四、知るということ
翌朝、ほとんど眠ることができなかった雪はかまどに火を入れながらうつらうつらとしていた。
「火の元で眠ったら、燃えてまいますよ」
背後からの椿の声で現実に引き戻された雪は、なんとか体を起こして半開きだった目をこする。
「椿さん、おはようございます。早いですね」
「おはようございます。雪さんも、今日は少し早いんやないですか」
どうやら朝食の手伝いに来てくれたらしい。椿は軍服ではなく、冬用の袴に割烹着という母親風な装いだった。雪は母親というものを知らないが、いたらこんな感じだったのだろうな、と寝ぼけたままの頭で思う。
「京の朝も寒うてかないませんでしたが、こっちの朝も冷えこみますね。あったかい火の前で眠りとうなる気持ちもようわかりますわ」
椿は言いながら、変わります、と米の入った鍋を雪の代わりに持ちあげ、火のあがったかまどにかける。
雪も椿に礼を言って、準備していた食材の調理に取りかかった。
「今日は何を作らはるんですか?」
「ほうれん草と油揚げの煮びたしと、鱈と大根の味噌煮を。お味噌汁は、根菜を入れようかと」
「わかりました。ほんなら、わたくしは味噌汁を先に作ってまいますわ」
「お願いします」
椿は言うやいなや、手際よく蓮根や牛蒡を手に水洗いを始める。彩りを考えてか、人参を追加するあたりも、椿の料理勘のよさを感じさせる。
雪が来るまでは、椿が主に料理を担当していたらしい。他の隊員と交代で作っていたそうだが、椿以外の料理はほとんど食べられるものではなかったらしく、椿の料理の腕はそのときに鍛えられたのだそうだ。
おかげで、雪と椿の間に余計な会話はない。必要に応じて場所を交代しながら、黙々と人数分の料理を作っていくだけである。
文の言うような恋愛感情はわからないが、こうして、椿と調理場で並ぶ朝の時間は心地よい。
いつもなら。
雪は、人参を美しく花の形に飾り切りにしている椿を見つめて手を止める。
(藜さんのことは、椿さんも知らない、のよね……)
知っていたら、藜は椿に祓われているだろう。そもそも、藜が半妖であることを明かしているのだとすれば、雪に黙っておけと言う必要もない。
まさか、文の冗談だとは思えないが、でも。
雪が悶々としていると、よほど思いつめた顔をしてしまっていたのか、
「どうかしはったんですか?」
見られていることに気づいたらしい椿も心配そうに雪を見つめかえした。
「あ、えっと……」
やはり、やめておこう。
椿が知らなかったとしたら、大変なことになってしまう。
「い、いえ、その、何かもう一品くらいあったほうがいいかな、と。ついでだし、お昼の分も作ってしまおうかしら」
雪が適当にごまかすと、椿は思い出したように手を打った。
「そういえば、京でもらったお漬けもんがあったんですわ。朝餉に出しましょか」
「いいんですか?」
「ええ、ぜひ。もともと、みんなに食べてもらおうと思ってたんでちょうどええですわ」
「ありがとうございます。それじゃあ、いただきます」
「ほんなら、ちょっととってきますね」
椿はいつもの柔和な笑みを残して、保管庫へ向かった。
とにかく、藜のことは考えても仕方のないこと。本人にしかわからないし、どうせ今日は、長治との面会について話をすることになっている。
雪は、椿がいないうちに藜のことを頭から追い払った。
(それにしても、最近は藜さんのことばかり考えている気がする)
不本意ながら、だが。
雪は、藜のことをほとんど知らない。
椿は一緒にいる時間も長いし、稲穂もわかりやすいので、なんとなくわかることもあるのだが、藜とは過ごす時間も短いうえに、言動がわかりづらいのだ。怒っているのか、心配しているのか、不器用な優しさなのかすらわからない。
昨日のように、突然雪に褒美を与えることもあるくらいなので、決して悪い人ではないのだろう。上司としての態度だとしても、いささか急だが。
もっと笑った顔がみたいと思うのに、まるで感情を押し殺しているかのように冷酷な面しか見せてはくれないのも気にかかる。
(それが、少し寂しいような……)
「雪さん?」
いつの間に戻ってきていたのか、漬けものを手にした椿に声をかけられ、雪はまたもや藜のことを考えている自分に気づいた。
「大丈夫ですか? やっぱり、どっか具合でも悪いんとちゃいます?」
椿は、雪の髪色の一件をまだ引きずっているらしい。大仰な心配が雪に罪悪感を募らせる。
雪は慌てて首を横に振って、大丈夫だ、と調理を再開した。
が、やはり気になるものは気になる。むしろ、一度気にしてしまったからには、そう簡単に無視できる感情でもないわけで。
藜が好きな食べものすら知らないのだと、雪は野菜を鍋に入れながら思う。
椿は茸類が好きで、稲穂はとにかく肉料理を好む。その他の隊員たちの好みも、さすがに数週間、雑用係として働けばわかってくる。
だが、雪は藜の食事しているところすらまともに見たことがない。食べてはいるようだが、時間をずらしているのか、隊長室で食べているのか、それすらもわからない。そのせいもあって、藜の好き嫌いは一切聞いたこともなかった。
(椿さんは、どのくらい藜さんのことを知っているのかしら)
雪は隣で野菜を切り終えた椿に雑談のつもりで訊いてみる。
「椿さんって、藜さんの好きなものとかご存じですか?」
「は?」
「あっ! いえ、深い意味では……。ただ、いつもお食事はどうされているんだろう、と思いまして」
「ああ。隊長は忙しいですから、あまり寮の食堂ではお食べになられへんのです。時間も不規則ですし、手の空いたもんが隊長室に届けておりますよ」
「そうだったんですね」
「で、雪さんの質問は、隊長の好きなもん、でしたよね。うぅん、あの人、顔色一つ変えずになんでも食べはりますからねぇ」
椿は味噌汁の味をみながら、「あ、でも」と顔をあげた。
「雪さんの料理は気にいってはると思います。最初に雪さんが作った料理を食べた日に、誰が作ったか気にしてはりましたから。悪くない、とおっしゃってましたわ」
「え?」
「内緒にしてくださいね。こういうの、照れはるんです」
「それは、もちろん」
雪も藜においしかったですかと問うのはなんだか恥ずかしい。
「後は……、あ、そうや。隊長、隠してはるつもりでしょうけど、甘党やと思います」
「甘党?」
あの藜が? 冷酷無慈悲で横暴な藜が、甘いものが好き?
いまいち想像できない。雪が目をぱちくりさせると、椿は含み笑いをこぼした。
「まあ、本人は口に出しはりませんからね。わたくしの勘が正しければ、ですけど」
「そうなんですね。それじゃあ、今度は甘いものでも作ってみようかしら」
「はは、それはええ案やと思いますよ。隊長も喜びはると思います」
「わかりました、ありがとうございます」
会話がひと段落したところで、ちょうど米の鍋からフツフツと煮える音がして、椿が具合を見に戻る。
雪もまた、椿から教えてもらったことを記憶して料理を再開する。
藜のことをひとつ知れた。それだけのことなのに、なぜか嬉しくなる。藜の自然な笑みを見たときと同じような心地だった。