のこもらない声だった。


「あ、あの……父より定期報告書を預かってまいりました」


震える手で書類を差し出す。ユリウスはそれに一瞥をくれると、忌々しげに舌打ちをした。


「チッ……そこに置いておけ」


机の端を顎でしゃくってみせる。カタリナがおずおずと書類を置くと、彼はそれをひったくるように取り、中身も見ずに脇へ放り投げた。まるで汚物でも扱うかのように。


「用はそれだけか? なら、さっさと失せろ。貴様の陰気な顔を見ていると虫唾が走る」


その言葉は刃となって、カタリナの胸に突き刺さった。しかし彼女にできるのは、ただ俯いて「失礼いたします」と囁き、その後ずさるように退室することだけだった。


扉が閉まる直前、ユリウスの独り言が聞こえた。


「なぜ私がこんな女の相手をせねばならんのだ。イザベラならば、もっと有益な話もできようものを……」


扉が重い音を立てて閉まる。完全に閉ざされた扉は、カタリナとユリウスの関係そのものだった。彼にとって自分は、カタリナ・フォン・クラウゼルという名の人間ではない。ただ、クラウゼル侯爵家との繋がりを示すためだけの、名前と家名が記された『契約書』なのだ。時が来れば、姉のイザベラという、より価値のある『契約書』と交換される仮初めの紙切れ。


王宮からの帰り道、馬車の窓から見える王都の街並みは、ひどく色褪せて見えた。人々は笑い、語らい、生きている。その当たり前の光景が、自分だけが属することのできない、遠い世界の出来事のように感じられた。


建国記念祭を数日後に控えたその夜、王宮では前祝いとして小規模な夜会が催された。小規模とは名ばかりで、広間は着飾った貴族たちで埋め尽くされ、楽団の奏でる優雅なワルツと人々の楽しげな笑い声が渦を巻いていた。


カタリナは、そんな光の渦に入っていくことができず、いつものように壁際に佇んでいた。姉のイザベラから半ば無理やり着せられた流行りのドレスは、まるで借り物のように体に馴染まず、落ち着かない。


「まあ、ご覧になって。あの方、またいらっしゃるのね」


「壁の花というより、壁のシミですわね。夜会の雰囲気が暗くなるわ」


扇で口元を隠しながら交わされる悪意に満ちた囁き声。もう慣れてしまったはずなのに、聞くたびに心の表面が少しずつ削られていくような感覚がした。誰もがカタリナを遠巻きにし、腫れ物に触るかのように避けていく。


ふと視線を上げると、広間の中心で姉のイザベラが太陽のように輝いていた。騎士や令息たちに囲まれ、自信に満ち溢れた笑顔で談笑している。誰もが彼女の美しさと聡明さを讃え、その言葉に聞き入っている。あの光が強ければ強いほど、自分の影はより一層濃く、惨めになるようだった。


『ドアマット令嬢』


いつからか社交界で囁かれるようになった、不名誉なあだ名。誰もが自分を踏み台にして、姉のイザベラへと賞賛を届ける。誰もが自分を蔑むことで、自らの立場を確認する。その事実を、カタリナ自身も痛いほど知っていた。


その時だった。若い令息の一人が、シャンパンのグラスを片手に友人たちと笑いながら、カタリナのすぐ側を通り過ぎた。そして、まるで気づかなかったかのように、わざとらしく彼女にぶつかったのだ。


「わっ!」


冷たい液体が、カタリナのドレスの胸元を濡らす。淡い水色のシルクに、黄金色の染みが無残に広がった。


「おっと、これは失礼。申し訳ありません、お嬢さん。そこにいらっしゃるとは、全く見えませんでしたので」


令息は口では謝りながらも、その目は全く笑っていなかった。むしろ、侮蔑と嘲笑の色が浮かんでいる。周囲の令嬢たちが、くすくすと笑いを堪えているのが見えた。


「いえ……わたくしこそ申し訳ありません……」


カタリナは俯いたまま、そう答えることしかできなかった。反論する気力も、権利も自分にはないと思っていた。染みのついたドレスを隠すように腕で胸元を覆い、逃げるようにその場を離れる。


向かった先のテラスで、一人、冷たい夜風に当たる。濡れたドレスが肌に張り付いて冷たい。だがそれ以上に、心が凍てついていた。誰も助けてはくれない。誰も心配などしてくれない。この世界で自分は、たった一人なのだ。見上げると、空には無数の星が輝いていた。あの星々はそれぞれが光を放っているのに、どうして自分だけが光ることのできない、ただの影なのだろうか。深い、深い孤独が、カタリナの全身を包み込んでいた。


