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朧月夜の雪花奇譚  作者: 安井優
雪の章
3/43

二、人でないもの

 自宅へと帰る道すがら、(ゆき)長治(ちょうじ)は『それ』に出会った。帝都から北へ外れ、深川を越え、長屋まであと少しというところだった。


 新月で暗く、明かりもない夜道に、爛々(らんらん)とした赤い光が二人の前に現れたのだ。


「あれは?」


 異変に気づいて先に声をあげたのは雪だった。


 火伏(ひぶせ)祭とあってかいつもより賑わっていた茶屋で、食事とともに酒をたしなんでいた長治は、その赤を見てもなお「提灯(ちょうちん)だろう」と呑気に笑う。


 だが、雪の体にはなぜか底冷えするような悪寒が走った。


 雪はフラフラと歩き出す長治を慌てて引き止める。


「長治さん」


 嫌な予感がする。遠回りしよう。


 雪がそう提案しようとした矢先、闇夜に浮かぶ二つの赤がギラリと二人を貫いた。


「もしかして……」


 雪の頭に茶屋で聞いた町人たちの噂話がよぎる。


『近ごろ、深川の向こうにある山のほうで(あやかし)が増えているとか』


『らしいなあ。そのせいで、山を越えてくる帝への献上品が届かなかったって』


『俺なんか、北方の山間にある集落が妖にやられたって聞いたぞ』


『この辺りまで来ないといいけど……』


 雪が長治の腕を強く引いたことで、長治はようやく雪のほうを振り返った。


「なんだよ、雪。どうしたんだ?」


 瞬間――、長治の持っていた提灯の火がふっと消える。つられて雪と長治が手元に視線を落とす。同時、二人の頭上に真っ暗な影が落ちた。


「長治さん!」


 雪が叫ぶも、すでにとき遅し。


 黒く分厚い空気の幕が二人を覆う。雪たちはすっかり右も左も、上も下もわからぬ暗闇に閉じ込められた。


「長治さん! こっち!」


「雪!」


 夜に飲み込まれたようだった。そんな中、雪の持つ火縄だけが頼りなく揺れている。雪はその明かりを頼りに長治の手を掴み直した。


 なにが起きたのだろう。


 雪が火縄を掲げると、真っ赤に熟れた柘榴(ざくろ)のような双眸(そうぼう)とかち合う。


 否応なしにゾッと全身に鳥肌が立った。


「……(はこ)だ」


 閉じ込められた、と長治のか細い声が聞こえた。


「妖に、食われちまうんだ……」


 長治の体がカタカタと震えるのを感じて、雪は強く、強く父の手を握る。


 雪が聞いたところによると、長治の妻はその昔、妖に食われて命を落とした。匣に閉じこめられてからは、あっけなかったという。


 匣とは妖が人を捕えるために作りだす特殊な結界だ。この世からあの世へと向かう途中の世界、つまりかくり世だと言われている。そして、そこに閉じこめられた人間は、よほどのことがないかぎり助からない。


 長治は妻を助けようと必死に匣を外から壊そうとしたが叶わず、匣が消えたとき、そこに残っていたのは血に染まった妻の着物、その布切れ一つだけだったらしい。


 雪は長治から再三それを聞いて育った。それゆえ、妖の怖さはもちろん、長治がどれほど妖を恐れているかを雪はよく知っている。


 だから今、雪がすべきことは長治を守ること、それだけだ。自らを育ててくれた親を助けなければ、と考えていた。そのためなら、自らの命を捧げてもよいとさえ。


「長治さん」


 雪は手にしていた火縄を長治に持たせた。


 縄の火は神からいただいたもの。提灯の火は消えたのに、縄の火が消えないということは、妖とて神の力には干渉できないのかもしれない。さきほどから手だしをしてこないのも、そのためだろう。


 ならば、少しでも助かる可能性が高いほうを長治に。


 雪は暗黒に浮かびあがる赤い光を強く睨み返した。


 怖くないわけではない。妖も、妖に食われることも、死ぬことも、すべて怖い。でも、命の恩人である父が死んでしまうところを見るほうが、雪には怖い。


 雪が一歩踏み出すと、


「雪」


 何かを察したように、長治が雪の背中を掴んだ。


 待ってくれ、と弱々しい懇願が聞こえる。


「……雪、やめろ」


「長治さん、今までありがとうございました」


 雪は最後に笑おうと努めた。唇が震えて、うまく口角があがらない。頬がひきつって、なんだか泣いてしまいそうだ。


「おい、雪、待て」


「本当ならば、わたしはあの日、雪の中で死ぬ運命でした。それを長治さんが……、父さまが拾ってくださったから、ここまで生きてこられた。父さまが、わたしを生かしてくださったのです」


