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 月曜日。夏休みを迎えて初めて訪れた平日。


 早朝五時過ぎの駅前に人通りは殆どなく、静寂に満ちていた。


 ベンチに座って待つこと十分弱。自販機の駆動音だけがやけに大きく聞こえる中、新しく混ざりこんできた足音が僕の目の前で止まった。


「本当に来たんだ。冗談だと思ってたのに」


 前から掛けられた彼女の声に、ゆっくりと顔を上げる。


 肩より長く伸ばされた茶色の髪。笑っているのに光の失せた瞳。


 肩、腕、脚を広く露出した明るめのワンピース。


 そして手に持つ旅行用のボストンバッグと、肩から下げた大きめのポシェット。


 青黒く滲んだ全身を埋め尽くす痣。


「あれを冗談で言えるほど僕は酷い人間じゃないからね。それを言うなら、君こそよく知りもしない人の誘いについてきてるじゃないか」


「そうです。君がよく知らない人を誘うから、まんまと騙された私は悪い子になっちゃいました。だからちゃんと責任とってね?」


 僕が思ったままに応えると、彼女は口の端を歪めていやらしそうに笑みを浮かべる。


 初めて彼女が見せるその表情に、僅かながら眉を寄せて首を傾げた。


 果たして彼女は、こんな人だったろうか?


 一瞬自分の記憶を疑ってしまうほどに自然体でいる彼女に、やはりおかしいと思う。


 先に言っておくと僕は彼女と昨日と一昨日に会っている。そして少なくとも言えるのは、こんな明るく陽気な女の子ではなかったということ。先日の記憶のそれとは表情に限らず、様子や雰囲気といった彼女の全てにおいてガラリと変わっているように感じた。


 それこそ、別人であるかのように。


「どしたの?」


 彼女も同じく、きょとんと首を傾げた。


「いや」


 そう決めつけるには、僕はあまりにも彼女を知らなさすぎる。


「じゃあ、行こうか」


「うん!」


 言うと、彼女は二つのバッグを手に取って、準備できていると目で先を促して来る。根の張りつつある身体をベンチから剥がし、僕も準備を済まして改札を抜けた。


 長く続くホームは人一人見当たらず、閑散としている。


「さて、どっちに行くかな。右か左か」


「……ふぇ?」


 隣から不意に気の抜けた声が返ってきた。


「まさか行く場所決まってないの?」


「特には」


 唖然と口を開けて彼女が浮かべている表情は、驚愕と呆れが混ざったようなそれ。


「遠出するって言ったの君だよね? 誘ってきたの君だよね?」


「そうだね」


「………………」


「………………」


「えー…………」


「なんだよ、その軽蔑するような目は」


「もうちょっとさ、行きたい場所とか計画とか立てようよ。もしかして泊まる場所とかも決まってないってこと? それはさすがに困るよー」


 拗ねたように頰を膨らませ、ぶーぶーと文句を言ってくる彼女。


「遠出するとは言ったけど、そんな旅行みたいにしっかりとしたものじゃないよ。旅行と暇つぶしの間というか、まあそんなところ」


 思い立ったままに、気の向いたままに、その時その時の感情で行動する。それが僕の思う暇つぶしというものだ。もし暇つぶしに計画を立てたとして、いざその時に別の場所に行きたいと思ってしまったら意味がない。だから、暇つぶしに計画など考えるだけ無駄だ。


 それに昨日今日で結んだ約束なのだ。計画できなくて当然である。


「それが嫌だっていうなら、君が行き先を決めてくれて構わないけど?」


「それは遠慮しとく。私のすることは、君の暇つぶしに付き合うことだから」


 それだけは彼女が潔く答えて来るのに、僕は聞くだけに留めた。


 従順というか、律儀というか、そこにこだわる彼女の気が僕にはよく分からない。


 電車が来るのを待つ。


 隣に並ぶ彼女に横目を向ければ、鼻歌交じりに身体を揺らしていた。


 彼女の背は僕と同じか、少し高いくらい。僕が男子の平均身長より低いことを差し引いても、女子としては高い方なのだろう。


 特に意味もなく思っていると彼女と目があった。それだけならまだしも、なぜか笑いかけて来るので、すっと視線を逸らして空を見上げる。


 とっくに梅雨の開けた、夏らしく清々しい朝空。


 見える限りは雲一つなく、まだ朝だというのに少し汗ばむほど暑い。


「あっついねー。ねぇ、電車くるまで時間ある?」


「まだ少し」


「そ。じゃあちょっとこれお願い。君はお茶でいいよね?」


「え? ああ、うん」


 何のことやら。僕の理解が追いつくより前に、彼女はぐいっとボストンバッグを押し付けてくる。拒否する間もなく手の離されたそれを受け取ると、彼女はホームの奥へと駆けて行った。