第二部:錆び付いた絶望


建国記念の夜会は、国の威信をかけて催される一年で最も華やかな祝祭だった。王宮の大広間は、これまでの夜会とは比べ物にならないほどの熱気と輝きに満ちている。数え切れないほどのシャンデリアが星々のように煌めき、人々の宝石や笑顔を照らし出していた。


カタリナは、その圧倒的な光の洪水の中で溺れそうになるのを、必死に堪えていた。家族、侍女、婚約者、社交界の人々。これまでの人生で受け続けてきた無数の侮辱と無視が、亡霊のように彼女の脳裏をかすめては消える。深い絶望と無力感が、鉛のように手足に絡みついていた。


もう何も期待しない。何も望まない。ただ、この夜会が嵐が過ぎ去るのを待つように、静かに終わってくれることだけを願っていた。


だが、運命は彼女にほんの少しの安寧すら与えてはくれなかった。楽団の演奏がふと止んだ。ざわめきに満ちていた広間が、水を打ったように静まり返る。全ての視線が一点に集中した。カタリナの前に、ユリウス第二王子が冷たい怒りを湛えた表情で立っていた。


「カタリナ・フォン・クラウゼル」


名を呼ばれ、カタリナの心臓が大きく跳ねた。ユリウスは、まるで断罪の宣告でもするかのように、大広間に響き渡る声で言い放った。


「聞け、諸君! このカタリナ・フォン・クラウゼルは、その陰鬱な性格と無能さで、次期国王たる私の妃に全くもって相応しくない! よって、神聖なる王家の名において、貴様との婚約を今この時をもって破棄する!」


衝撃が音となって、広間を揺るがした。驚き、好奇、そして何よりも濃密な嘲笑の視線が、無数の槍となってカタリナに突き刺さる。頭が真っ白になり、血の気が引いていく。立っているのがやっとだった。


なぜ。なぜこんな大勢の前で。


かろうじて視線を上げたカタリナの目に、信じられない光景が映った。少し離れた場所でユリウスの言葉を聞いている父と母。彼らは驚きもせず、ただ苦々しい顔で事の成り行きを見守っているだけだった。そしてその隣に立つ姉のイザベラ。彼女はカタリナと目が合うと、その美しい唇を紛れもない嘲笑の形に歪めてみせたのだ。


知っていたのだ。家族全員が、この屈辱的な茶番劇を知っていた。そして、誰も自分を助けようとはしなかった。


ぷつりと。


カタリナの中で、かろうじて繋がっていた最後の糸が音を立てて切れた。家族からの決定的な裏切り。それは彼女の心を支えていた最後の柱を、根元からへし折るのに十分な威力を持っていた。


「なぜ……」


ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いて、ひび割れていた。ユリウスはそんな彼女の絶望を、心底楽しむかのように吐き捨てる。


「なぜだと? 愚かな女め。私の隣に立つべきは、貴様のような出来損ないではない。この国の至宝、才色兼備と名高いイザベラこそが相応しいのだ!」


ああ、そうか。やはりそうだったのか。自分はただ、姉がその座に就くまでの一時的な『繋ぎ』でしかなかったのだ。全てが腑に落ちると同時に、足元から世界が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。


逆上したユリウスの狂気は、まだ収まらなかった。彼はもはや何の抵抗もできずに立ち尽くすカタリナを見下ろし、さらに侮辱の言葉を重ねる。


「国の恥である貴様のような存在は、いっそここで消え失せるべきだ!」


その言葉と共に、ユリウスは腰に佩いていた儀礼用の剣を抜き放った。周囲から、悲鳴とも驚きともつかない声が上がる。磨き上げられた白銀の刀身がシャンデリアの光を反射して、カタリナの瞳を焼いた。


切っ先が寸分の狂いもなく、彼女の喉元に突きつけられる。ひやりとした金属の感触。死の恐怖が背筋を駆け上った。


だが不思議なことに、その恐怖を上回る感情が、カタリナの心を支配していた。


(ああ、これで終われる)


(この苦しみから、やっと解放される)


