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君は僕と旅する。僕は君を死なせる。  作者: キオ


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「ごちそうさまでしたー。あー、お腹いっぱい」


 テーブルの上の空になったプラスチック容器を前に、行儀よく彼女は手を合わせる。


 あれから僕らは、駅近くのビジネスホテルにチェックインした。


 綺麗だったとはいえ、濡れたのは川の水だ。先に風呂に入るように言ったけど、お腹が空いたの一点張りをする彼女に根負けし、ベッドには絶対に触れないことを条件に先に夕食を取ることになった。


「それじゃ、先シャワー借りるね」


「ごゆっくり。僕はのんびり食べてるよ」


 パジャマを持って脱衣所に入っていき、上機嫌に鼻歌が聞こえてくる。


 扉の閉まった脱衣所から手元の弁当に視線を戻し、白米を口に運んでからテレビのチャンネルを変える。多分嫌に意識してのことなのだろうけど、ニュース番組には変えなかった。


「ごめーん、私のカバンからピンクのポーチ取ってくれない?」


 扉の向こうから、くぐもった彼女の声がした。分かった、と答えてから、僅かに抵抗感を持ちつつもボストンバッグを開いて、言われたポーチを探す。すぐ見える位置には見当たらず、仕方ないので中身を出し、底の方でそれを見つけた。そして同時に、あれも確かに見えてしまった。