 なればこそ、今がそのご恩を返すとき。


「父さま、今までありがとうございました。わたしは、雪は、幸せでした」


 雪は自分ができうるかぎりの美しい笑みを浮かべ、長治から顔を背けて両手を広げた。


 そして、いよいよ目前に迫った妖に向かって声高に告げる。


「さあ! 妖よ! 雪を食らいなさい! このわたしを!」


 途端、妖がぬっと闇から姿を現した。


 ぎょろりと赤い目を持ったそれは、特定の形を持たず、泥濘(でいねい)のようにどろどろとしている。雪にはそれが獣のようにも、人のようにも、山や海のようにも見えた。


 腐乱した魚や卵のような匂いが鼻をつく。それでいて、土や泥のような匂いも。


 雪は生々しい死の気配に吐き気をもよおした。


 覚悟を決めたはずなのに、いざ対峙するとがくがくと膝が震える。


「っ……」


 息を飲む雪に、妖がずるり、ずるりと近づく。


 がぱりと大きな口が開き、その体がぐぉおんとうねった。


 食べられる――、雪が思わず顔を背ける。


「やめろぉぉぉおお!」


 次に目を開けたときには、荒れ狂ったような火の粉が雪の周りに飛び散っていた。


 長治が火縄を振りかざしたのだ。


 神火は妖の口内にすっぽりと吸い込まれ、やがて、ごおっと妖を燃やす。


 うろろん、うろろん、と低く奇妙な音が辺り一帯に響き、雪と長治はもだえるように体を打ち鳴らす妖を見つめた。


「やったか……!」


 長治の口端がかすかに持ちあがる。


「雪、今のうちに……」


 が、言い終わる前に、雪と長治は激しい地面の揺れに襲われた。


 突然のことに足元をすくわれ、二人は立っていられなくなる。


 今度こそ、妖は明確な憎悪を雪たちに向けた。射抜くような視線に、地に伏せていた長治も雪も腰が抜け、立ちあがることができない。


 殺意のこもった赤い目が長治を標的に定める。さきほど雪を食らおうとしたときよりも暴力的に、その塊は長治を飲み込まんと大きな津波のように押し寄せる。


「長治さん!」


「雪!」


 長治は雪の体を強く押した。まるで、逃げろと言うように。


 突き飛ばされた雪は地面を転がり、取り残された長治は闇に飲まれていく。


「長治さん!」


 雪は必死に漆黒へ手を伸ばす。しかし、(うろ)に手を突っ込んだときのように、なんの感覚も得られない。


 長治の体はどんどんと黒海へと沈んでいく。


「長治さん!」


 雪はどうか、と神に祈った。


(わたしに、父さまを助ける力をください!)


 再び妖に向かって手を伸ばす。


(お願い! つつましやかな幸せもいらない! わたしは不幸になってもいい! だから、どうか、今だけは!)


 と、そのとき。


 雪の指先からピシリと音がした。


 あろうことか、それはやがて白い花となり、周囲の空気を凍らせていく。


 ピシリ、パシリ。薄く冷たい音を立てながら、豪雪がうねるように吹き(すさ)ぶ。


 吹雪は長治を飲みこんだ妖の裾野を勢いよく這いあがった。みるみるうちに、妖を端から氷漬けにしていく。


「長治さんを離して!」


 雪が強く思いをこめると、共鳴するように吹雪は速度をあげて妖の体を侵食していく。


 キュィィイイイと耳を貫く甲高い音が響き渡った。妖の赤い(まなこ)は見開かれ、泥の体は歪に動きを止める。どろどろとしていた泥の先端には、今や氷柱(つらら)がさがり、すっかり固まっていた。


 やがて、妖の氷結した腕は長治と氷柱の重さに耐えきれなくなったらしい。氷柱ごと地面にごとりと崩れ落ちた。


 地面に落とされた衝撃で、長治の口から痛みをこらえるような呻き声が漏れる。


 雪は、長治の意識があることを悟って心の底から安堵した。


 やがて、妖全体が雪の放った氷に包まれる。断末魔のような声ともつかぬ音が轟いたかと思うと、妖の力が弱まったのか、雪と長治を覆っていた匣がどろりと溶けだした。


 目の前に深川の長屋の明かりが見える。


 結界から抜け出せたのだ。


 妖を、倒した。


 雪が。


 ――すべて終わったのだ。


 雪は地面に倒れた長治に駆け寄ろうと身をひるがえす。


 そこで、雪は、長治が「ひっ」と息を飲む声を聞いた。


 月明かりのない夜。雪を照らしているのは、凍りついた妖の赤い目だった。


 美しかった雪の黒髪、その一房が真白に染まっていく。雪の吐いた息からは、六花がハラハラとこぼれた。


「……わたし」


 雪は、人ではなかった。


 長治が妖を見たときと同じ瞳で雪を見あげる。近づくな、と恐怖を浮かべた瞳で。


「あ……」


 育ての親を助けることができた。そんな誇らしい気持ちが一気に萎む。


 愛してくれた長治との過去が、絆が、ガラガラと音を立てて瓦解していくのがわかった。


(わたしは、一体……)


 雪が自らの力の正体に戸惑っていると、


「動くな」


 冬の風のように冷たく雪を突き刺す声が静寂を切り裂いた。


 先ほどの妖の悲鳴よりも、もっと鋭くて重たい声だった。


 見れば、そこには月を写し取ったような白金の髪をたなびかせる青年が立っている。髪の隙間からは紅玉の瞳が覗き、まるで神が地上に降りたのでは、と思わせるほどの美貌だった。


 青年が雪に刀を向ける。素人が見ても切れ味のよさそうな刀だ。


「動けば、この場で殺す」


 軍服を(まと)った美しい青年は、しかし、妖以上に恐ろしい目つきで雪を凝視する。


「妖め」


 吐き捨てるような言葉に、雪の心臓がぞわりと脈打った。


 妖。


 青年から向けられた切っ先に映る自らの姿を見て、雪は愕然と立ち尽くした。


 雪のように生気を失った白い肌、自身の能力で凍りついた指先、黒髪に混ざった白髪、花国(かこく)では珍しいと幼少期から言われ続けた青色の瞳。


 それは人によく似ていて、けれど人ではない、まがいものの姿だった。

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