三、突然の別れ
雪は自らに向けられた刃先に促されるまま、静かに地面へと腰を落とした。手足の震えを必死に押し殺し、目を伏せる。
少なくともこの青年は本気で雪を殺すつもりでいる。抵抗すれば、すぐさま首をはねられる。
では、その後は? 雪が殺された後、長治はどうなるのだろう。助けてもらえるのだろうか。それとも、長治も雪と一緒に殺されてしまうのか。
(それだけは絶対にダメ……)
雪は霜のおりた地面を見つめて思案する。
なんとか長治だけでも。だが、声を発すればその瞬間に叩き切られるかもしれない。かといって、このままでは長治も……。
まとまらない雪の考えを薙ぎ払ったのは、長治の切実な声だった。
「頼む! その子を殺さないでくれ!」
続いて、足を引きずるような音が聞こえる。雪の背中に人肌のぬくもりがかぶさった。
知っている匂いに雪の涙腺が緩む。
長治の香りだ。イグサのような、わらのようなあたたかな香り。
それだけで、顔をあげずとも雪には状況がわかった。
先ほど雪が妖を前に、長治の身代わりになろうとしたように、長治もまた、雪を助けようと震える体で必死に雪を守ってくれているのだ。
「この子は妖なんかじゃない! 俺の、俺の大切な娘なんだ! この子は俺を守ってくれただけだ!」
長治の訴えに、雪はなんとか涙をこらえる。
これほど優しい父がどうして雪の代わりに殺されなければならないのだろう。
雪が妖であることは、長治だってわかったはずなのに。
雪の口からこぼれる吐息は今、粉雪である。指先の触れた地面は凍っていて、雪自身がわかるほど体温は低い。長治の体の熱さを恐ろしく感じるくらいに。
それなのに、長治は身を挺して雪を守ろうとしてくれている。
「……お願いします」
気づけば、雪の口からも懇願が漏れていた。
「長治さんをお助けください」
「雪!」
長治の制止を振り払い、雪は自らの意志で顔をあげた。
今ここで討たれてもかまわない。長治さえ助かれば、それでいいのだ。妖になってしまった自分は、もはや長治と住むことは叶わないだろう。今までどおりの生活などできるはずがない。長治だって、きっと本当は怖いに違いない。
妖と人間はこの国では交わることなどないのだから。
雪の知っている妖は恐ろしいものだ。人を食らい、人を殺す。いつかは、雪も長治を食らってしまうかもしれない。
ならば、雪が長治を殺す前に、この青年に殺されたほうがマシだ。
長治を助けられたのだから、雪にはそれで充分なのだ。
「長治さんは、身寄りのないわたしを拾って育ててくださっただけです。ただの人にございます。雪を……、妖を討つのがあなたさまのお仕事ならば、わたしを殺し、長治さんを助けてくださいませ」
雪は向けられた刃先に歯向かうように、青年をまっすぐに見据えた。
「どうかお願いします」
先ほど対峙した妖よりもうんと澄んだ赤い瞳が雪を見おろしている。
すべてを見透かすようなまなざしが、雪と長治をそれぞれ一度ずつ見比べるように動く。
果たして、青年が目を止めたのは、雪ではなかった。
「そこの男、長治と言ったな」
「は、はい!」
雪の背を守るように抱いていた長治が、呼ばれて雪の隣に座りなおす。
瞬間、青年はそれを待っていたとばかりに雪へ向けていた刀を長治へ振りおろした。
「長治さん!!」
雪が思わず手を伸ばしかけ――、ピタリ、長治の額に触れるか触れないかの距離で刀が止まる。
長治はどっしりとかまえ、その刃を見つめていた。
青年と長治が睨み合う。それは、雪自身に刃を向けられていたときよりももっと長い一刻に感じられた。
ふっと青年の口元が歪み、刀がふいにおろされた。青年の腰にさげられていた鞘に刀が収められる。
雪が呆然とそれを見つめていると、青年の視線が再び雪に戻された。
「人を助け、人に助けられた妖とは」
なんとも奇異なものだ、と青年は皮肉な口調で呟いた。
雪に対して、というよりも、青年自身に言い聞かせているかのようだったが。
「今回は、長治とやらに免じてこの妖を殺すのはやめてやる」
その言葉に、雪と長治は顔を見合わせた。
互いに思わず顔がほころぶ。抱きしめあおうと二人が手を伸ばした途端、
「だが」
凍てつくような声が雪と長治の抱擁を遮った。
「その妖は、我が花国軍、怪異討伐特務部隊の監視下に置く」
「え?」
「それは、つまり……」
嫌な予感がする。
雪は伸ばした手を引っ込め、ゆっくりと青年の顔を窺った。
青年の整った静謐な顔立ちは無情なほどに冷徹だ。
「妖、お前を連れていく」
言うや否や、青年は雪の手を掴み、雪を無理やり立ちあがらせた。
「行くぞ」
「雪!」
「長治さん!」
別れを惜しむ間もなく、雪は青年に引きずられるようにして連れられ、少し離れた場所に止まっていた馬車へと押しこまれる。
「キャッ!?」
バタン、と乱暴に馬車の戸が閉まる。
雪を呼ぶ長治の声が、馬車に嵌められた窓硝子一枚分くぐもって小さくなる。
「長治さん!」
雪が顔をあげたとき、すでに馬車は走りだしていた。
「長治さん!」
それでも雪は必死に窓へ顔を貼りつけて長治の名を呼ぶ。
やがて窓が曇り、外に大雪が降り始めると、いよいよ長治の姿は見えなくなった。
自然と雪の頬に涙が伝う。
長治が生きてさえいればそれでいいと思った。なんなら、自分が死んでしまったっていいと。今までの生活ができなくなることも、理解していたはずだった。
なのに。突然の別れに動揺している。こんな風に引き離されるとは微塵にも思っていなかったし、覚悟など本当はできていなかったのだ。
雪の涙がハラハラと六花に変わっていく。
こんなときでさえ現実は、雪が妖で、人とは一緒にいられないのだと突きつけてくる。
「……長治さん」
雪が何度目か父の名を呟くと、正面に座っていた青年が窓の外を見つめて苦々しげに吐き捨てた。
「妖と人が交わることはない」
これから先も、ずっと。
青年の言葉はひどく冷たく、重たかった。