「持ってきたよ」


「まだ服脱いでないから入ってきていいよー」


 数度ノックして言うと、そう軽い返事が返ってきた。


 脱いでないとはいえ、女性としてどうなのだろうかと、男性の僕は思う。年頃の女子として慎みを持つべきだと諭したかったけど、意識していることがバレるのでやめた。


 ドアノブを引き、どんな内装になっているかまだ見ていなかった脱衣所に踏み入れて彼女を探すが、見当たらなかった。だけど、伊達に今まで彼女と一緒にいたわけじゃない。


 どうせ浴室に隠れていて、僕を脅かすつもりなんだろうと、それから変な想像してたんでしょと小馬鹿にされるのだろうと察しがついた。


 けど、その察しは誤っていたと、すぐに知らされた。


「え?」


 次の瞬間、扉と、脱衣所の鍵が閉まる音が耳に入ってくる。


 音のした方に振り返ろうとしたとき、


「ねぇ、見たんでしょ?」


 ゾッと、全身を慄かせる耳元に掛かる囁き声。


 背後から首に腕が回されるのとともに、背中に柔らかな感触を覚える。


 振り返るどころか、硬直して動くことさえままならない身体で、それでもどうにか、振り絞って声を出した。


「なんのこと?」


「やっぱり君は優しい。ううん、臆病だね。私が傷ついて、それで自分の心が痛むのが嫌だから君は知らないふりをする。そうでしょ?」


 いつしか自己嫌悪していた僕の内情を、そのまま当ててみせる彼女は、


「でもね、もういいよ」


 そう、僕の耳元に囁いた。


 冷え切った彼女の声に、何がと、聞く暇はなかった。


 首に絡まっていた腕が解かれ、背中の感触も消える。


「ちょっとこっち向いて」


 有無を言わせず、その言葉は僕を振り返らせる。息を詰まった。


 最初に瞳に映ったのは、下着姿の彼女だった。


 白い肌、年相応に膨よかに成長した胸、括れた腰に、すらりと長い足。


 彼女を彩り、妖艶さを醸し出すその何もかもを、痣と傷が飲み込むように霞ませてしまっている。


 服の上から見えていたものとは比にならないほど、無数に刻み込まれたそれら。


 いや、当然といえば当然で、見えない場所だからこそ酷く痛めつけられたのだろう。


「目をそらさないで。ちゃんと見て」


「そんなこと言われても……!」


 直視するまいと視線を彷徨わせる僕にそう言っては、おもむろに両肩を掴まれ、脱衣所の壁に押し付けられた。視界を阻まれ、真っ向から彼女は僕の瞳を覗き込んでくる。


「こんなことして、一体何をするつもり?」


「こうすれば君は嘘をつかないと思ったから。こうすれば君は嘘をつけない。取り繕った君の冷静さなんて、簡単に剥がれちゃうもんね」


 肢体を僕の眼前に晒す彼女は、羞恥を知らない下卑たる表情で問い詰めてくる。


 僕の継ぎ接ぎで何とか保っている理性を躊躇なく壊し、感情を炙り出そうとしてくる。


「だからもう一度だけ聞くよ。全部見たんでしょ?」


 何をと、これ以上惚ける気にはなれなかった。けど同時に、見たと素直に白状する気にもなれなかった。彼女の意図が分からない。それが僕に、言うことを憚らせる。


 黙り込む僕に、彼女はわざとらしくため息を吐き出す。


 それでもまだ諦める気はないらしく、じゃあと、努めて明るい声で切り出してくる。


「君だけに一方的にお願いするのは不公平だから、こうしようか」


 言うや否や、僕の肩を抑える手から力を抜き、数歩下がっては静かに目を瞑って——


「無理して笑うのはもうやめるよ。だから、君も素直に話して」


 再び目を開いた彼女は、彼女ではなかった。


 いつからか、僕にとっての彼女という存在は、笑っている彼女だった。


 いつもそうだからと、ひっそりと抱えていた猜疑心を忘れ、偽りの彼女の姿を本物だと思い込んでしまっていた。多分、その方が幸せだからと。


 だから今の彼女は笑みの一切を浮かべず、ただ冷淡に、無関係だと突き放すような視線を向けてくる彼女は、僕にとって彼女ではなくて、けれど本物の彼女だった。


 空っぽの笑み、貼り付けた笑顔の仮面。


 その下に隠れていた素顔が、本性が、これなのだと。


 信じると言った言葉とは裏腹に、危機感のない呑気な性格とは正反対に。


 もう何も信じないと、人も、言葉も心も、世界さえも疑うような瞳をしていた。


「笑うのはやめた。だからほら、今度は君の番。質問に答えて」


 どこまでも鋭利さを感じさせる言葉を僕に突きつけてくる彼女。


 今の彼女をはぐらかすことも、嘘で騙すこともできないと、僕の内心が告げる。


 彼女は疑っている。それはたとえ僕が本当のことを言っても素直に信じてはくれないほどに、彼女は疑い切っている。


 だからもうこの場において、諦めるほかなかった。


「見たよ、全部。というか、最初のホテルのときから気付いてた」


「勝手に見たんだ。けど今はどうでもいいの。それで、あれを見てどう思った?」


 現実を受け入れられなかったがために、濁して目を背け続けてきたもの。


 それを一言に言ってしまえば、彼女の身体に刻まれた、痛みを象徴するものだった。


 手枷、足枷、手錠といった拘束具。悲鳴を上げさせないために口を封じる猿轡。


 他にも口に出すことは憚られるものまでが、バッグの奥底に仕舞い込まれていたのだ。


 あんなものをずっと持ち歩いていたなんて、正気ではない。


「どうって、気分がいいわけないでしょ。胸糞悪いなんてもんじゃない。なんで君があんなものを隠してたのか、全く理解できないよ」


 散々蟠っていた感情を一気に吐き出して、少しばかり気が軽くなる。けど、それで減った分よりも重い不安や雑念が途切れることなく生まれ続け、気は滅入っていく一方だった。


 彼女の真意は未だ不明瞭で、靄を纏ったように見えないままで。


 僕が返した言葉に、ふと彼女の瞳に影が落ちた。


「私を嫌いになった?」


「……は?」


「あれを見て、君は私のことをどう思った? 変な女だって思った? 気持ち悪いと思った? 穢れてると思った?」


「いきなり何を、」


「この痣だって、ずっと醜いって思ってたんじゃないの? 気を遣ってるフリして、内心では軽蔑してたんじゃないの? さっき川で終わりにしようって言ったのも、もう私なんかと一緒にいるのに耐えれなくなったからじゃないの? ねぇ、教えてよ」


「ちょっと待って、ほんとに何を言って、」


「答えて!」


 唇を噛み締めながら肩で息をする彼女は、目元を滲ませていた。


「答えてよ……! お願いだから、嘘はもう、いらないの……!」


 膝を折り、泣き崩れてぼたぼたと涙を落とす彼女に、いつもの僕ならきっと無条件に優しさを振りまいていたと思う。


 けど、今の僕は少しばかり苛立っていた。


 彼女が根拠もなしに怒り任せに言い放った言葉を、僕は自身への冒涜と感じた。


 事実無根の憶測でしかないことを口々に言われ、その上勝手に自分の言葉で傷ついては、逆恨みのようにまた怒りをぶちまけて。


 それなりに僕は彼女のことを想って過ごしてきたつもりだ。


 彼女を傷つけまいと言葉を選び、かかる火の粉は振り払った。彼女が気兼ねなく楽しめるように、今までの苦しみを忘れられるようにと、心を擦り減らしてまでやってきた。


 たとえ事の始まりが偽善で、それらが思い上がりの自己満足だとしても。


 僕は彼女に、幸せになって欲しかった。


 なのに。


 彼女の放った言葉に、僕は何もかもを蔑ろにされた気分だった。


 涙や悲しむ姿に弱い僕でも、今の彼女に同情してやる気は、さらさら浮かばなかった。


「君はずっと、そう思って僕の隣で笑顔を振いてたんだ。あの時言った信じるって言葉も、嘘だったんだ?」


「ぇ、ぁ……」


 彼女が顔を上げる気配。視線を感じるけど、見ようとはしなかった。


「嘘ついてたのは君なのに、それはないんじゃないかな」


「ち、違うの。私はそんな意味で言ったんじゃ……」


 前までの気迫はカケラもなく、弱々しく、縋るような声音で弁明してくる彼女に、


「……ごめん。今はちょっと、君と話せそうにないや」


 意識して目を逸らしてはその横を通り抜け、脱衣所の鍵と扉を開ける。


 彼女が僕に伸ばしてきた手は、虚しさで満ちた虚空を掴むだけで。


「少し頭冷やしてくる。先に寝てていいよ」


 そう、一方的に言葉を投げ掛けて、僕はホテルの部屋から出た。


 最後に耳に届いたのは、彼女の嘔吐く声。




 それが僕と彼女の、初めての決別だった。

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