家族に疎まれ、婚約者に蔑まれ、世界中から嘲笑され続けた人生。もううんざりだった。死ぬことすら、甘美な救済のように思えた。


カタリナの視界が、まるで時が止まったかのようにスローモーションになる。目の前で歪んだ喜悦に顔を濡らすユリウス。遠くで眉一つ動かさずにこちらを見ている父と母。そして、勝ち誇った笑みを浮かべる姉イザベラ。


この世界が憎い。私を虐げた全てが憎い。


(何もかも、消えてしまえ)


その願いが明確な意思として心に浮かんだ、まさにその刹那だった。


キィン――と、金属が軋むような甲高い音が響いた。カタリナの喉元に突きつけられていた剣。その輝く刀身に、黒い蜘蛛の巣のような亀裂が走った。


「なっ……!?」


ユリウスが驚愕に目を見開く。彼の目の前で、信じられない現象が進行していた。亀裂は瞬く間に剣全体に広がり、その美しい白銀の輝きは、まるで千年の時を経たかのように急速に赤黒い錆へと変わっていく。病が肉体を蝕むかのように、剣はその形を保てなくなっていく。


そして――


サラサラ……サラサラサラ……


まるで砂の城が風に吹かれて崩れるように、剣は音もなくその形を失い、錆びた鉄の粉となって、床の深紅の絨毯の上に降り積もった。


柄だけを握りしめたまま、ユリウスは呆然と立ち尽くしている。大広間は死んだような静寂に包まれていた。誰もが目の前で起きた超常の現象を理解できず、息を飲んでいる。


「……魔女だ」


誰かがそう呟いた。その一言が、恐怖の導火線に火をつけた。「呪われている……」「クラウゼル家の娘は魔女だったのか!」という囁きが、燎原の火のように広がっていく。


その全ての喧騒の中心で、カタリナはただ一人、虚ろな瞳で床に積もった鉄の粉を見つめていた。何が起きたのかは分からない。だが、心の奥底で凍てついていた何かが静かに溶け出していくような、奇妙な満足感が生まれていた。


それがこの世界で初めて『魔法』が顕現した瞬間であり、彼女の絶望が世界を覆す力へと変わった、始まりの瞬間だった。


第三部:追放された魔女


静寂は、恐怖に満ちた怒号によって破られた。


「衛兵! 何をしている! その魔女を捕らえろ!」


我に返ったユリウスの絶叫が大広間に響き渡る。衛兵たちが戸惑いながらも、カタリナを取り囲んだ。彼女は抵抗しなかった。いや、抵抗する気力もなかった。乱暴に腕を掴まれ、引きずられるようにして連行されていく。


その間、父であるクラウゼル侯爵は、ただ「我が家の名誉が……」と顔を青くして呟くだけで、娘を庇う素振りも見せなかった。母と姉は、まるで汚物でも見るかのような冷たい視線を彼女に向けるだけだった。家族の誰も、彼女を助けようとはしなかった。


カタリナは王宮の北の塔、光の届かない石造りの牢獄に幽閉された。冷たく湿った空気が肌を刺し、鉄格子の嵌まった小さな窓からは空のかけらしか見えない。日に一度、硬いパンと水だけが、床の小窓から無造作に差し入れられる。


最初の数日は恐怖と混乱で、まともに思考することもできなかった。だが時間が経つにつれ、彼女の心は奇妙な静けさを取り戻していった。もう誰もいない。誰も私の心を削る言葉を投げかけてはこない。誰の冷たい視線に怯えることもない。この孤独は、皮肉にも彼女に初めての安らぎを与えていた。


しかし外の世界では、カタリナが起こした現象が「クラウゼルの呪い」として瞬く間に国中に広まり、人々の恐怖を際限なく煽っていた。剣を錆びさせて崩す得体の知れない力。それは、神の秩序に反する悪魔の所業だと見なされた。


「魔女を火あぶりにしろ!」


「あんな化け物を王都に置いておけるか!」


「呪いが国中に蔓延するぞ! 今すぐ追い出せ!」


窓の外から聞こえてくる民衆の怒声は、日に日に大きくなっていった。恐怖はいつしか憎悪に変わり、大規模な暴動へと発展した。王家も、この国民感情を無視することはできなかった。


幽閉されてから一月が経った頃、牢を訪れたのは国王の名代だという役人だった。彼は終始カタリナから距離を取り、恐怖と侮蔑に満ちた目で一枚の羊皮紙を読み上げた。


「――カタリナ・フォン・クラウゼルを『国を脅かす魔女』として、永久に王国より追放するものとする」


国外追放。それは事実上の死刑宣告に等しかった。知らせを聞いた時も、カタリナの心は凪いでいた。家族は誰一人として彼女に会いに来ることはなかった。彼女は家族からも、国からも完全に見捨てられたのだ。その事実が、彼女の中に残っていた最後の未練を綺麗さっぱりと断ち切った。


