七、稲穂は春荒れのように
椿に教えられた本部内での仕事は、雪が想像していた以上に多岐にわたった。というよりも、花国軍の中でも怪異討伐特務部隊は圧倒的人手不足に悩まされているらしい。
人手不足の原因はいくつかある。
まず、妖を祓うためには体内に巡る『気』を操る必要がある。その素質があるかどうかは生まれつきのもの。そうした才覚がない人間にはそもそも入隊が難しい。
加えて、常に危険と隣り合わせとあって、討伐部隊に入りたがる人も多くない。
さらには討伐中に怪我を負って軍を離れる人や、最悪の場合、帰らぬ人となることもある。
つまり、人が減ることはあっても、増えることはほとんどない。それがこの、怪異討伐特務部隊の実情だった。
そんなわけで、雪は本部や寮の掃除から、隊員の軍服の洗濯に補修、炊事、ときには書類の整理まで、敷地から出ずにできるほとんどの雑用を任されることとなった。
最初の頃は椿がついて丁寧に教えてくれたが、三日もすれば、雪もその生活に慣れた。
隊員たちも、椿が「訳ありだ」と言っていたことを裏づけるように、最初は雪の存在を珍しがっていたはずが、最近では「家なし同士仲よくしよう」と声をかけられることもある。
こうして、一週間があっという間に過ぎた。
家族のように迎えられた雪は、妖であることがばれてしまったらどうしよう、と不安に思っていた気持ちを払拭しつつある。
外に出られない以外はほとんど困ることもなく、平穏に過ごしていたのだが……。
「はぁ……」
雪は自らのくたびれた着物に袖を通してため息をついた。
ここ最近の唯一の困りごとが服である。
軍人は男性ばかりで、女性ものの着物が本部内にないのだ。着の身着のまま連行された雪は、当然替えの服など持ってきていない。買いものにも行けないせいで、同じものを着るしかないのだが、掃除や炊事で日々汚れていく着物は洗えば洗うほどくたびれていってしまうものである。
「でも、着物が欲しいなんて絶対に言えないし」
藜は忙しそうにしているうえ、そもそも冷徹な印象が強い。機嫌を損ねようものなら首をはねられるかもしれない。
椿なら話を聞いてくれるかもしれないが、ここ数日は西の京へ遠征に出ている。
「我慢するしかない、よね……」
雪が気を取り直して布団を干そうとすると、
「我慢は毒だよぉ」
のんびりとした声が背後から聞こえ、雪はぴゃっとすくみあがった。
「あっはは、ごめんごめん、驚かせちゃった? 挨拶しようと思ったら、独り言が聞こえちゃって」
振り向くと、赤茶の癖毛が特徴的な青年が無邪気な笑みを浮かべた。
軍服を着ているところを見るに、どうやら隊員のようだが、雪には見覚えがない。
誰だろう。雪がまじまじと観察していると、青年は「あはっ」と特徴的な笑い声をあげた。
「はじめまして、オレは不知火稲穂。昨日まで遠征でさあ。帰ってきたら君がいたの」
不知火。その特徴的な名前に雪は違和感を覚える。どこかで聞いたことがあるような気がするが、青年とは初対面のはず。
気のせいだろうか、と雪は心のひっかかりを追いやって、挨拶を返す。
「あ、えと……雪と申します。数日前から、こちらでお世話に」
「雪っちね、よろしく。オレのことは稲穂って呼んで」
「稲穂さん、よろしくお願いします」
雪っちという不思議な響きにはしばらく慣れそうにはないが、稲穂自身は悪い人ではなさそうだ。
雪がぺこりと頭をさげると、
「で? 雪っちはなにを我慢しようとしてたの?」
と稲穂は好奇心を隠すことなく踏み込んでくる。
いきなり初対面の相手に着るものが欲しいと言うのはためらわれるが、隠すのも変な気がする。なにより、稲穂はすっかり雪の退路を塞いでしまっているのだ。稲穂が立ち去る気配はなく、雪が答えるまでここに立たれては洗濯が終わらない。
悩んだ末、雪は仕方なく経緯と今一番の悩みを稲穂に打ち明けることにした。
「そういうわけで、着るものがなくて……」
言葉にすると、買ってくれとねだっているようにしか聞こえない。
雪が情けなさと恥ずかしさから目を伏せると
