4. 彼女の名前
いつの間にか立ち去ってしまった黒髪の彼女を追う。ここまで歩いてきた道のりを全速力で引き返す。この道を辿って公園を一周すれば元の世界に帰れる。きっと彼女もそうするはずだ。このまま公園の外側を回れば彼女の背中を捉えられるだろう。
音が遠く、鮮やかさの無いこの世界。周りに広がるのは見慣れた街の景色だが、音質も画質も悪い映像を見ているような視界だ。
一周の7割辺りまで走ったところでようやく歩く彼女の後ろ姿が見えてきた。ただ、俺が一周するまでに追いつけそうにない。既に彼女は駄菓子屋の傍にあった赤い郵便ポストの近く、一周し終えるくらいのところにいた。
彼女の後ろ姿が、淡い朝の日差しに溶けるみたいに消えていく。そして彼女の姿は完全に無くなった。
俺も一周して赤いポストに辿り着く。その先にはあのユーレイ駄菓子屋は存在せず、眩い世界が続いていた。目を開けていられない程ほとんど真っ白で、奥には微かに街の輪郭が見える。
俺は走ったままの勢いを殺さず、真っ白な世界に飛び込んだ。
あまりの眩しさに目を閉じる。
…………走り抜けると、目蓋越しにも感じられた強い光が消えた。
走り続けて、世界を渡るような感覚を肌で感じることはなかった。ゆっくりと目を開く。
いつもの街並みが視界に広がる。天気が良い。日差しが肌を焼く感覚が蘇ってきた。音も色も明瞭になる。元の世界に帰ってきた。
俺は周囲を見回した。だが、彼女の姿はどこにもない。見失ってしまった。
おそらく彼女もこっちの世界に戻ってきたはずだから、ここからそう遠くへは行っていないだろう。でも、どの方向に行ったのかわからない。これじゃあ追跡は不可能か…………
「おっ、ユウじゃん。こんなとこで何キョロキョロしてんだ?」
「――ッ!」
急に背後から話しかけられた。振り返ると――親友のタケトがいた。人を小馬鹿にする笑顔を俺に向けて。
「タケト! あの女見なかったか!? 幽霊の!!」
「女の霊?…………あー、あれか。やっぱり俺の言うとおりに調査してるんだな。えらいぞ」
近くにいたタケトなら彼女を見かけているかもしれない。
「そういえば、そんな感じの黒髪の女子高生とさっきすれ違った気がする。たしか…………あっちの方」
タケトが指差した方向は公園から遠ざかる方に伸びる道。
「わかった! サンキュータケト!!」
「待てよ、俺も一緒に行くぜ」
俺はタケトに感謝を述べて別れようとすると、タケトは同行の意を示した。そうして俺はタケトと2人で黒髪の幽霊探しを始めた。
右も左も家屋が建ち並ぶコンクリートの道を進む。コンクリートは太陽に晒されて、熱されたフライパンのように俺たちを炒めてくる。幾度か突き当たりで右左折を繰り返す。
だが彼女の姿は見当たらない。完全に見失ってしまった。やはりタケトが彼女とすれ違った地点の情報だけでは追跡は難しかった。
俺は鬱陶しい蒸し暑さと彼女が見つからない焦燥感から弱音を吐いた。
「参ったな、どこ行ったのか全っ然わかんねぇ」
「俺があいつとすれ違った場所はもう通り過ぎてるし、こっちじゃないのかもしれねえ」
こっちの道は諦めて、引き返そうと後ろを振り向くと、
「――――あ」
見つけた。
電柱の裏、体を隠して顔だけ出してこっちを凝視している、俺たちのお尋ね者の姿があった。わざわざやましい事情があるみたいに隠れてこちらを覗き見るその様子はさながら変質者、ストーカーだ。
俺たちは彼女を追いかけているつもりだったが、いつの間にか俺たちが追いかけられる側になっていたみたいだ。
俺たちがゆっくり彼女の方に歩いていくと、彼女も電柱の裏から出てくる。
「なんで私を追うの?」
意外にも先に口を開いたのは彼女だった。追跡していたこともバレている。
なんで、と言われても理由に困る。ただ、なんとなく…………。俺はその漠然とした「なんとなく」を即興で言語化した。
「えっと………………気になるというか……興味があるから。意外と優しいし」
彼女はコマルに冷たい言葉を残して見捨てたように見えたがそうではなく、そのあと彼女なりの方法でコマルを助けようと行動していたんだ。そんな、意外と人間味のある彼女に少し興味を抱いたのは事実だ。
「……………………」
彼女は何も答えず固まっていた。不思議に思ってこっちから声をかけようとすると、ふいに振り返った。背を向けて、何も言わずにスタスタと歩いて行ってしまう。
俺は隣のタケトと目を合わせ、意思疎通した。彼女を追いかける合意を。
去っていく彼女を早足で追いかけ、追いついた。彼女の両サイドから2人で挟むように位置取る。逃げられるのを阻止するみたいに。
それから歩きながら彼女に質問攻めした。
「君、名前は?」
「………………」
俺が尋ねても答えない。
「体重は?」
「………………」
「タケト! 女子に体重とか聞くなよ! てかユーレイに体重なんか聞いてもしょーがないだろ!!」
「死因は?」
「直球すぎだろ!!」
「じゃあ無難に…………好きな食べ物は?」
「………………」
相変わらず何を聞いても何も答えない。次は俺の質問。
「好きな色は?」
「………………みどり」
やっと答えてくれた。
「趣味は?」
「………………」
今度は答えてくれなかった。