「人使い荒いし、重っ」


 片手持ちで落としそうになったバックを、慌てて両手で持ち上げる。


 よく見ればはち切れんばかりに中身が詰められていて、ファスナーがキリキリと悲鳴を上げている。遠出するとはいえ、何を入れればここまで重くなるのか、疑問を抱かずにはいられなかった。


 余計な苦労も束の間、すぐに彼女は戻ってきた。


「おまたせー。はい、これ」


 バッグを僕の手から取ると、代わりにペットボトルのお茶が差し出される。


「ありがと……」


 それを受け取って、すぐにキャップを開けなかった。


 無言で彼女とペットボトルで視線を往復させる。


「ねえ」


「ん?」


「お茶って言ったらさ、こう、普通緑茶とか麦茶とかを選んでくるもんじゃないの?」


 だがしかし、彼女が選んできたのは紅茶。それも、砂糖の入ったミルクティー。


「そういうもんなんだ。ま、いいじゃん。甘いは正義だよ」


「……まあいいよ。ありがと」


 甘いのはあまり好きではないのだが、返すわけにもいかないので貰っておこう。


 一口だけ含み、早くも水滴の付き始めたペットボトルをリュックの側部ポケットにしまう。彼女はといえば、空になった炭酸のペットボトルを手に満足げな笑みを浮かべていた。


「ちょっと気になったんだけど、その重そうなカバン、一体何を持っていくつもり?」


 さっき僕に持たせたそれは、今は地面に置かれている。なぜわざわざ持たせたのか。


「ちょっと君、そういうこと女子に聴くのは失礼じゃないかな?」


「そう。じゃあいいや」


「えー! つまんないなぁ。もうちょっと面白い反応とかないの?」


「別にやましいこと考えてたわけじゃないし、そういうのは疲れる」


「むー……君、友達いないでしょ」


「そうだね。いない」


「ほらやっぱり。冗談とか言えないと友達できないよ?」


「別に、ほしいとは思わない」


 そういう自分の声が、微かに苛立っているのが分かった。


 陽気に振る舞う彼女が少し面倒くさく感じられて、だから捲し立てるように続ける。


「変に気を遣わなきゃいけないし、行動は制限されるし、面倒事に巻き込まれる可能性だって増える。作ることに意味がないどころか、デメリットしかない。そんなものを自分から作ろうなんて、とてもじゃないけど思えないね」


 一人がどれだけ楽なことか。


 気を使う相手はいないし、どう行動しようが自由。自分から関わらなければ、面倒事を持ち込まれることもない。いいことだらけだ。


 そんなメリット・デメリットの話を抜きにしても友達を欲しいとは思わないし、周囲の人間だって、こんな僕をわざわざ友人にしようとは思わないだろう。


 隣の芝生は青く見えると言うし、青春は薔薇色だとも言う。けど僕からしたらそれらは多色が混ざり合って混沌とした、異様な色にしか見えないのだ。


「そう思ってるなら、なんで私に付き合えなんて言ったの?」


 てっきり、彼女は僕の言葉を否定してくると思っていた。同時に、友達の良さとかを長々と語られるとばかり思っていたので、いい意味で思い違いをしたようだ。


 そう聞いてくる彼女は笑っていなかった。真っ直ぐに目を見てくる。嫌味でもなく、本心からそのことを疑問に思っているらしい。これにまで適当に答えると怒られそうなので、少しだけ考えてから、答える。


