十五、終幕に雪は降る
給仕と軍人の身分違いの恋を描いた演劇は、雪の心をこれでもかとゆすぶった。
家を追い出され、軍人に拾われた給仕が、なんだか自分のように思えたのだ。
「本当に戦地へ行かれるおつもりですか?」
「俺は軍人だ」
「あなたさまの命はどうなるのです!?」
涙ながらに軍人を引き止めようとする給仕の姿に、気づけば雪の頬には涙が伝っていた。
ズビズビと鼻をすすっていると、隣から手巾が差し出される。
「へ……」
「使え」
見れば、藜が差し出してくれていた。雪はそれを申し訳なくも、ありがたく受け取って涙をそっと拭う。
そうこうしているうちに舞台が暗転する。
数秒もすると、あっという間に舞台は戦地へと変わった。
(どうしましょう。軍人さまが戦場に……!)
手に汗握る殺陣に雪が息を飲んでいると、隣でピクリと藜の指が動いた。
「……来る」
藜の呟きと同時、雪の背中にもゾッとするような悪寒が走る。
ガキィンッ! 軍人とその宿敵が、鋭く剣を交わらせた音が劇場いっぱいに響き渡った瞬間――、
「うわぁっ!?」
「ひぃぃっ!」
舞台の上に大量の火の玉がどこからともなく現れた。
「火の玉だぁぁああ!」「妖が出たぞぉっ!」「逃げろ!」「火事だぁ!」とあちらこちらから怒号や叫び声があがる。
「狐火だ!」
藜もまたそう叫ぶと、素早く席を飛び出し、逃げ出していく客の間を縫って舞台へと駆けていく。
雪もそれに必死で続くが、その間も、どんどんと火の粉が降り注ぐように客席へ向かってきて中々近づけない。
「っ!」
雪は自らの真横を通り過ぎた熱に耐え、なんとか舞台に向かって走る。
顔をあげれば、雪よりも一足先に舞台へあがった藜が、縦横無尽に飛びまわる火の玉を次から次へと切り倒していくのが見えた。
白金の髪が炎によって赤く照らされ、朱の瞳は火の玉よりも燃え盛っているようだ。
藜の刀によって切られた狐火は、カッとまばゆく輝いて弾け、花火のように散っていく。
その中を踊るように舞う藜は、まるで、演劇の一幕のように美しかった。
と、藜はふいに雪へ目を向け、叫ぶ。
「後ろ!」
反射的に振り返ると、雪に向かって狐火の一つが飛んできていた。
「ためらうな! 祓え!」
藜の声が響き渡り、雪は咄嗟に自らの手を狐火に向ける。
客はすでに会場から避難しており、雪の姿を見るものはいない。
「……っ! お願い! 神さま、力を貸して!」
長治とともに妖に襲われたときも、こうして祈った。
雪はぎゅっと手に力をこめる。
が、あのとき発されたような力は出なかった。
「逃げろ!」
代わりに藜の大声で、雪の目前に火球が迫っていることに気づく。
このまま直撃すれば、雪に衝突した狐火がその場で弾け、雪は丸焦げにされてしまう。
反射的にしゃがめば、狐火は雪の頭上をビュンと勢いよく飛んでいったのがわかった。
「まだ来るぞ!」
が、安心している暇はない。藜が討伐してくれてはいるものの、狐火の数は数えきれない。標的を雪に定めたか、次から次へと雪に向かって飛んでくる。
雪はもはや逃げることで精いっぱいだった。
「こっちへ来い! 雪!」
藜に呼ばれ、雪は舞台へと全速力で駆ける。着物が乱れることもかまわずに舞台へ飛び乗ると、雪が数瞬前までいた場所へ藜の刀が振りおろされた。
「はっ……、こんなことなら、稲穂をかり出すんだったな」
藜は不敵に笑うと、額の汗を拭って荒れ狂う狐火たちを切り刻んでいく。
雪も必死に手をかざして自らの力を使おうと試すも、うんともすんとも言わない。
「なんで!?」
「落ち着け。焦るな。そのまま続けろ」
藜は言いながら、雪を守るようにして刀をふるい続けていた。
が、藜が乱れた呼吸を整えるために動きを止めたそのとき――、雪は、藜の背後から勢いよく狐火が飛びかかっていくのが見えた。
「藜さん!」
雪の決死の叫びもむなしく、藜と狐火の距離は縮まるばかり。しかも、藜は雪を守っているせいで、目の前からも迫りくる火球も処理しなければならない。
このままでは、藜が燃えてしまう。
(お願い! 神さま、力を貸して!)
狐火と藜が衝突するまでのごくわずかな時間が、雪にはまるで長い時間のように感じられた。
(お願い!)
雪は自らの手をこれでもかと高く掲げ、勢いよく振りかざす。
「藜さんは、絶対に死なせない!」
雪がそう叫んだ瞬間。
ゴウッ! すさまじい風が吹きすさび、手から勢いよく吹雪が現れた。
藜の背後に迫っていた狐火が霧散したかと思うと、吹雪はそのまま劇場全体を駆けめぐり、一瞬にしてすべての狐火を吹きとばす。
やがて、客席のあちらこちらに雪が降り積もり、キィンと耳が痛くなるほど会場の空気が冷たく静まり返った。
「はぁっ……、はぁっ……」
雪の乱れた呼吸が白く浮かびあがる。
「……やった、の?」
一気に体から力が抜け、雪はその場にへたりこんだ。体が重く、足が震えて動けない。
雪が、眼前に広がった銀世界を見て呆けていると、
「ふ、はは、はははっ」
頭上から子どものような笑い声が降ってきた。その声に雪はハッと顔を動かす。
「そうだ! 藜さん! ご無事ですか!?」
「ああ、おかげさまでな」
振り返れば、藜は屈託のない笑みを浮かべていた。
その表情を見て、雪の胸に安堵と喜びがどっと押し寄せる。
藜を守ることができた。その事実だけでも充分なのに。藜の笑顔が見れたのだ。
いいようのない幸福感に包まれ、どうしてか雪は目頭がカッと熱くなった。嬉しいはずなのに、なぜか胸がいっぱいで涙がボロボロとこぼれる。止めたくても止められなかった。
「……本当に、よかったです」
雪がようやく言葉を振り絞ると、藜は苦笑しながら手巾を差し出す。
「泣くな。雪になるぞ」
藜の言うとおり、力がまだ体内に残っているのか、こぼれていたはずの雪の涙はハラハラと六花に変わっていた。
雪は自分を落ち着かせるために深呼吸を繰り返し、藜から受け取った手巾で涙を拭う。
「ありがとうございます」
雪が手巾を返すと、藜はいつになく柔和な笑みを浮かべていた。
ドクン、と心臓が高く脈打って、雪はなぜか恥ずかしさに視線を外す。
と、客席の奥で、なにやら白いものが動いたような気がした。
雪が違和感を感じたそのとき、
「まさかお前に守られるとは。よくやった。まあ、随分と派手にやったがな」
藜から褒め言葉が聞こえ、その珍しさに、つい雪は「え」と声を漏らしてしまう。
見れば、当の藜は不思議そうに雪を見ていた。
「い、いえ、なんでも……。ありがとう、ございます」
藜に褒められた。その事実が雪の体温をぐっとあげる。顔が熱いのは、きっと狐火のせいだ。
雪は藜に火照った顔を見られぬよう、目を伏せた。
舞台に積もった大雪がキラキラと輝いている。その輝きは、どこかあたたかく感じられた。