「異性のタイプは?」
「………………」
こちらも相変わらず、初対面でデリカシーの無い大胆な質問ばかりするタケト。当然返答はない。
ここまでで得られた彼女の情報は好きな色が緑ということのみだ。ふと、自分たちの行動を思い返すと、夜の街で通り過ぎる女性にしつこく粘着するナンパ師とほとんど変わらないような気がしてすごく惨めな気持ちになった。
それでも彼女のことをもっと知りたい。次は何を聞いてみるか、そんなことを考えていると――――突然彼女は走り出した。俺たちに背を向け、全速力で。
彼女は逃げだしたんだ。多分俺たちの質問攻めがあまりに鬱陶しくて。特にタケトの質問が。
「あっ! 待て!!」
タケトが慌てて引き留めようと声を上げる。彼女は振り向こうとすらしない。
俺はタケトと共に彼女を追いかけ始めた。再び俺と彼女の炎天下の追いかけっこが始まってしまった。
彼女、幽霊のくせに躍動感あるフォームで全力疾走して俺たちを引き離そうとする。膝上の丈のスカートを大胆にバサバサと揺らして。彼女との距離が離れることはあっても縮まることはない。暑い中、俺は彼女を見失わないようにするだけで精一杯だ。
住宅街を抜け、田園地帯に出た。田んぼに生え揃う青々とした稲たちが日差しを受けて輝く。見渡す限りに田んぼと畑が広がり、その奥にはこの小さな街を、世界を取り囲むように山々が連なっている。そしてそれらすべてに覆い被さる青空には、薄いうろこ雲が漂っていた。
全身汗だくでヘロヘロになりながらも走り続ける。前方20メートルほど先を走る彼女を一心に。やりたくもない真夏の地獄マラソンの気分だ。それでもただのマラソンとは違う、妙な高揚感をわずかに感じていた。存外悪い気分でもない。
なんだか今日はずっと街中を動き回っている。もうじき今日動く分のスタミナは切れてしまうだろう。足はクタクタで、このまま彼女を追いかけていたら家に帰る体力すら残らなそうだ。だが、それでも構わない。今は彼女を追いかけているのが――――楽しい、かもしれない。
気が付けば遠くに見えていた山々がほとんど目の前まで迫っている。思っていたよりもあの山は遠くなかったのかもしれない。
そして、いつの間にか隣を一緒に走っていたはずのタケトがいなくなっていた。あいつ、どこでギブアップしたんだ。まあタケトはいてもいなくてもどっちでもいい。彼女に用があるのは俺だけだ。
彼女は舗装されたコンクリートの道路から、山の中に続く山道に足を踏み入れた。山の中に逃げる気だ。
山の中の道はすぐに階段へと変わった。木材を土の斜面に埋め込んだだけの低コストの階段だ。
ここまでずっと走ってきて体力の限界が来ているのに、さらにここから階段登り。俺は完全にバテて、最早普通に歩くよりも遅い速度になっていた。牛の如き遅い歩みで、一歩一歩を着実に踏みしめる。でも、それは前を進む彼女も同じだった。
階段を登り続け、途中にあった古びた神社を素通りし、やがて見晴らしの良い山頂まで辿り着いた。山頂辺りは木々が開けて芝生の小高い丘のようになっている。振り返れば今まで俺たちが走ってきた道のりと、俺たちの住む街が小さく見える。
彼女は山頂にてようやく足を止めた。彼女はもう逃げ道を失い、追い詰められてどこにも行けない。逃げるのは諦めたようだ。
俺は息切れと全身から湧き出る汗の感覚で今にも倒れそうだ。一方、彼女は全く息が乱れておらず、それどころか追い詰められているにもかかわらず薄い笑みを浮かべている。幽霊だから息が乱れないのも当然か。
しかし、よく見ると彼女の制服の白いシャツはかなり汗ばんでいるように見える。全体的に薄らと白い肌が透けている。幽霊なのに汗は掻くのか? それとも彼女が暑い中を走ったという事実を加味して脳が勝手に汗を掻いているように見せている、言わば幻覚のようなものか。あるいは彼女がそう見せているのか。
なんにせよ、それは俺には知り得ないことだ。考えてもしょうがない。とりあえず、俺は彼女に話しかけた。
「なんで…………逃げるんだよ…………」
まだ息が整いきってなく、言葉が途切れる。
「私ね、幽霊が見えるの」
涼しい顔で彼女は言った。俺の問いは無視で、また脈絡の無いことを言い出す。
「幽霊が見えるってそりゃそうだろ。お前も幽霊なんだから。コマルちゃんとも話してただろ?」
彼女に何を聞いてもまともに答えてくれる気がしない。でも、それでもひとつだけ。あれだけはどうしても聞いておきたい。
「俺の名前は六隈遊。漢数字の六と、目の下の『隈』の隈でリクマ。ユウは漢字の遊ぶ。君の名前は?」
そう、せめて名前くらいは聞いておきたい。彼女のためにこっちが自己紹介したことで名乗りやすい流れを作った。いや、名乗らざるを得ない空気を作ったと言う方が正しいかもしれない。誘導自白だ。
「…………季節の『春』に、野原の『野』で、春野」
春野。名字か。
「下の名前は?」
すると、彼女は首を横に振り、
「――私はハルノ」
そう、彼女は答えた。俺に初めて見せる小さな微笑みと共に。その微笑みは、爽やかな秋の涼風を呼び寄せた。
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