7
遊園地を出てから四時間ほどが過ぎて、外はとっくに闇に包まれていた。
僕らは今、バスの中にいた。
それも市営バスの類ではなく、遠距離移動用の高速バスだ。
あの後、夕食がてら明日の行き先について話し合った。無論、彼女は僕に全て任せると言ってきたので、僕の中で辛うじてあった行きたい場所を選んだ。
今日はホテルに泊まって明日の朝移動する手もあったけど、ホテル代と時間短縮のため、こうして二人とも初の深夜バスに乗った。
幸いにもバス利用者向けのシャワールームがあったので利用させてもらい、その後も待合室でしばらく雑談した。彼女は日記をつけたり、僕は持ち合わせていた小説を読んで時間を潰していたのだけど、溜まった疲れと風呂上がり特有の眠気のせいで、途中何度も意識を失いかけたものだ。
彼女から起こすから寝てればと提案されたものの、僕はなんとか耐え忍んだ。
そして辿り着いた、安眠の地、
「うっ……まじかこれ……」
のはずが、僕にとっては第二の試練だった。
遊園地で酔った次はバス酔い。つくづく僕は乗り物の運がないらしい。
「大丈夫? 窓側代わろうか?」
「大丈夫……多分においのせいだからすぐ慣れ……うっ」
「やっぱ代わるよ。ほら早く」
「ごめん」
シートにぐったりと倒れこむ僕に、見かねた彼女は立ち上がる。
今の彼女は眼鏡を掛けていた。縁の太い赤色のやつ。普段はコンタクトだけど、夜だけはいつも眼鏡を使っているのだと自慢げに教えてくれた。
「眼鏡掛けると知的に見えるって言うけど、君はそうならないのが不思議だよね」
「何か言った?」
ぼそりと呟いた僕のそれは、彼女には上手く届かなかったらしい。
「人は見かけによらないなって」
「君が曖昧なこと言う時ってなんか怪しいんだよなぁ……あ、足元の荷物いい?」
微妙に勘付かれたみたいだけど、それよりバッグの方が彼女の中で優先順位が高かった。
バッグの持ち手に結んでいたカーディガンを纏ってから、再びバッグは彼女の足元に。
今彼女が着たカーディガン、あれは僕が渡したものだ。
カーディガン無しの彼女の服装はといえば、半袖シャツにデニムのショートパンツと、これまた露出が多いものだった。
本人は気にしていなかったようだけど、一般的で健全な男子高校生であり、彼女の身体的問題を気にしてしまう僕からすると、否が応にも気に掛かってしまう。
空き時間の内に近くのデパートに赴き、今日付き合ってくれたお礼という名目でプレゼントしたというわけだ。色は夏っぽく水色にした。
席を代わってもらい、走り出したバスに身を揺られることしばし。
目を瞑ってどうにか慣れようとしている僕に、控えめな声が横から飛んできた。
「なんか、君は苦手なものとかなさそうだと思ってた。冷静沈着で、頭良さそうなイメージで、なんでも出来そうな人だと思ってたから、ちょっと意外。あ、でも子供っぽいところは可愛げあるかも」
最後のは余計だ、と思ったけど、今怒れる気はしなかった。
「そういう君は、怖いもの知らずみたいな人に見えるけど?」
「あ、起きてたんだ」
「いや、すごく眠い」
薄らと開いた瞳を眠気に任せて閉じ、徐々に意識が遠のいていくのを感じる。
「そんなことないよ。私だって、怖いものくらいあるよ」
その声を残して、何も聞こえなくなった。
静寂、静寂、時折バスが揺れて、また静寂に満ちる。
そしてふと、落ちかけていた意識に、一つの波紋が広がった。
「まだ起きてる……?」
肘掛に置いていた僕の手の上に、囁くような声とともに彼女の手が触れてきたからだ。
そして意識の中に、さらに二つ三つと波紋が生まれる。
震えていたのだ、彼女の手が。冷たくも、寒くもないのに。
さっき渡したカーディガンを、嬉しいことにさっそく着てくれているのだから。
ついさっきの言葉が蘇る。
怖いものくらいあるよ、と。
そうだ。怖いはずがない。僕は失念してしまっていた。
彼女が笑っていても、楽しそうにしていても、嬉しそうにしていても。
彼女が犯した罪と記憶は、決して消えることはないのだ。
思考が嫌に活性化していく中、不意に波紋が消えていく。
触れていた手が離れたと思えば、ふにっと。今度は頰を指で突かれた。
それについ、目を開けてしまう。
「やっぱ起きてた」
窓に映った彼女の瞳と、窓の方を向く僕の瞳が合う。笑っていた。
首を反対側に曲げ、今度は直接目を向けた。見えたのは、やはり同じの笑顔。
「私ね、怖いけど心配はしてないよ。君と約束したから」
その言葉に疑念の一切がなかった。けど、だからこそ僕にはそれが怖かった。
「君は僕を疑わないの? 約束だって、形だけのもので中身は何も言ってないのに」
「君は疑って欲しいの?」
「いや、そうじゃないけど」
「別にいいんだよ。最期は変わらない、君は私を死なせてくれる。そうでしょ?」
申し訳なさと恐怖の入り混じった、自分でも理解できない感情がぐるぐると渦巻く。
「……約束は守るよ。絶対に」
そんな無責任な言葉しか彼女に掛けてあげられないことが、苦しい。
それしか出来ないと分かっていてもなお、割り切れないでいる自分が嫌になる。
「ありがと。信じてる」
彼女の浮かべた空っぽの笑顔を見たのを最後に、僕の意識の糸は途切れた。
今まで一度も、僕らは互いの名前について言及してこなかった。
まだたった一日。されど一日。その違和感には彼女も気付いているはずだ。
けれどその上で、僕らは聞こうとは思わない。きっとこれからもそうだろう。
僕らの関係は、友人でもなければ彼氏彼女の仲でもない。
約束なんて聞こえのいい、利害の一致から生まれた合理的な関係だ。
だから互いに名前を知っては、深い関係性を築いてはならない。
僕はいずれ彼女を殺す。その妨げになるような感情を抱いてはならない。
故に、僕らは名前を聞くようなことはしない。
知る必要はなく、互いを呼ぶ際もそう苦労するものではない。
僕にとって彼女は『君』で、彼女にとって僕は『君』で。
たったそれだけ。
簡単なことだろう。
真夜中だった。
ポケットの中の携帯が振動して、浅い眠りから起こされる。
画面から漏れる明かりを覆いながら電源をつけると、何やらニュースの速報が入っていた。通知を切っておくべきだったか。変な時間に起きてしまった。
何気なくその通知をスライドして、ニュースの画面を開く。
「——」
頭の中が真っ白に染まった。
ドクンドクン。心臓の音で我に返る。手のひらに嫌な汗がじわりと湧いてくる。遣り場のない感情に視線を逸らすと、隣に座る彼女に目が移る。
シートは硬くて眠りづらいというのに、すーすーと寝息を立てて気持ちよさそうに寝ていた。安眠できているのが羨ましくなった。
そしてまた、ニュースの画面を見つめる。
分かっていた。決して避けては通れない道だと。いつか訪れる事だと。
この残酷な世界は、心を知らずに牙を剥く。
罪人には罰を。そんな必然は、正義を謳った理不尽を振りかざす。
そして、僕らの約束に小さな亀裂を入れていく。