十一、試される信頼
「妖、討伐……」
覚悟していたはずなのに、くらりとめまいがした。
長治とともに飲みこまれたあの日の深淵が足元に広がり、どことも知れぬ暗がりへ引きずりこまれていくような気がして、雪は思わず机に手をついて体を支える。全身の力が抜けるとはまさにこのことだ。
雪は制御不能な震えに襲われながらも、歯を食いしばってなんとか背筋を伸ばした。
藜は、雪のことなど気にも止めず、机に並んでいた資料を一枚抜き出して続ける。
「最近、小火騒ぎが多いことはお前も知っているな?」
雪に心の整理をつける暇など、藜は与えてくれない。
「先日、椿さんがおっしゃっていた……」
雪がそう切り出すと、藜は肯定するようにうなずいて、
「読んでみろ」
と資料を雪のほうへ差し出す。
雪は命令されるがまま震える手で資料を取り、書かれた文字を読みあげた。
「今月報告された、帝都での小火騒ぎおよび大火事はすでに数百にのぼる。特に、城下町での小火騒ぎが多く、人為的なものを除いた自然的あるいは妖によるものと思われる発火は半数を占める」
「今までは調査にとどまっていたが、あまりに被害が出るのでな。帝より直々に軍部へこの妖を特定し、討伐するよう命がおりた」
「帝直々に……」
「西の京へ椿を送ったのもそのためだ」
「もしかして、稲穂さんの遠征というのも?」
「ああ。稲穂は北の調査だがな。稲穂からの報告書も合わせ、早急に動いたほうがよいとの判断になった」
「それで、わたしにその妖を討伐しろ……、と?」
なぜ急に自分が?
雪が震えを押し殺して藜を窺うと、藜は不敵な笑みを浮かべた。
「丙種の妖を討伐したお前が、今さら怖気づいているのか?」
あの日以来能力を封じているせいか、改めて自分が半妖であると突きつけられると、なんとも言えない苦々しい気持ちで胸がいっぱいなってしまう。
雪が言葉に詰まると、藜はそんな雪を鼻で笑った。
「何を恐れることがある」
「わたしは……、いまだに自分の力がなんなのかも、制御する方法も、知らないのです。だから」
藜によると、雪は、雪女か雪男の血を引いている。だから、雪を操ることができたのだという。
だが、その力の発動条件も、どのように制御すればよいのかも、雪は何も知らない。
あの日は無我夢中だったし、あの日以来は妖であることを悟られぬように息を潜めて生活をしてきたのだ。
それなのに、いきなり妖討伐だなんて。
雪が困惑していると、藜は先ほどまでの嫌味な笑みを引っ込めた。代わりに、呆れにも似た息を漏らす。
「安心しろ。僕がいる」
いつもの冷酷な声だったのに、なぜか自然と雪の心を落ち着けた。
「……え」
「お前一人で討伐しろとは言ってないだろう。僕も隊長として、部下を見殺しにするような真似はしない」
雪が驚いていることがよほど心外だったらしい。藜は眉をひそめて、
「それとも、僕がそんな人殺しに見えるとでも?」
と雪を睨みつけた。
そうだ、とは言えず、雪は「い、いえ」となんとか否定を口にして藜から視線を外す。
藜のため息を耳で聞き、雪は目を自らの手元に落とす。
藜がいれば安心できる。だが、同時に、やはり怖さは消えない。
でも……。生きるためには、やるしかない。
藜は雪を見殺しにしないと言った。安心していい、と。藜の強さは、雪もこの目で見ている。
それに。
藜は怖い人だが、それだけではない。優しい人だと知ってしまった。
ならば、雪は藜を信頼しなければ。
そして、雪自身も、藜に認められるだけの力をつけねばならないのだ。
「……わかり、ました」
雪がうなずくと、藜の切れ長の美しい瞳がほんの少しだけやわらいだ。
「お前のそういうものわかりのいいところは、悪くないな」
馬鹿にされているのか、それとも本気なのか。藜の顔からは読み取れなかった。
藜はすぐさまいつもの冷淡な表情で「とにかく」と切り出す。
「お前はすぐにでも勉学に励み、己と妖の力を知れ。力の制御は、実践をつめばそのうち慣れる。それまでは、お前が死なないようになんとかしてやる」
藜自身も、そうして経験を積んで強くなってきたのだろうか。まるで知っているかのような口ぶりだった。
いつもは横柄にも感じられるこの断言口調が、今は頼もしいなんて。雪も大概おかしくなってしまったものだ、と思う。
「死なないように、頑張ります」
「どれだけやれるか見ものだな」
「わたしはまだ、死ねませんので」
少なくとも、長治に今までのお礼を言うまでは死ねないと心に決めた。
そうでなくても、この部隊に所属してからの恩を藜に返すまでは死ねない。
いつもより強気な雪の答えに満足したのか、藜はやはりフンと鼻を鳴らして不敵に笑う。
だが、見慣れてきたのか、それとも妖討伐というもっと怖い任をいただいたからなのか、もう藜の笑みも怖くはなかった。
「資料は持っていけ。明日の朝、今までの資料もすべて書物庫にまとめておく。好きに見るといい。討伐は三日後の夜だ。いいな」
三日後の夜。
思っていたよりも早い実践だ。
それまでにどれだけの知識を詰めこみ、理解できるかはわからない。
雪の力がどれほど役に立つのかも。
だが、これは藜がくれた好機かもしれない。
雑用ばかりの雪が外に出る機会でもあるし、ここで役に立つことができれば、より早く信頼を勝ち得ることができる。
自由に外出できるようにさえなれば、長治に会える可能性だって高まる。
恐ろしいことにはもう慣れた。これまでの人生で散々経験してきたのだ。今さら、怖気づいていてもしょうがない。
「わかりました」
雪は藜から受け取った書類をしっかりと抱え、いよいよ討伐に向けて覚悟を決める。
「わかったなら、さっさと寝ろ。明日から忙しくなるぞ」
藜はもう雪を見ていなかった。しっしと追い払うように手の甲を向けて、書類に向き直っている。
藜ほどの実力があってもなお、彼は部下や国民たちのために誰よりも遅くまで働いているのだ。
雪がこんなところで弱音を吐いていてはいけない。
雪は自身を律して、隊長室を後にする。
「ありがとうございました!」
礼を告げて隊長室の扉を閉めようとしたそのとき、雪は扉の隙間から藜にふっとやわらかな笑みを向けられたような気がした。
「え?」
まさか、あの藜が雪に優しい笑みを向けるなんてありえない。
でも。
確かめようにも、すでに自らの手で扉を閉めた後だ。もう一度開けたところで、怪訝な顔をされるのがオチだろう。
「まさか、ね……」
雪はありえない、と一蹴して、藜のやわらかな笑みを頭から追い出した。