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朧月夜の雪花奇譚  作者: 安井優
雪の章
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十、勉学と任務

 その夜、(ゆき)は隊長室の扉の前でゴクンと唾を飲みこんだ。


 稲穂(いなほ)との一件で、この部隊が背負っているものを理解するためには、(あやかし)の存在や妖と人との関わりについてもっと知らなければならない、雪はそう気づいたのだ。


 だが、意気込んだものの、結局、一体どこからどう手をつければよいかわからない。頼れる人は、と考えていた雪の足は自然と隊長室に向いていた。


「どうしましょう……」


 本当ならば、稲穂に謝罪して、稲穂に聞くのがよいように思える。が、遠征帰りだった稲穂は早々に就寝してしまっていた。


 やっぱり今日のところは諦めて、明日、稲穂にでも聞いてみようか。雪の頭にそんな考えが浮かぶ。椿(つばき)が遠征中でなければ、椿に相談できたのに、とも。


 もう遅いし迷惑になっても、と背を向けた雪に声がかかる。


「何か用か?」


 反射的に「ひ」と雪の口から悲鳴が漏れた。


 雪がゆっくりと振り返ると、開かれた隊長室の扉の隙間から、怪訝な色をたたえた(あかざ)の紅い瞳が覗いている。


「こんな夜更けに部屋の前でウロウロするな。気が散る」


「す、すみません」


「で? 何の用だ」


「い、いえ、その……」


 委縮して頭がすっかり真っ白になる。何をどう話すべきか迷っていると、藜の顔もますます険しくなった。


「僕の寝首でもかこうと思ったか?」


「まさか!」


 それだけは絶対にありえない。雪が否定すると、藜は「じゃあ、なんだ」と問い詰める。言葉にはしないまでも、藜の冷めた目が、早く言えと雪をせっついていた。


 このままでは本当に何かよからぬことをたくらんでいると疑われてしまう。


 まとまらない思考のまま、「実は」と切り出す以外ない。


 雪はつまりながらも、なんとか思いを言葉にした。


 討伐部隊について。妖について。妖と人との関わりについて。もっと知りたい。知らなければならない。そう感じた経緯も、今感じている思いも、すべて。


 自分の無知を恥じながらも、なんとか雪は話を終える。


 安堵したのもつかの間、藜の冷めた声が頭上から聞こえた。


「それで?」


「あ」


 雪はしまった、と即座に顔をあげる。


 自分の話にすっかり夢中で、藜の顔色など窺う余裕もなかったのだ。


 反射的に謝罪の言葉が出かかった瞬間、雪は、藜の美しい紅色の瞳がただまっすぐに雪を見据えていることに気づいた。


 そこにあるのは否定でも、雪に対する侮蔑でもなく、純粋な興味と関心で。


「僕にどうしてほしい?」


「え」


「頼みごとがあって来たのかと思ったが。回りくどいのは嫌いなんだ。用があるならさっさと言え」


「頼みごと、と言いますか……。その、藜さんなら詳しいのでは、と思いまして……」


 雪はぎゅっと拳を握りしめ、覚悟を決める。


「わたしに、ご教授くださいませんか!」


 雪は一思いに言い切ると「お願いします」と勢いよく頭をさげた。


 返答までの長い沈黙が、雪に重くのしかかる。


 藜が雪の頼みごとを聞く義理などない。ましてや、藜は隊長だ。もちろん、もっとも知識がありそうで適任だと言えばそうだが、隊長としての仕事で忙しい藜が雪に特別講義をする時間はないに等しい。


 用があるならさっさと言え、と半ば脅されて素直に打ち明けたが、やはり、どう考えてもこんな頼みごとを藜にするべきではなかったかもしれない。


 考えれば考えるほど、さげた頭をあげる勇気が失われていく。


 いたたれなくなった雪が謝罪の言葉を口にしようとしたところで、


「そんなことか」


 藜の淡々とした返事が聞こえ、雪は面食らった。


「そんな、こと?」


「ああ。別にかまわない。むしろ、お前自身は討伐部隊の隊員として知らないことが多すぎるからな。いずれ、椿に頼もうと思っていたくらいだ」


「えっ、それじゃあ……」


「能なしはうちの隊には必要ない」


 嫌味とともに、藜は「来い」と隊長室の扉を開けて、雪を中へと招き入れる。


 雪が藜に指示されるがまま扉を閉めると、藜はドカリと自らの指定席へ座り、袖机の引き出しを開けた。


「こっちへ」


「はい」


 藜に生殺与奪の権利を握られている雪にとって、彼の命令は絶対である。


 緊張気味に藜が書類を広げている机の前まで向かえば、藜は雪に鍵を差し出した。


「これをお前にやる」


「え?」


 見たことのない鍵だ。雪が困惑を隠さずにいると、


「書物庫の鍵だ」


 藜はそう言って、雪の手に無理やりその鍵を握らせた。


「え、でも」


 たしか、書物庫には重要な書類がたくさん保管されているから、と雪は、初日に案内された際に椿から立ち入りを禁止されたのだ。


 見てはいけないものも中にはたくさんあるのだろう、と雪はすっかり書物庫のことなど諦めていた。


 雪が戸惑っていると、藜は「かまわない」と一蹴する。


「勉強に必要な書類はすべてそこに揃っているからな。お前の立ち入りを許可する」


 藜の目は真剣で、そこには嘘も罠もない。


 どうやら、本当に立ち入ってもいいということらしい。


「あ、ありがとうございます……」


「勉学に励むといい」


「はい!」


 まさか、藜自らこんな風に言ってくれるとは思ってもみなかった。雪は嬉しさのあまり飛び跳ねそうになる気持ちをぐっとこらえる。


 勉強のための書類が一式揃っているのであれば、忙しい藜の手を(わずら)わせることもない。自分の好きな時間に勉強もできる。雪の気持ちとしても楽だ。


「早速、明日から勉強させていただきます!」


 雪は絶対になくさないように、と鍵を胸元にしまって頭をさげた。


 やはり、藜は怖くて冷淡に見えるだけで、少し不器用なだけの部下思いのよい上司なのかもしれない。


 雪がそんな風に考えていると、


「ただし、タダじゃない」


 藜の一言が、弛緩していた空気をピリリと引き締めた。


 どういうわけか、急に嫌な予感がする。よい上司という評価を撤回したくなるほど。


 閉口した雪の目には、藜の深紅の瞳が獰猛に輝いているようにすら見えた。


「お前には、新しい仕事をしてもらう」


 それは、覚悟を決めた軍人の顔だった。


 机上に置かれた洋灯(ランプ)が、藜の端正な顔立ちに影と憂いを浮かびあがらせる。


 よい仕事でないことは間違いなかった。


 だが、雪にはもとから断る選択肢などない。


「……なんの、お仕事でしょう」


 雪もまた、決心して藜を見据える。


 どんな仕事でも引き受けなければ。自分の存在価値を示さなければ。雪は、ここでは生きてなどいけないのだから。


 寝床も、職も、食べものも与えてもらった。それだけでなく、新しい着物も、綺麗な洋装(ドレス)も買っていただいた。


 さらには、勉強までさせていただけるという。


 これだけのご恩を、どのように返せばよいのかわからないほどに、よくしてもらっている自覚はある。


 雪が藜と対峙すること数秒、重苦しい空気を薙ぎ払うように、藜は言い放った。


「お前に、妖討伐の任を与える」

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