「えーっ! それは一大事じゃん!」
雪の羞恥をかき消すほどの大きな声が庭中に響いた。
「てか、そもそもこんな時期に、こんな薄着でそれこそ風邪ひいちゃうでしょ! すぐに隊長のところに行こう! んで、かわいい服を買いに行こう!」
「えっ!?」
雪が驚くのもつかの間、稲穂がむんずと雪の手を掴んで歩き出す。
「あ、ちょ、ちょっと!」
稲穂の力は強く、抵抗することはおろか、雪はその手をふりほどくこともできない。
そうして……、
「なにごとだ?」
気づけば、あれよあれよと隊長室に連れ込まれ、雪は稲穂とともに藜の冷たい視線を受けることになった。
居心地の悪い雪とは対照的に、稲穂はまったく悪気のない様子で、怖気づく雪を藜の前に引っ張り出す。
「雪っちに新しい着物を買ってあげてほしいなぁって思って連れてきた!」
稲穂の直接的な物言いに驚いたのは雪である。藜の反応を窺う余裕などなく、雪は慌てて稲穂の口をふさごうと手を伸ばした。が、稲穂はひょいとそれをかわして続ける。
「雪っち、急に連れてこられたんでしょ? 帰るところがないのはわかるけどぉ、だからって本部から出さないってのは変じゃない? しかも、こんなにかわいい年ごろの女の子が毎日同じ服だなんて! かわいそうだと思わないの?」
圧倒されるほどの勢いに、雪はいよいよ制止を諦めた。
どうやら稲穂は藜に対する恐怖心がないらしい。しかも、なぜか雪に入れ込んでくれている。女性が珍しいからなのか、それとも単に世話焼きなのかはわからないが、藜に恐怖心を抱いている雪にとっては、稲穂の物怖じしない姿勢も恐怖を助長させる。
「遠征の報告より先に言うことがそれか?」
冷えびえとした藜の言葉には、なぜか雪が死を覚悟した。
だが、言われた本人はまったく響いていないのか、あっけらかんと言い返す。
「そのつもりだったんだけどね。かわいい女の子は放っておけないでしょ?」
藜の冷ややかな目がより一層鋭く細められる。だが、稲穂も負けていない。
オロオロする雪を差し置いて、互いに無言で睨みあったかと思うと、
「わかった」
なんと、藜のほうが先に折れた。
雪が意外に思っていると、藜の視線は稲穂から雪へと移される。
「今から行く。ついてこい」
「えっ!? でも、まだ洗濯が残って……」
「必要ないのか?」
「そ、それは」
雪が黙り込むと、藜は「決まりだ」と立ちあがった。稲穂から雪を引きはがすと、
「稲穂は報告書を。帰ってくるまでに作ってなければ、遠征費はなしだ。あと、こいつの代わりに洗濯」
と有無を言わさぬ命令をくだす。
「えぇ~っ! オレが雪っちと出かけたかったのにぃ!」
「今すぐに給金を差し引いてもいいんだぞ」
「……わかりましたぁ!」
稲穂はびしりと敬礼をして見せると、残念そうな顔で、
「それじゃあ、雪っち。また今度ゆっくり話そうねぇ」
と手を振って隊長室を去っていった。
まるで嵐だ。まだ冬も始まったばかりだというのに、春荒れにでも見舞われた気分。
残された雪と藜は、稲穂の後ろ姿を見送って同時にため息をついた。
まさか藜と息が揃う日が来るなんて。
雪が口元に手をあてると、藜の口元がふっと緩む。呆れたような苦笑いだったが、たしかに藜が見せた自然な表情だった。以前見た、雪を脅迫するための作りものの笑顔ではなく、等身大の。
梅や桜がほころぶような淡い笑みに、雪は目を見張った。
珍しさゆえか、もっと見ていたいような、そんな不思議な感覚を覚える。
やわらかにさがった目じりが、藜の雰囲気を一変させ、まるで別人のように見せた。
こうしてみると、やはり藜は美しい。
雪が惚けていると、雪の視線に気づいたのか、藜は咳払いののちにすぐさま表情をいつもの固いものに変えた。
なぜかそれがほんの少しだけ寂しくて、雪の胸がきゅっと締めつけられる。
だが、当の本人はそんな雪の気持ちなどつゆ知らず、
「行くぞ」
と、雪の視線から逃げるようにそそくさと歩き出す。
もっと笑えばいいのに。雪はそう言いたくなる気持ちをしまいこみ、藜に続いた。