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昨日の雨とは正反対の、雲一つない快晴の夏日だった。
今日から迎えた夏休みの午後、書店での暇つぶしを終えた帰り道のことだ。
大通りの車の騒がしさでイヤホンからはまともに音が聞こえてこない。元より聞く気もなかったので、安物のイヤホンを雑にポケットに押し込んだ。
ちらりと横目を向ければ、コンビニの前で屯っている高校生たちが騒がしくしている。
格別興味を惹かれるような面白い話ではない。夏休みの宿題面倒だとか。この後どこ行くとか。そんな他愛ない話。
「夏休み……か」
ぽつりと独り言ちたその声を聞届けるものは一人としていない。
彼らの声を遮るように、現実の音を掻き消すように、またイヤホンで耳を塞いだ。
その呟きで思い出す。あれから経った二年は、もうと言うべきか、まだと言うべきか。
いい思い出ではなかった。けれどやはり、この時期になると思い出してしまう。
元々通っていた高校をたった四ヶ月で辞め、今住んでいる場所に引っ越して転校してきたのが二年前の高校一年生の夏休みが始まる一週間ほど前のこと。
微妙な時期なだけあって、新しい高校に通うのは夏休み明けからか、すぐ通うか、自分に選択権があったものだから、私情雑念含めてかなり迷った。
結局は、新しい環境に慣れるべきだと担任に勧められて週明けから通うことにしたのだけど、その選択は間違えだったのだろう。
四ヶ月ともなれば、クラス内でのグループ関係はとっくに完成している頃。元から人間関係を作るのがあまり得意ではなく、かつ急な転校にある私情も相まって、新たな生活への一歩を踏み外し、早々にしてクラス内での孤立を果たした。
斯くして、現在進行形で同じ状況が続いている今は。
やはり少し、なにかが物足りないというか。
まあ、その……なんだ。
要するに、暇なのだ。特に夏休みみたいな長期休暇は。
独りは独りで楽ではあるけど、楽であることと楽しいことはイコールではない。
基本一日の大半を家の中で過ごし、出かけるとしても、今日のように近所の本屋か、徒歩圏内にあるデパート程度。あとはバイトを入れてたくらい。
それも繰り返せば味もなくなってくる。一層暇になりそうな今年の夏を思えば、憂鬱に思えて当然だった。
陰鬱な思いに耽りつつコンビニの横を通り過ぎ、大通りから住宅街の方へ。
車道を挟んで向かいには、木々と、中途半端な細い道の整備された森林。
そこそこな都会だというのに自然が残っているのだから、引っ越してきた当時は意外に思ったけど、改めて思うとそれが良いのだと感じる。
静かで、平穏で、何もないぴったりな場所だと、そう感じるから。
騒がしいようやくイヤホンの音が聞こえてくるようになった、その時、
「……?」
バンッと、突として響いた低く鈍い音がすぐに音楽を掻き消した。
足を止めて音の方に振り向く。
音の正体が扉の強く締められたものだと気付いたのは、住宅街の一角から、家を飛び出してきたらしき彼女を目にしてからだった。
親と喧嘩でもしたのだろうか。
彼女のことを僕は知っていた。確か同じ学校の生徒で、数度見たことある程度だったけれど。クラスも違えば名前も何も知らない。
休日なのに制服だったが、休み期間でも部活やらと活動はあるのでおかしくない。目を留めたのは、彼女の服装がやけに乱れて、汚れているように見えたからだ。
彼女は両方の腕で何度も目元を拭いながら、履きかけのローファーで走り出そうとするものだから、転びそうになりながら僕のいる方向に走ってくる。
ロクに前も見ずに走っているものだから、僕がいることに全く気付いていない様子。取り敢えず一歩後ろに下がり、当然と僕の一歩前を彼女が走り抜ける。
ピッと、彼女が通り過ぎた時、ナニカが僕の頰に飛び散った。
そのまま車道に飛び出した彼女は、車の急停止にも目をくれず森の中に姿を消す。
クラクションが耳を劈く。そしてまた、住宅街は静まり返った。
何事もなかったかのようなその場で、僕は頰に飛んだナニカに触れた。
水にしてはどこか生温かく、粘り気のあるナニカ。
親指で拭い取り目の前に持ってきて見やると、指の腹には赤いものが付いている。
「ナニカ」ではない。紛れもなく、
「は?」
血だった。
固まりかけで粘着質の、赤黒い血。
絵の具でも、血糊でもない、鉄の匂いがする、血。
ならあの汚れは、きっと。
見間違いだと脳の錯覚を疑い、だがそうではないと、一瞬遅れて理解する。
理解して、けど、動けなかった。
どうすればいいのか、と。脳がただひたすらに問いを繰り返すだけ。
警察か救急車を呼んで、それでどうする? なんて説明すればいい?
