二、本当の夢
文が現れてから、書物庫整理は驚くほど進んだ。
なにせ、文はこの書物庫から生まれた妖である。自らを姫と名乗るだけあって、手出しこそしないものの、やれその書物は右だの、やれその文献は左だのと的確に指示を出す。雪はそれに従って紙をまとめ、棚へと移していくだけだ。
妖に使われる半妖とはこれいかに。そう思わなくもないが、雪としても早く片付くだけでなく、妖であることを隠す必要のない――心おきなく話せる相手がいるというのは心地がよかった。
「あっという間に、こんなに片付いてしまいました」
書物庫に乱立していた書類の山が数えるほどになり、雪はホッと息をついた。
文と出会ってから、ここまで三日とかかっていない。まさに紙さま、文姫さまである。
そんな雪に、文もまた満足そうな顔を見せた。
お互いに少し休憩しようと、雪は文机からいつもの椅子を引っ張り出して腰かけ、文は文机に直接座る。
以前、お行儀が悪いですよと冗談半分に雪が指摘したところ、背丈の低い文は、こうして座るとちょうど雪と視線が合うからよいのだと嬉しそうだったので、それ以上は雪も言及しないことにしている。
出会ってからというもの、休憩時間に他愛もない話や妖と人の違いについて話をするのが、すっかり二人の日課になっていた。
「ところで、そちに聞きたかったのだが、こんな男所帯でいい相手はおらんのかえ?」
「え?」
今日の話題はどうも恋愛話らしい。
もともと、文車妖妃というのは恋文にこもった念から生まれるというから、文にもそういう気質があるのかもしれない。文は、この書物庫の書物から生まれているが。
対して雪は、恋愛に疎い。幼いころは、長治と結婚するなどと言っていたらしいが、それも子どもによくある恋愛と親愛を取り違えたような話で、それ以降、長治を支えるので精いっぱいだったから、考えたこともなかった。
「ここの男どもは、わらわから見ても美形よのう。そちのことも、憎からず思っておるようじゃし」
「そ、そんな! た、たしかに、みなさんとっても素敵なかたで……、その、なんといいますか、よき同僚、とでもいうのでしょうか。丁寧にお仕事を教えてはくださいますが」
「なんと! そちはあれだけの男が隣にいて、みな、仕事仲間とな!?」
「そもそも、みなさんとわたしでは釣り合いませんよ!」
文につられるように、雪は珍しく声をあげた。文はそんな雪に驚いたのか、
「そ、そんなに、否定せんでも……」
と口ごもった。しかし、すぐに思い当たる節があったのか、文はハッと顔をあげる。
「もしやそち、半妖であることを気にしておるのかえ?」
「え? ど、どうしてそれを」
文にもまだ話していなかったのに。雪が目を丸くすると、文は当然というように首を軽く横に振った。
「言わずともわかる。そちの気は変わっておるからの。人にはわからんじゃろうが、妖が見れば、そちが何者か簡単にわかるぞ。だからこそ、わらわはそちを友人に選んだのじゃ」
「なるほど」
妖は半妖を判別できるなど、どの文献にも書いていなかった。それこそ、人にはわからない、ということなのかもしれないが。
「ま、半妖自体珍しいからの。ならば、しかし……」
文がふむ、とその整った愛くるしい顔に手をあてて考えはじめる。
「文姫さま?」
「いや、なんでもない。心あたりはあるが、その……、わらわはあいつを好かんのでな。そちのようなおなごに紹介するのはもったいない」
まるで誰か、雪以外の半妖を知っているような口ぶりである。文が好かないということは、褒められた性格ではないのだろうけれど。
(それにしても、同じように半妖がいるなんて……)
一体どんな人なのだろうと気になる雪に対し、文は心底その人の話をしたくないのか、早々に話題を元に戻した。
「しかし、半妖でも別に問題はなかろうて。ほら、あの術師はどうじゃ?」
「椿さんのことですか?」
「ああ、そうじゃ、そいつじゃ。あやつの気はなかなか悪くないぞ。わらわは、あやつならば雪でも受け入れてくれると思うのじゃが」
「まさか! 文姫さま、失礼を承知で申しあげますが、ここは討伐部隊なのです。妖とわかれば祓うのが彼らの役目なのです」
それがたとえ、あの穏やかな椿であってもだ。椿が手練れの術師であることも、普段から妖を容赦なく討伐していることも、報告書を読めばわかる。椿が優しいのは、雪を人間だと思っているからだ。身寄りのない、妖に襲われたかわいそうな女だと。
もちろん、稲穂だってそうだ。残りの隊員たちも。
だから、雪はここで半妖とばれないように過ごしているし、文も書物庫にいながら普段は息を潜めている。
「そ、それはそうじゃが……」
文も、わかってはいるのか深いため息をついた。
「なんとも世知辛いよのう。そちは、人と妖が交わったからこそ生まれたというのに」
その結果、雪は捨てられたのだろう。おそらく、人の手によって。
それはつまり、交われないことも同然だ。
「人と妖は、絶対に交わらないんだそうですよ」
藜が以前言っていた。
その言葉の意味を、雪は今よくよく実感している。ここに長くいればいるほど、その思いは強くなる。
――それなのにどうして、そう思えば思うほど胸が痛くなるのだろう。
「そち、暗い顔をしておるぞ」
考えていた雪の頬に、文のあたたかな子どもらしい体温が触れる。
その手が怖いだなんて、どうして思えよう。
「……ときどき、思うのです。人と妖が、ともに生きる道はないのだろうかと」
雪は文の手に自らの手を重ねる。雪の手は冷たく、まるで雪のほうが妖のようだ。
「文姫さまとこうしてお友だちになれたように、他の妖や人も、もう少し、わかりあえたらよいのに、と」
それは、雪が感じている孤独を吐露したにほかならない。
こんなこと、今まで誰にも相談できなかった。雪の正体を知っているのは長治と藜だけ。だが、長治には会えず、藜には取りつく島もない。
雪が涙をこらえていると、文が雪の手を握り返したのがわかった。
「わらわも、それを願っておった。桐吾と出会ってから、ずっと」
文の声も切実だった。彼女もまた、雪と同じ、孤独を抱えて生きてきたのだ。妖というだけで。
「わらわたちは、よく似ておるな」
文がふわりと笑う。
雪も、つられて笑った。
こんな風に人と妖が笑いあえる日が来れば、どれほど幸せだろう。そのとき、きっと雪ははじめて自由を手にするのだ。半妖と知るまでの、ささやかな幸せに戻れる。
雪はそのとき、ようやく気づいた。
自分の本当の願いは、きっと。長治に直接会って礼を言いたいだけではなくて。
ただの人間だったときのように、人とともに過ごし、ささやかな幸せが送れるような、そんな世界を望んでいるのだ。
壮大な夢である。だが、それこそが、半妖である雪だけがなしえることなのかもしれない。
「文姫さま、わたし、頑張ります」
雪が呟くと、雪の胸中など知らぬ文は不思議そうな顔をした。
「そちはもう充分頑張っておるではないか」
「はい。でも、もっと、頑張ります」
文にはまだ内緒にしておこう、と雪は自らの夢を胸にしまう。
握っていた文の手をほどこうとし――、ふいにカタンと書物庫の戸が開いた。
「誰と話している?」
その声は、藜のものだった。