追放の日、カタリナは囚人用の粗末な服を着せられ、一台の屋根のない荷馬車に乗せられた。王都を抜ける道中、沿道に集まった民衆から石や腐った野菜が投げつけられた。額に当たった石が生温かい血を流したが、痛みは感じなかった。


何日もかけて馬車に揺られ、着いた先は、吹き荒ぶ風が砂塵を巻き上げる不毛の荒野だった。ここが王国の国境だった。


「ここで降りろ。二度とこの国の土を踏むな、魔女め」


御者はそう吐き捨てると、カタリナを荷台から突き落とし、空になった馬車を U ターンさせて、あっという間に走り去っていった。


後に残されたのは、カタリナただ一人。見渡す限り、乾いた大地と低い丘が続くだけ。着の身着のまま、食料も水もない。全てを失い、生きる気力も生きる術も失った彼女は、その場に崩れるように座り込んだ。


(このまま、ここで死ぬのだろうか)


それは不思議と怖くはなかった。むしろ、ようやく全てが終わるのだという安堵感すらあった。


カタリナが静かに目を閉じ、意識を手放そうとしていた、その時だった。地平線の彼方から地響きと共に、黒い影が近づいてくるのが見えた。それは十数騎からなる一団の騎馬隊だった。彼らの掲げる旗はこの国のものではない。黒地に金色の獅子が描かれた勇壮な紋章――それは隣国にして大陸最強の軍事大国「ガルバニア帝国」の国旗だった。


騎馬隊はカタリナを取り囲むように止まると、その中から一人の男がゆっくりと馬を降りた。黒銀の精緻な鎧に身を包み、腰には長剣を佩いている。夜の闇を溶かし込んだような黒髪に、血のように赤い瞳。彫刻のように整った顔立ちは、人間離れした美しさと、全てを見透かすような冷徹さを宿していた。その圧倒的な存在感に、カタリナは息を飲んだ。


男はカタリナの目の前まで歩み寄ると、値踏みするように彼女を上から下まで見つめた。


「お前が、カタリナ・フォン・クラウゼルか」


彼の声には、恐怖も侮蔑も同情もなかった。ただ純粋な好奇心と、獲物を見つけた狩人のような響きがあった。


カタリナは答えられずにいる。男は構わず続けた。


「剣を一瞬にして錆びさせたというのは本当か」


その問いに、カタリナはこくりと頷いた。男の赤い瞳が、興味深そうに細められる。


「ほう……。噂は真実だったか。愚かな王国は、とんでもない宝を自ら手放したものだ」


男は満足げに口の端を吊り上げると、恭しく胸に手を当てて名乗った。


「俺はアレクシス・フォン・ガルバニア。ガルバニア帝国が皇子である」


帝国皇子。その言葉に、カタリナは目を見開いた。なぜそんな大物がこんな場所に。アレクシスの言葉は、彼女の疑問に答えるものだった。


「お前の噂を聞いて、はるばる迎えに来てやった。恐怖に駆られた愚民どもには理解できんだろうが、その力は呪いなどではない。世界を変える新たな可能性だ」


そう言うと、アレクシスは革手袋に包まれた手をカタリナに向かって差し伸べた。


「その力、我が帝国のために使え。この俺がお前に新たな居場所と、誰もがお前を無視できなくなるほどの価値を与えてやる」


差し伸べられた手。これまで誰にも差し伸べられることのなかった手。初めて、自分を『無価値な存在』としてではない目で見る人間。


カタリナは目の前の男の赤い瞳をじっと見つめた。その瞳の中に映っているのは、もはや『透明』な令嬢ではなかった。未知の力を秘めた、一人の人間としての自分がいた。荒野を吹き抜ける風が、彼女の汚れた髪を揺らす。


ゆっくりと震える手を伸ばし、カタリナはアレクシスの手を固く握り返した。その瞬間、彼女の瞳に、絶望の淵で一度は失ったはずの微かな光が再び宿った。それは復讐か、あるいは自己の証明か。まだ形を成さない、しかし確かな意志の光だった。


ドアマット令嬢の物語はここで終わり、世界で唯一の魔法使いの物語が、今、この荒野から始まろうとしていた。

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