誰か周りの人に、いや、同じだ。
そうして出した答えが正しかったのか、今となっても分からない。
見て見ぬ振りをして、その場を去るという選択肢はなかった。
僕は彼女の後を追った。
□
不幸中の幸いと表すべきか否か、いくつか道別れのある森の中でも、彼女の進んだ方向はすぐに分かった。昨日の雨のおかげでまだ地面が泥濘んでいて足跡が残っていたのだ。滑ったように広がった足跡を途中何度も目にした。
転ばないよう慎重に、正体の分からない感情に焦りながら、小走りに進んでいく。
程なくして足を止めたのは、階段を登りきった先の最奥に近い土道の途中だった。
地面に座り込む彼女は息を切らせ、嗚咽を漏らしている。
その背を捉えては一度足を止め、今度はゆっくりと音を潜めて。
ビシャッ……と。
そう自分に言い聞かせた瞬間、注意の逸れていた足元で水溜りが大仰に弾かれた。
「誰……!」
ビクリと肩を跳ねさせ振り返ってくる彼女の視線から逃げる術はなかった。
固まった僕を見つめてくる瞳に映るは、敵意、警戒、恐怖、そして懇願。
怯え震え、萎縮し涙をこぼすその姿に、僕は思わず目を見開く。
前々から見えてはいたけど、見ようとはしなかった、全身が痣だらけの彼女の姿を。
ただ、悲惨な姿はそれだけに留まらなかった。
彼女の乱れた制服や髪、泥塗れの、痣だらけの身体は然る事ながら、彼女の白いワイシャツを、頰を、手のひらを染め上げる、彼女のものではない赤い血を、目の前にしてしまっては。
ドクンと心が強く脈打ったのは、彼女の揺れる瞳を見て。
その目を、僕は知っていたから。多分、今浮かべている彼女以上に。
だから、なんとなくだけど、どんな感情が彼女の中で蠢いているのかも。
「いっ……それ以上、近づか、ないで……!」
泥がこびりついて重くなった足を、更に一歩進める。
それに彼女はまた身体を震わせ、絞り出した声で必死に訴えてくる。
血への恐怖も、焦る感情も、疾うに僕の中からは消えていた。
取り戻した怖いほどの冷静さに、脳は回り出す。彼女を見据え、ゆっくりと、一歩を進める。
「い、やっ…………」
一歩。階段の最後の一段を登り終える。
「やめて……来ないで……っ!」
更に一歩。大きく、音を立てず、彼女との距離を詰める。
「なんで……いや、いやだ……っ!」
一歩を重ね、重ね、ゆっくりと着実に近づく。
その一歩を最後に、僕は足を止めた。
もう、詰めることのできない、彼女の目の前で。
後ずさろうとする彼女も、だが力が全く入らなくては、ただ土を撫でるだけだった。
そんな彼女を前に、ドクンドクンと脈動が速まるのを感じる。
感情は膨れ上がり、躊躇う理性をも押し潰して、僕に口を開かせ、
「君は、」
「それ以上——ッ!」
ヒュ、と銀色の光が空を切った。
「それ以上……私に少しでも近づいたら、貴方もこれで……!」
僕に真っ直ぐと突きつけられた。
包丁だった。
あまりにも日常で見慣れた、けれど血がべっとりと張り付いた凶器。
一瞬、吐き出しかけた息が喉が詰まった。全身の毛が逆立つような感覚を覚え、一筋の冷や汗が頬を伝う。
けれど、言葉通りほんの一瞬だけのこと。
あまりにも脆くて、簡単に折れてしまいそうなその殺意では到底人を殺せるものではない。そう思えては、恐怖など生まれてこなかった。おまけに包丁を持つ手は酷く震え、腕は曲がって縮こまり、腰は完全に引けている。
「近づいたら、僕も殺す?」
ボロボロと涙をこぼす彼女をこれ以上怯えさせるのは、流石に気が引けた。
伸ばしかけていた手を引っ込めると、彼女の手から力が抜け、包丁が抜け落ちる。