「なんでも何も、そもそも順番が逆なんだよ。僕が君を選んだんじゃなくて、君がいたから今こうしているんだ。あの時に君と会っていなかったら、僕はここにいない」


「おお……? なるほど、なんかそれカッコいい。運命の出会い、みたいな!」


「運命っていうか、偶然だったのは確かだしね」


 偶然と運命。その二つの違いは、その瞬間をどう感じたか、だ。潜在的に何かを感じればそれは運命で、確率の一つとしてしか感じられないのであれば、それはただの偶然だ。


 ただ、あれが運命だというのなら、この世界はよほど嫌な性格をしているのだろう。


「強いて言うなら、きっかけ作り、かな」


「きっかけってことは、この遠出でしたいことでもあるの?」


「一応、そんなところ」


「ふぅん、そう」


 そのさきを彼女が追求してくることはなかった。


 そこでちょうどホームに電車が着いた。とりあえずそれに乗り込むと、案の定、電車の中は空っぽ。僕らが乗っている車両にはだれも乗っている人がおらず、座ったシートは貸切状態だった。


「涼しー。もうずっと電車の中がいー」


「同感だね」


 二人並んでシートに背を預けて深く座り込み、冷たい空気を目一杯吸う。


 この時間帯に電車に乗ったのは、中学の部活の遠征以来だった。一年の冬だった気がするけど、それから間も無くして辞めてしまったので、よく覚えてはいない。


 特にはしゃぐ理由も意味もなく、大人しくしつつ、ぼんやりと車内を見渡し、それから手元に戻してと視線を彼女以外の何処かを彷徨わせて、けれど結局彼女を見て言った。


「今更だけど、なんでその服着て来たの?」


「いきなりどうしたの? あ、露出多くて変なこと考えてるんでしょ?」


 変態ー、と大げさな反応をする彼女に、あくまで僕は無表情を貫いた。しばらく間を置いた後、思わず出そうになったため息を抑え、言葉を返す。


「君のいう通り、露出が多くて変なこと考えてる」


 そこでぴたりと、彼女が動きを止めた。身体の動きを止め、表情も驚きを浮かべた状態で固め、僕のことを見つめてくる。それから間も無くして、徐々に顔を朱色に染まっていく。


「だっ、駄目だよ! 急にそんなこと言われても、こっ、心の準備が…………!」


 真っ赤になった顔を両手で覆い、ぶんぶんと左右に顔を振る彼女。


 僕としては冗談を言ったつもりなのだが、どうやら通じていないようだ。面倒なのでこのままにしておこうかと思ったけど、これを冗談で済ませるのはある意味で不謹慎な気がした。


「身体の傷、あまり見せない方がいいんじゃないかって」


 躊躇いがちに言葉の真意を伝え、視線を隣にやる。


 見えてる限りでは腕と脚だけだが、夥しい数の痣が彼女の身体に広がっているのだ。痛々しく見るに堪えないそれらは、薄く消えかけのものから、つい最近できたと思われる酷いものまで。痣だけじゃない、ミミズ腫れや、火傷痕のようなものも目につく。


「なんだそういうことか。びっくりさせないでよー」


「……」


「どしたの? 急に黙っちゃって」


「君は見られて嫌じゃないの? 普通隠したがるもんだと思うけど」


 僕がそう訊くと、今度は彼女の方が黙った。ぽかんと口を開けて、僕を見返してくる。


 何かおかしなことを言っただろうか。傷を見られることが嫌なのは誰でも同じだろうし、それが女性であれば尚更のことだと思う。


「変なことを聞いた?」


「ううん。別にー、そんなことないよー」


 明らかに含みのある笑みを浮かべ、表情とは真逆の言葉を返してくる。


 そんな、にやりと歪められた彼女の瞳を見返すが、結局隠れた真意は分からなかった。


「見られるのにちょっとは抵抗あるけど、そこまで気にしてはいないかな。隠すにしても、長袖は暑いから嫌だし」


 へらっと笑いながら言ってくる彼女は、それに、と続ける。


「こんなことで気にしたって今更な気がするから。もう遅いってわけじゃないけど、これからのこと考えたらその程度のことで気を使うのは勿体ないでしょ」


 これからのこと、彼女はそう遠回しに言ってきた。確かに、それは大っぴらに言うことではないし、それだけで僕が理解できると思っての言葉なのだろう。


 その意味を理解したから、僕は何も言わなかった。彼女が気にしていないというなら、それ以上何も言うことはない。それで終わる話だ。


「……君は、優しいんだね」


「……」


 彼女の小さな呟きを、僕は聞こえなかったふりをした。ただの独り言だったのかもしれないし、僕に向けられた言葉だったのかもしれない。けど、もし後者だったとしても、僕が返す言葉は何もなかった。


 僕は自分が優しいと思わないし、事実、彼女に優しくした覚えはない。それでも、彼女が僕の言葉を気遣いと受け取ったのなら、それは別にそのままでいい。


 けれど、僕だけは優しさなどとは認めない。認めてはいけない。


 その優しさはきっと、優しさに見せかけた偽善でしかない。


 僕は彼女を見ていない。僕が優しさを振りまいているのは彼女ではない。振りまいているとすれば、それは自分の中にある固定観念と願望で作り出した、彼女の形をした虚像。


 彼女に嘘をついていることに、自身の身勝手な願いの醜さに、けど、どうすることもできないから、せめて優しいフリをして、目を背けているのだ。


 それは憎むべき欺瞞。悪よりもずっと酷いものだ。


 無限ループしそうな自己嫌悪に無理にでも区切りを付け、思考を一転させる。一先ず電車に乗りはしたが、そろそろ次のことを考えなければいけない。


 どこに行くのか。何をするのか。


 やりたいことを見つけて、それのある場所に行くのか。


 行きたい場所を見つけて、そこでやりたいことを探すのか。


 いつもならそんなこと気にしないのに、今日はそんなことを思った。


 理由は簡単で、隣に彼女がいるから。


 そう思い至って、気付く。どうやら僕は無意識にも彼女のことを気に掛けているらしい。とはいっても、迷惑や心配を掛けたくないという、当たり前のようなものをだ。


 別に彼女の存在を邪魔とは思っているわけではないし、僕から彼女を誘っている時点でそんなこと思っていい立場ではない。ただ単に、慣れていないのだ。いつも一人でいたから、他人との距離感や接し方というものに。


 まだ始まったばかりだというのにこの困りようなのだから、先のことを考えるだけで胃が痛くなりそうだ。どうしようかなんて出来る限り考えたくないけど、そろそろさすがに現実を見よう。


 ひとまず、行き先を決めよう。


 そう思いリュックからスマホを取り出したところで、彼女もまた、ポシェットから何かを取り出した。


 それは日記帳だった。


 随分使い込んでいるのか、外側の合皮カバーはボロボロ。中の紙も色褪せや日焼けのせいで随分と変色してしまっている。


 読み返すわけでもなくパラパラとめくられるページには、びっしりと羅列された黒い文字の群。時折文字が滲んでいたり、赤黒いシミが残っていたりもしたが、それが何なのか、聞こうとは思えなかった。


 めくられ、めくられ、そして三分の一ほどを過ぎたところで、白紙のページが現れた。


 好奇心に似た、けれど何処か違うような感情を覚えながら視界を少し日記の方に向けていると、気付いた彼女は僕の方に横目を向け、薄く笑った。


 何かに思い耽るような、哀しい笑みを浮かべ、前のページに戻っていく。


「毎日じゃないけど、ほとんどの日はこうやって日記をつけてたんだ。君も読む?」


 差し出してくるのに、僕は小さく首を左右に振った。


 彼女の身体に刻まれている傷、日記のページに残されていたシミ。彼女と僕が今ここにいる理由。その日記帳がただ日々を綴ったものではないと、嫌にも察してしまったから。


「こうやって嫌なこととか痛かったこととかを文字にして書き出すとさ、なんか、自分が抱え込んでるものが少し軽くなるんだ。痛みとか辛いのとかを代わりに日記が請け負ってくれるっていうか、全部を自分で抱え込まなくていいんだって、そう感じるから」


 バカだよね、なんて空笑いをする彼女は、


「でも、もういらないよね」


 ビリッ、と。


 過去を綴ったページを、無造作に破り取った。




「これからは苦しむ必要も、痛い思いをすることもない……そうでしょ?」


「……そうだね」


 破り取ったそれをぐしゃぐしゃに丸め込んで、窓の外に捨てた。


 次に彼女が浮かべた笑みには、思い耽ける感じも、哀しみさえも消えていて。


 何も浮かぶものがない、空虚な笑いを顔に貼り付けていた。


 再び彼女は日記に手を伸ばし、七枚目のページに綺麗な文字で短く綴った。


 それは僕が彼女と結んだ、たった一つの約束を果たす時。


 それは彼女の終わり。


『七日目。


 君に殺してもらった』


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