「お願い、だから……もう、やめて……来ないで……近くにいないで…………」
僕と彼女の間で包丁は土まみれになっていた。
「こんな私を、見ないで…………」
土と泥と、血で心まで汚れきった彼女の言葉を、僕は黙って聞いていた。
それから長い時間が過ぎた。
ここは森の中だ。森に入った時には太陽の光が鬱陶しく感じられたのに、今や木漏れ日の色は紅くなり、濃い影が地面に広がりつつある。
その間ずっと、僕は彼女のそばにいた。
彼女が何も言わなくなって、啜り泣く声だけが聞こえるようになっても、まだ。
それは決して、哀れみでも慈悲でもなく、ただ待っていた。
それと少し、おかしい話かもしれないけど、この場所が心地よく感じた。
森の静けさが、葉のさざめき。けれどそのどれも、彼女が一緒にいるからこその感情なのだろう。
「うっ……っ…………ぐずっ…………」
彼女を視界の隅に置いて、ふっと息を吐き出す。
彼女もずっとこうしている気は無いのだろうけど、僕も僕で、よくこんなに長い時間待っていられたものだ。とはいえ、さすがに待ち過ぎた。
彼女の傍に落ちた包丁の柄を握り、手元に寄せる。
「あっ…………」
すると彼女が微かに目を見開き、指をピクリと動かした。次いで顔を上げて怯えた目で見てくるのに、僕はあくまで、平坦な声で告げる。
「別に君を殺そうってわけじゃないんだから。それともそんな大事なものだったなら……ほら、返すよ」
前髪で隠れた瞳を覗かせ、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
「っ……! っ……!」
ブンブンと強く頭を左右に振っては、脱力した腕を地面に垂らす。
自分で返すと言っておきながら、嫌味なことを口にしたと自覚する。
こんなもの、欲しがる人なんているはずないのに。
「……朝、起きたら、休みだからって起きるのが遅いって、お父さんに怒鳴られて、」
唐突に、途切れ途切れの言葉で、彼女は話し始めた。
「遅くまで宿題進めてたからって言い訳したら、お父さんの機嫌が悪くなって、いつもみたいに、頰を叩かれて、お腹とか、背中とか殴られて」
彼女の声の震えが、身体の震えが一層増す。
思い浮かべる記憶に顔を青ざめさせながら、それでも必死に続ける。
「まただ、って、いつものことだ、って、我慢しようとした……けど、できなかった」
す、と彼女の視線が足元の包丁に落とされる。
「気付いたら、包丁でお父さんを刺し殺してた。それだけじゃない、いつも見て見ぬ振りをしてるお母さんのことも、止めに入ってきたのを……刺してた」
やっぱり、彼女は人を殺したのだ。
負の感情が湧いてくるわけでも、その話に震え慄くわけでもなく。
真っ先にその言葉が浮かんできたことに、我ながらに酷く呆れた。
「だから、私は死ななきゃいけないのっ! 人殺しの私にもう居場所なんかどこにもないの …! もうほっといてよ、お願いだからここから消えて!」
「……そう。君は、死にたいんだ」
「何が言いたいの……? 私にはもうそうするしかないの……っ!」
「……そう」
自分に言い聞かせるよう、同じ言葉を反芻する。
それが彼女の答えなのだと。納得してそれで終わり。
待っていたものはあまりにも簡単に分かって、ここにいる理由はもうない。
ならば彼女の要望通り、ここから消えてあげよう。
その日の夜は雨が降った。予報とは的外れの、大降りの雨が。
帰って思い出したポケットのイヤホンを取り出すと、今まさに感じているものを形に表すかのように、ぐちゃぐちゃに絡まっていた。